さて、不条理として掲げた先、相矛盾するようなブログのイエスの言葉なのであるが、(オウム真理教の教祖が死刑となったとのニュースですけれど)、ぼくは宗教の怖さというのは、真の自分の追究というか、すぐにと言わないまでも自分を見つめる言葉を持たざるを得なくなるということが、イエスと体面するときどうしても通らねばならない関門なのだと思うのだが、それが端折られてしまう、その自分で見出す言葉を(教祖なりの言葉)偶像に依存してしまうところにあるように思うのです。
これは何も宗教お宅のような僕が言っていることではない。日本の名だたる仏教の独自の開祖でも、全てその与えられた時代で自分の言葉で解釈をしているところから始まっているように思われますね。そのまま分からぬことを鵜呑みにしない、少なくとも日常係わる事に関しては、他力本願でも究極、自分の言葉で落としどころを求めるように促していると思われるからだ。その総元締めとして私が居るのであると各教組と言われる方は民衆に安堵感を与えてきたのではなかったか。しかし、ぼくらが感銘を受けるのは、孤立無援、一人で孤高にその道を旅をしながら求め続けて来た修行者が仏教者と言わなくともこの国には多くいたことも確かであることです。
◆イエスにそのよう教祖のような対象像を求めようとするとそれは違う事と彼自身言われている。父なる方、お一人しか善いと言われる方は居ないと。「私は、その方の語るとおりに動き、働いているのであると」イエスは言われる。それから言えば、新約聖書のパウロの手紙と言われる著作が、神から啓示(教えられたこと)を最も最初に自分の言葉で著されたものと言えますが、つまり、時代時代に、今を生きているあなたは、生きている聖霊として生きているイエスと語る言葉を持ちなさい、ということになる。しかし、先に書いた関門とは「我に従え」と言われて、多くの人がドン引きするその言葉への解釈なのだが、実は、「従う自分」とは、そもそも何かということを見出していないと、先のように非常に自分を見失う怖いもののように思ってしまう、かえって自分を見失う、のであろうと推察される。
◆「我に従え」とは、この世の基督教会組織に従うことなのか、それでは、オウム真理教と言わずその辺の宗教団体に属するのと変わりなくなる怖さがあるでしょう。宗教とは、そもそも異界(天上界ばかりでなく死後の世界)の境界を無くし、新たに今生と、その異界の識別を個人に迫るのものでもあるから(僕はそう解釈しているのだが)、自分の位置(軸足)を何の条件を課さず自分の言葉で持つことに他ならないと僕は考えている。それがないと心情に流される、キリストにおける自分の言葉を持つとは、それらに流されない、確かにこの地に立ったかの方の十字架の根元が深く地の底にまで打ち込まれていることを確実にすることである。
◆第一、父なる神もその子イエスも現存せず、今生きているぼくらの目には見えないのですから。唯、彼は今も生きて、働き、信ずる者に聖霊により言葉を与え続けていることは、列車に乗っているか、乗り込もうとしている人か、あるいはまったく無関心な人かで大きな開きが出てくるのではないか・・・霊的な解釈においてという意味に於いて。
さて、彼はどこにいるのか。彼は言う。
「あそこにある、ここにあるというものではない。神の国はまさにあなた方の心の中にあるのである。」・・・と
これは何も宗教お宅のような僕が言っていることではない。日本の名だたる仏教の独自の開祖でも、全てその与えられた時代で自分の言葉で解釈をしているところから始まっているように思われますね。そのまま分からぬことを鵜呑みにしない、少なくとも日常係わる事に関しては、他力本願でも究極、自分の言葉で落としどころを求めるように促していると思われるからだ。その総元締めとして私が居るのであると各教組と言われる方は民衆に安堵感を与えてきたのではなかったか。しかし、ぼくらが感銘を受けるのは、孤立無援、一人で孤高にその道を旅をしながら求め続けて来た修行者が仏教者と言わなくともこの国には多くいたことも確かであることです。
◆イエスにそのよう教祖のような対象像を求めようとするとそれは違う事と彼自身言われている。父なる方、お一人しか善いと言われる方は居ないと。「私は、その方の語るとおりに動き、働いているのであると」イエスは言われる。それから言えば、新約聖書のパウロの手紙と言われる著作が、神から啓示(教えられたこと)を最も最初に自分の言葉で著されたものと言えますが、つまり、時代時代に、今を生きているあなたは、生きている聖霊として生きているイエスと語る言葉を持ちなさい、ということになる。しかし、先に書いた関門とは「我に従え」と言われて、多くの人がドン引きするその言葉への解釈なのだが、実は、「従う自分」とは、そもそも何かということを見出していないと、先のように非常に自分を見失う怖いもののように思ってしまう、かえって自分を見失う、のであろうと推察される。
◆「我に従え」とは、この世の基督教会組織に従うことなのか、それでは、オウム真理教と言わずその辺の宗教団体に属するのと変わりなくなる怖さがあるでしょう。宗教とは、そもそも異界(天上界ばかりでなく死後の世界)の境界を無くし、新たに今生と、その異界の識別を個人に迫るのものでもあるから(僕はそう解釈しているのだが)、自分の位置(軸足)を何の条件を課さず自分の言葉で持つことに他ならないと僕は考えている。それがないと心情に流される、キリストにおける自分の言葉を持つとは、それらに流されない、確かにこの地に立ったかの方の十字架の根元が深く地の底にまで打ち込まれていることを確実にすることである。
◆第一、父なる神もその子イエスも現存せず、今生きているぼくらの目には見えないのですから。唯、彼は今も生きて、働き、信ずる者に聖霊により言葉を与え続けていることは、列車に乗っているか、乗り込もうとしている人か、あるいはまったく無関心な人かで大きな開きが出てくるのではないか・・・霊的な解釈においてという意味に於いて。
さて、彼はどこにいるのか。彼は言う。
「あそこにある、ここにあるというものではない。神の国はまさにあなた方の心の中にあるのである。」・・・と