続きです・・・
◆人が、物事が分かるということはどういうことなのか、そしてそれを判断するということはどういうことなのか、ということは、先の人という生き物はどういう生き物なのかという、自分を理解する(聖書的には人の創造者である神を知る)一つのルート。脳科学ではそこんところも丁寧に教えているものもあるが、僕らは、自分という生き物はいろいろな制約を受けている上で、考え、生きているなどというところまでは、普段、考えない。ある時点のところで、端折って(つまり、肉体に引きずられる言葉・・・カミュの「異邦人」、ムルソーに言わせれば、「そんなことはどうでもいいのだが・・・」)というのが殆どの人の普段のありようなのだねぇ。例えば・・・、
◆人が分かる(理解する)ということは、それを知り尽くしているという前提が無ければ、完全にどうのこうのということは言えないはず。で、その見解を提示するためには「ある時点(自分が理解したというの処の理解)まではとか」という制限が無ければ正確ではないはずです。これは理解できるかと思います。実は、殆ど人が「そんなぁことは、いちいち考えてねぇよ」という、先程のムルソーの返答にも類似の思考をしているんだが・・・。それで、雁谷さんが理解され紹介された100年前の知識人中江兆民の一刀両断の宗教性に対する見解。すかっとするかもしれない、この見解は、普遍性に訴えようとしているのだろうけれで、100年前の今の自分はそう判断した、という見解で、よく考えなくてもその時代の一人の見解としてのみで消えるものですね・・・ということになる訳です。すると、よく考慮しないといけないのは、この時代のその大知識人は、肉における(これは聖書的表現、獲得、遺伝されてきた)知識集約といえばいいいか、その優秀さだけの披露であって、なんら普遍性がなく啓蒙的な影響も実はない、ということを示すことになるのではないでしょうか。(東大を出て、アメリカの大学まで出て、肉的には優秀なのだろうけれど、雑音しか振りまかない人も僕は知っているけれど。)
◆ところが、われわれはいわゆる頭のいい人には、尊敬の念があるわけで、きっとわれわれを悪くはしないだろう、いいことを語ってくれているのだろうという、これまた、”しがらみ”があるのです。確かに遺伝的に知能の高い人はそれなりの肉における優秀さを引き継ぐ訳で(加藤や養老さんの親がどういう方であったか調べればそれなりに理解される)、これは端的に言えば、イエスが当時の律法主義者への批判であった訳で(「この男が生まれつきめくらなのは、親の罪かこの者の罪か・・・」に対して)、つまり見て、聞いて、優秀であれば神の賞賛であって他は駄目人間、肉的優秀さに人は従えという区別や役割を誰でもそれにという差別まで広げて、その当人の選択枝のない先条件にまで(つまり神の思いにとまでと言おうか)判断をして差別するということにイエスは”否”を示した訳です。(ヨハネ福音書の第九章は僕の一番好きな話で、生まれつき盲目の若者がイエスに開眼され、その事実をもって律法学者と対等に会話をする、そのやりとり・・・)
◆中江兆民といえども何も無から知識を持って生まれて来たわけではないわけだ。知りえてきた知識もしがらみをまとってその時代を生きて残されたきたものなのだから、それを頭で統括しても・・・です。本来、人というものが追究し続けるが知り得ない事に対してバッサリ一刀両断、自分の見解を言い放つ事にたいして、もし真意からそうなのであれば、もともと正確に知り得ないことに回答を出すということになり、その人の見解についてはすべてに於いて疑問を持たざるを得ないと言わざるを得なくなるのではないでしょうか。端的な例を言いましょう。戦争経験者で長年キリスト者であった方が奥様もキリスト者であったが癌で先立たれ、無信者の後妻さんをもたれたのだが、その方は教会にはお誘いしても来ない(無論、人それぞれですから教会にお誘いするが無理強いはしない)。で、その信者の旦那さんが、その奥さんに「あんたは、それでもクリスチャンか」と言われる時があるそうな。それと同じではないかなぁ ということ・・・。デリケートなことだが、僕が”しがらみ”から解放されて、イエスの言葉を自分の言葉として聞くということの困難さを端的に表していると思う。少し乱暴すぎる議論、結論の出し方が横行しているように思われるのですね。ですから、僕らひとり一人は考えることをやめてはいけないのです。
◆それで、次のエリッヒ・フランクの言葉はどうだろう。・・・ 続く
◆人が、物事が分かるということはどういうことなのか、そしてそれを判断するということはどういうことなのか、ということは、先の人という生き物はどういう生き物なのかという、自分を理解する(聖書的には人の創造者である神を知る)一つのルート。脳科学ではそこんところも丁寧に教えているものもあるが、僕らは、自分という生き物はいろいろな制約を受けている上で、考え、生きているなどというところまでは、普段、考えない。ある時点のところで、端折って(つまり、肉体に引きずられる言葉・・・カミュの「異邦人」、ムルソーに言わせれば、「そんなことはどうでもいいのだが・・・」)というのが殆どの人の普段のありようなのだねぇ。例えば・・・、
◆人が分かる(理解する)ということは、それを知り尽くしているという前提が無ければ、完全にどうのこうのということは言えないはず。で、その見解を提示するためには「ある時点(自分が理解したというの処の理解)まではとか」という制限が無ければ正確ではないはずです。これは理解できるかと思います。実は、殆ど人が「そんなぁことは、いちいち考えてねぇよ」という、先程のムルソーの返答にも類似の思考をしているんだが・・・。それで、雁谷さんが理解され紹介された100年前の知識人中江兆民の一刀両断の宗教性に対する見解。すかっとするかもしれない、この見解は、普遍性に訴えようとしているのだろうけれで、100年前の今の自分はそう判断した、という見解で、よく考えなくてもその時代の一人の見解としてのみで消えるものですね・・・ということになる訳です。すると、よく考慮しないといけないのは、この時代のその大知識人は、肉における(これは聖書的表現、獲得、遺伝されてきた)知識集約といえばいいいか、その優秀さだけの披露であって、なんら普遍性がなく啓蒙的な影響も実はない、ということを示すことになるのではないでしょうか。(東大を出て、アメリカの大学まで出て、肉的には優秀なのだろうけれど、雑音しか振りまかない人も僕は知っているけれど。)
◆ところが、われわれはいわゆる頭のいい人には、尊敬の念があるわけで、きっとわれわれを悪くはしないだろう、いいことを語ってくれているのだろうという、これまた、”しがらみ”があるのです。確かに遺伝的に知能の高い人はそれなりの肉における優秀さを引き継ぐ訳で(加藤や養老さんの親がどういう方であったか調べればそれなりに理解される)、これは端的に言えば、イエスが当時の律法主義者への批判であった訳で(「この男が生まれつきめくらなのは、親の罪かこの者の罪か・・・」に対して)、つまり見て、聞いて、優秀であれば神の賞賛であって他は駄目人間、肉的優秀さに人は従えという区別や役割を誰でもそれにという差別まで広げて、その当人の選択枝のない先条件にまで(つまり神の思いにとまでと言おうか)判断をして差別するということにイエスは”否”を示した訳です。(ヨハネ福音書の第九章は僕の一番好きな話で、生まれつき盲目の若者がイエスに開眼され、その事実をもって律法学者と対等に会話をする、そのやりとり・・・)
◆中江兆民といえども何も無から知識を持って生まれて来たわけではないわけだ。知りえてきた知識もしがらみをまとってその時代を生きて残されたきたものなのだから、それを頭で統括しても・・・です。本来、人というものが追究し続けるが知り得ない事に対してバッサリ一刀両断、自分の見解を言い放つ事にたいして、もし真意からそうなのであれば、もともと正確に知り得ないことに回答を出すということになり、その人の見解についてはすべてに於いて疑問を持たざるを得ないと言わざるを得なくなるのではないでしょうか。端的な例を言いましょう。戦争経験者で長年キリスト者であった方が奥様もキリスト者であったが癌で先立たれ、無信者の後妻さんをもたれたのだが、その方は教会にはお誘いしても来ない(無論、人それぞれですから教会にお誘いするが無理強いはしない)。で、その信者の旦那さんが、その奥さんに「あんたは、それでもクリスチャンか」と言われる時があるそうな。それと同じではないかなぁ ということ・・・。デリケートなことだが、僕が”しがらみ”から解放されて、イエスの言葉を自分の言葉として聞くということの困難さを端的に表していると思う。少し乱暴すぎる議論、結論の出し方が横行しているように思われるのですね。ですから、僕らひとり一人は考えることをやめてはいけないのです。
◆それで、次のエリッヒ・フランクの言葉はどうだろう。・・・ 続く