marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(523回目)(その2)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 告白の背後にある本当の出来事に目を留める

2018-07-17 06:00:00 | 日記
・・・前回のメッセージの続き、しかし、ここで僕がいずれのメッセージについても思うのだが、その内容でメッセンジャーが白か黒かの判断を生身の人として箇所されるの言及は(聖職者といえども何処までいっても欠けのある人間なのであるから)やはり、僕らには分からない事ではないのか・・・という疑問がデリケートな部分であるが感じてしまうのではないだろうか(列車の外にいる人びとには特に)。いずれの宗教性に関してもだが異邦人たる大衆から言えば、自己を見失う恐れが生じてくる部分も少し見られてくるが、普段の僕らにとっては、だからこそイエスが言われた黄金律、「精神を尽くし、思いを尽くし、主たる汝の神を愛せよ」であるし、「あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい」となるし、僕らにはその宿題、つまりそう思う、願うという「自分とは何なのか」という、対話する自分の言葉の模索が、日々の祈りともなってくると言っても過言ではないのであると僕は思うのです。早い話、私という今を生き、言葉を聞いている自分という媒体そのものについてです・・・・それを突き抜ける為には十字架での彼の死を自分の言葉で捉えきることが条件となる・・・さて、雑念は払って説教の続き(抜粋)です。

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◆しかし、その問いについて私たちは、そんなことは知らないし、聞いたこともないかのように振る舞うのです。神の裁きを思います。それは正しいことです。しかしそれ故に清くない自分があまりにも鮮烈で、それにつまずいてしまう。にもかかわらずです。厳然たる事実として、主が十字架を背負って歩まれたということは存在する。しかも主はこのことを、誤解の余地がない程までにはっきりと、簡潔に明瞭に力強くお語りになったということです。しかもこの後二度三度となく、受難の予告を弟子たちの前で繰り返しておられる。その度毎に、必ず主は「おのが十字架を取りて我に従え」という招きをもって語っておられるということです。私たちはこの事実に目をそらすことはできない。
◆「主イエスはキリストだ」。こう告白する私たちは必然的に「おのが十字架を取りて我に従え」というこのキリストの御言葉に拘束されて歩むのです。これから私たちがキリスト者として歩む一歩一歩は、十字架のキリストが歩まれたのと同じ道を一緒に歩んで行くのです。そしてこの主イエスをキリストだと告白した者が必然的にキリストの十字架の道に集められます。そこにはキリストを中心にして一つにされた共同体が生まれるのです。それが教会です。キリストの身体に結び合わされた一人ひとりが共同体を形成する枝なのです。
◆私たちはこの信仰の告白と共同体との関係というものを旧約聖書の中にいくらでも見出すことができます。私たちの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブの神、そしてモーセを通して私たちをエジプトから導き出して下さった神。出エジプトの出来事を貫いて、この信仰の告白が共同体全体で共有されている。そしてこの共同体がただ滅ぼされるためにだけに荒れ野に導き出されたのではない。そのことを群れ全体が知っているのです。やがて約束の地に導かれるということを私たちが思いもしないような、計り知ることの出来ないような大きな恵みに与らせてくださるということを私たちは知っているのです。苦難の先にある希望。それ故教会も十字架の道を共有し共に歩むということ、しかも確かなる約束、希望を見据えて共に一つ目当てに向かって歩み続ける群。ここに教会の本質が明らかになるのです。

 ************************ ・・・続く