「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、
望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っている
のは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」 (ローマ信徒への手紙 第7章15~17節)
◆パウロの言葉を理解できれば、キリスト・イエスの十字架を理解することができるでしょう。これはパウロが当時の律法に
対しての自分の行為の外なる肉としての自分の行為が実際は離反しているという深い内省の声です。
◆キリスト・イエスがぼくらに声を掛けられると、大抵の人は必ずと言っていいほど自分の内なる声、外の肉なる(生まれつきの
疑うことのない、人という動物としての言動)との衝突が生じてきます。外なる人の自由な言動は、前回のブログに書いたとおり
他を評価し、その判断で他の人の否定をし、思考の障害物を取り除くという行いが出てきます。
◆誰でも、自分の立場、その居る位置の自己肯定化のイメージをもっているものです。それを形作っているのは、今までの経験や
体験、何より今まで接してきた、これも他人との言葉との交わりの中から生じて作られてきているものです。
◆では、他人からの言葉によって傷つく人はどうなのでしょうか。ともすれば、弱者目線であるキリスト教は、実はその傷つけ
られたその人の無意識の判断さえ、実は肉なる外の人に形成されてきたその人の判断ではありませんか、と問うているのです。
◆同じ言葉でも聞き流す人もいれば、傷つくという人も居る。しかし、人それぞれは、他人の生き様に置き換えることのできない
今という自分の与えられた生に対応して、生涯を終え次の世界に旅立って行かなくてはなりません。
◆パウロが語る「わたしの中に住んでいる罪」、それは、人という生き物の全般に及ぶことのように思えてくるのです。パウロは
キリスト・イエスの十字架にその解決を見たのです。 ・・・