評論家、加藤周一さん(2008年12月5日に亡くなられた)、ご健在の養老孟司さん、お二人とも東京大学の医学部、年代は異なるが当代の知識人と言えるのではないだろうか。どこぞの大学出てればどうこうというのではないけれど、興味を持ったのは養老さんは医者で人体解剖の学者さん、一方、加藤さんは評論家となられた方でこれまた、知の巨人と称された方。僕がいうところのしがらみを捨てきったと思われるカトリックの洗礼を受けられ、生涯を終わられた方である。先のブログの女性作家の比較にはならないだろうけれど、いずれも他方はイエス(キリスト)と繋がった方であったということです。
◆養老さんはこの肉体の解剖を何千と行われて来られた経験からの思いを綴る。養老孟司さんの表題の本はこれから読むだろうけれど、その内容は僕が書いてきたブログの断片にも通ずるところがあるように思われたのだ。天地創造の父なる神が自分の似姿に創造されたというその人間を調べれば神を知り得るのではなかろうか・・・と言うことで、昔、医学が始まったと思われるから。
人体の苦しみを救いたいとは、古代からあったものだろう、インカだったかアステカだったか、人の頭蓋骨に穴を開けて手術をしたらしいというものが見つかっているという写真を見たことがあった。いずれ、人の苦しみを願い、思い、念ずることにより解放したいという思いは、人という生き物にはつきまとっていたし、今もそうである。古代のそのようなシャーマン(呪術家)から解放され、「学」として誰にも当てはまる一般化としての言語化が行われてきて今の僕らのいのちの延長に寄与しているのだが、「学問」にするにはやはりシャーマンだけでは駄目で、ここにもやはり言葉による普遍化が行われるには、永遠普遍の人類を創造したという神の概念(ことば化)が無ければ果たし得なかったものだろうと思うのだ。この人間活動のそれが、まさに責任は思いの中への逃避ではなく、人のつくる社会のその歴史に責任を負うのが当の人であらねば誰が負うのかと、呪術からの解放と言語化を行ったのが、20世紀を見抜いたかのマックス・ヴェーバーだったろうと思う。で、あらゆる意味でというか、この養老さんのこの「感覚と意識」についての見解は、従来の知識人が他の形で述べてきたものに近い内容と思われる。
◆では、以下、表題の新書「遺言」、論壇インタビュー、地方紙から。
***********************************************
「感覚」より「意識」を優先させる脳の特質と、それが社会に与えている「悪影響」について掘り下げ結論を出しておこうと思われたとのこと。動物と違い、人の意識は他者と「同じ」ことを共有しようとする癖があるのだという。「その意識は、意味があると考えるものだけを選び取り、自分が分からないものを『意味がない』と排除してきた。そのことが、社会のさまざまな弊害の遠因になっているように見える」
高度に発達したヒトの脳だけが「イコール」という概念を理解できたため、物々交換や通貨という約束毎が成立した。「言葉を獲得できた理由も、理屈は、一緒」という。「リンゴ」と聞いてあの赤い果実を誰もが思い描くことができるように、実体のない言葉から概念を共有できる。
さらに「平らな道」「温度が変わらない室内」といった「心地よく利便性の高い」都市空間を出現させたのも「この意識が持つ癖が産み出した産物」だという。
逆に感覚は、常に違いを捉える。言葉を持たない動物は感覚を優先させる。感覚で変化を察知出来なければ自然環境に順応できず、危険から身を守ることもできないからだ。
養老さんは、この「意識と感覚の乖離(かいり)」が病的な段階にまで進んでいるのが現代の都市空間だとみる。環境破壊や少子化、食料問題、心の荒廃・・・。人間が本来、生物として持つ感覚をないがしろにして、「分かる」という狭量な意識ばかりを優先させる矛盾--。放置すれば、事態はさらに悪化すると予見する。
養老さんが意識と感覚について深く考えるようになったきっかけは「やはり、解剖ですね」と明かす。これまでに約3千体を解剖してきたが始めた当初は「意価が持つ雰囲気に圧倒された」。姿こそ人間だが、意識はすでにない。それを見ている自分には意識がある。「意識ってなんだ」と思う自分を、遺体が放つ異様な空気が刺激する。「つまり、あれほど自分の意識と感覚が分離する場は珍しいんですよ」。以来、絶えず考え続けてきた問題の「今回は一つの結論」と言う。
***********************************************・・・ 続く
◆養老さんはこの肉体の解剖を何千と行われて来られた経験からの思いを綴る。養老孟司さんの表題の本はこれから読むだろうけれど、その内容は僕が書いてきたブログの断片にも通ずるところがあるように思われたのだ。天地創造の父なる神が自分の似姿に創造されたというその人間を調べれば神を知り得るのではなかろうか・・・と言うことで、昔、医学が始まったと思われるから。
人体の苦しみを救いたいとは、古代からあったものだろう、インカだったかアステカだったか、人の頭蓋骨に穴を開けて手術をしたらしいというものが見つかっているという写真を見たことがあった。いずれ、人の苦しみを願い、思い、念ずることにより解放したいという思いは、人という生き物にはつきまとっていたし、今もそうである。古代のそのようなシャーマン(呪術家)から解放され、「学」として誰にも当てはまる一般化としての言語化が行われてきて今の僕らのいのちの延長に寄与しているのだが、「学問」にするにはやはりシャーマンだけでは駄目で、ここにもやはり言葉による普遍化が行われるには、永遠普遍の人類を創造したという神の概念(ことば化)が無ければ果たし得なかったものだろうと思うのだ。この人間活動のそれが、まさに責任は思いの中への逃避ではなく、人のつくる社会のその歴史に責任を負うのが当の人であらねば誰が負うのかと、呪術からの解放と言語化を行ったのが、20世紀を見抜いたかのマックス・ヴェーバーだったろうと思う。で、あらゆる意味でというか、この養老さんのこの「感覚と意識」についての見解は、従来の知識人が他の形で述べてきたものに近い内容と思われる。
◆では、以下、表題の新書「遺言」、論壇インタビュー、地方紙から。
***********************************************
「感覚」より「意識」を優先させる脳の特質と、それが社会に与えている「悪影響」について掘り下げ結論を出しておこうと思われたとのこと。動物と違い、人の意識は他者と「同じ」ことを共有しようとする癖があるのだという。「その意識は、意味があると考えるものだけを選び取り、自分が分からないものを『意味がない』と排除してきた。そのことが、社会のさまざまな弊害の遠因になっているように見える」
高度に発達したヒトの脳だけが「イコール」という概念を理解できたため、物々交換や通貨という約束毎が成立した。「言葉を獲得できた理由も、理屈は、一緒」という。「リンゴ」と聞いてあの赤い果実を誰もが思い描くことができるように、実体のない言葉から概念を共有できる。
さらに「平らな道」「温度が変わらない室内」といった「心地よく利便性の高い」都市空間を出現させたのも「この意識が持つ癖が産み出した産物」だという。
逆に感覚は、常に違いを捉える。言葉を持たない動物は感覚を優先させる。感覚で変化を察知出来なければ自然環境に順応できず、危険から身を守ることもできないからだ。
養老さんは、この「意識と感覚の乖離(かいり)」が病的な段階にまで進んでいるのが現代の都市空間だとみる。環境破壊や少子化、食料問題、心の荒廃・・・。人間が本来、生物として持つ感覚をないがしろにして、「分かる」という狭量な意識ばかりを優先させる矛盾--。放置すれば、事態はさらに悪化すると予見する。
養老さんが意識と感覚について深く考えるようになったきっかけは「やはり、解剖ですね」と明かす。これまでに約3千体を解剖してきたが始めた当初は「意価が持つ雰囲気に圧倒された」。姿こそ人間だが、意識はすでにない。それを見ている自分には意識がある。「意識ってなんだ」と思う自分を、遺体が放つ異様な空気が刺激する。「つまり、あれほど自分の意識と感覚が分離する場は珍しいんですよ」。以来、絶えず考え続けてきた問題の「今回は一つの結論」と言う。
***********************************************・・・ 続く