marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

脱線:今日は良い天気、庭のお掃除

2018-03-24 18:40:04 | 日記
 僕はどちらかと言えば、竜安寺石庭のようなとてもシンプルで静かなのが好きなのだけれど(ただ庭の手入れが面倒なだけかも)、亡くなった親父は庭いじりや花がとても好きな人だったので、軒下にはいろいろな鉢がいっぱい。砂地から大きな石を入れたりして庭作りから始めた人で、定住できるところには必ず庭をつくりました。

 今朝、天気が良いので気になっていた庭の落ち葉を熊手で集めると、その下から沢山の芽が出てました。親父がめでていた何やらの花なのでしょう。鉢花には花の名札を書いてさして飾り、大変まめな方でした。終の棲家となった今の処では、花の絵なども描いてました。写真もとってましたがこれは少しお金がかかるなぁと・・・。

 僕は花の名前がわずかしか分からない。花々の本もあるので余裕をつくって少しずつ覚えようと思います。

 それにしても春らしくなって太陽が顔を出すと嬉しく元気になりますねぇ。
 
 落ち葉の下から可愛い黄色の花が顔を出しました。そういえば、親父か描いた葉書大の絵の花は、これかしら?

紹介します。花の名前は分かりません。

          

          

                                                ・・・・  

世界のベストセラーを読む(495回目)(その3)僕が”しがらみ”と語っているさらに難しそうなこと

2018-03-24 07:00:00 | 日記
 ・・・さらに 先の続きです。エリッヒ・フランクの言葉(部分)が掲載されている文章の紹介します。それは、西欧では、つまりキリスト教の伝統のある文化の底辺を考えるにあたって宗教だけではなく常識となっているものです。この僕の国では、そもそも何事についてもそれが常識になっていないところが今も問題なのだけれども。
◆その内容は、特に彼(フランク)がこう言っているということや選び出したというよりも、あの神の子と言われるイエスのことを考えることに対する疑問のあり方、その前提としてのわれわれ人間としてすでに存在する制約について語られているのです。この地上の人類が誰でも素直に雁谷さんのブログのような疑問からさらに進めて根本に疑うことを勧めるが、しかし、まずはその状況設定から考えて見ることが必要なのだということです。つまり、一つの疑問や考えや見解があったとして、その発する人間のそもそもが正しいのか、どういう認識で語っているのか、その人、その土台。”しがらみ”という中で気が付かず制約のある時の中で思考し、言い放っているだけに過ぎないのではないかということなのです。イエスが、律法学者に「あなたがたは、昔の言い伝えに従っているだけだ」と非難されたように、時代から制約を受けないで普遍的に見解を語ろうとすることは、僕らは殆ど不可能にちかい程、困難なことなのです。前置きが長くなったが、その文章とは・・・
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『個人の生が歴史のできごとの流れの中に織り込まれているということは、もちろん新しい考えではない。エリッヒ・フランクが言っているように「個人がそこに自分自身を見出す状況というものは、彼自身及び彼に先立つ人々の人となり、行為、思想の結果であり、取り消すことのできない歴史的な決断の結果なのである。すなわち、人間はこの過去を考慮に入れることによってのみ、考え、行動し、存在することができる。ここに人間の実存の歴史性が存する。」人間は自分の出発点を選ぶことはできない。それでは、彼は自分が到達しようと願う一定の目標を立て、自らの歩まんと欲する道を選ぶことができあるであろうか。人間はいつの時代にもこのことが或る限られた範囲でのみ可能で或ことを知っていた、彼らは環境に依存していることや、生の計画の達成ということにはそれに反対する諸々の力との闘争が含まれていることを知っていた。そして、それらの力はしばしば人間の生具の力よりも強大なのである。彼らは歴史が人間の諸々の行為によってのみならず、運命乃至宿命によっても形造られることを知っている。』
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◆こういう土台から、人間の言葉で素直に疑問を言葉に表してみること、調べること。なぜなら、神の子が自ら地上に父の元から派遣されたと語っている訳ですから、(事実彼イエスはこの地上生まれ、そして死んだのだからと)恐れることなく、言葉にして疑問を人間の言葉で問うて見ようではないか、ということから始まったのです。これは、古典の部類になるか僕が生まれたころに翻訳されたR.K.ブルトマン「歴史と終末論」という神学書の冒頭に出てくる言葉です。キリスト教を少し難しく学んで行くと神様の学問に行き当たりますが、そのことが語られると、それを土台に批判や進展が生じます。(この国では、突発的に誰それがこう語ったというのみの花火の打ち上げのように終わりますが)、神学に拘わらず、西欧に於いては、この人間の歴史についての考え方の土台の上に学問のベースがあるのだということが理解されます。歴代の神学者の紹介の本も神学者、牧師であり、元東京神学大学学長であった近藤勝彦さんの本も以前、紹介したがこのベースは学問の進展の流れで、つまりイエスが十字架上で流された血は、その底辺のもとでわれわれ人類が生きている限り、脈々と流れているのです。
◆その常識である、紹介した文章の中の「~知っていた。~知っている。」は、この僕の国ではどうなのでしょう。以前にも書いたがかの評論家小林秀雄は「この国の歴史は思い出にすぎない」と言った。刹那的視点のこの国は極めてもろいと言わざるをえません。・・・ 続く