死者との対話、それは異界からの訪問者、ここでいう死者とは、肉体においてはこの地上で僕らは目には見えないけれども、異界では生きている人びと、語り合っている人びと、そして、ときおり、長い時間起きるまで眠っている人びと。
◆人それぞれの人として生き物として生きているその基軸。それが無ければ、異界の人びととの会話はできないだろうと思われてくる。生きている時代や場所は異なっても、それは霊を持つ人が生存する限り、その世界は流れ続けていると思わて来る。事実それは確かなのだろう。否、明確に確かにそうなのだ、と僕は言いたい。だから、他者に対する「汝ころすなかれ」なのであると・・・。人を殺してはいけない、さらに、神が与えられた「十戒」を、神はそのように人を創造したのであるから・・・と素直に読むようにと改めて思う。
◆僕らは、そこで、霊について(実は薄気味悪い悪い霊ではなく)それが、生きとし生ける僕らを生かしめているのだという点から考えてみることなのである。少なくとも、新約聖書で異界も理解されていたであろうイエスの言動は、生きている魂を持つ僕らの身体で読み取って行かなければいけないものなのである。おそらく戒律のように思われるこの肉体を克己させる修行などというものは、その受動態である体でその点から、整える為のラジオのチューニングのように波長を合わせる準備、現存する僕らの今生側の肉の体制を整えることから発生したのものだったのではないだろうか。だから実はここで、自分というものを少し冷静に分析して見るような勧めなのだ。
◆「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と「自分をすて、自分の十字架を負って我に従え」との言葉の中の「自分」とは、誰なのか。「自分の命を救おうと思うものは、それを失い。私のため、又、福音のためそれを捨てるものは、自分の命を得る」との中の「自分」とは何なのか。この世への誕生を左右できない、しかも必然的にこの世界を過ぎさるであろう今を生きている「自分」。それは永遠の異界の世界を求める「霊なる自分」、あるは享楽的にこの肉体の欲求に則した多くの人がそうであろう「ただの霊に生かされている肉なる自分」が内にあることが理解されてくるのではなかろうか。パウロは、そこで死ぬべき生まれつきの肉(自分)に付随する霊と、永遠のいのちをもたらす神からの潔い霊に与るべき内なる肉(自分)があること、そしてそちら側に人びとは帰るようにしなくては生けないことを体験的に知った(啓示を受けた)のであったろう。パウロは、その肉なる自分という人を、私はキリストと共に十字架に付けられて死んだ、といった。もはや私が生きてるのではない、キリストが私の内にあって生きているのだ、という処まで言うのです。そして、このように生きているのは、キリストを信ずる信仰によって生きてるのであると言うのですね。ここまで来ると「極み」です。
◆それを知ってくると、今生に現存する僕らが読む(パウロの手紙にある)「絶えず喜び、絶えず祈り、全ての事、感謝せよ」(テサロニケの信徒への手紙)という言葉などが、この肉体の現存する三次元への自覚として発生してくるものなのだと思われてくるのです。「内なる人」という確信があろう人は、目には見えないが活きているという霊と会話できる、生きている異界の人びととの会話ができるひとびとであろうと理解されてくるのです。その流れている異界の人びとの霊と会話ができ、そのため本来の自分という基軸をもっているという人、あるいは持とうとしている、あるいは、その基軸の位置に帰れる自分というものを持っている人が、おそらく命を与える創造者なる神があらゆる人びとに対して求められていることなのだということが理解されてくるのです。そして、上から来る「聖霊」を汚すものは許されないと。
◆それでは、この国の仏教においてはどうなのかと・・・、僕は否定はしない。この国の多くの人びとの心情。だから、先の回でのブログに哲学者内田樹(タツル)先生の今生にある心情を掲載させていただいたのです。それでは、どうして、キリストなのか、この人以外に福音はない、なのか。ここに本当の神、目に見え確認できるものを創造された神、現象として僕らが確認できるではないかとパウロが言ったそれを創造された神、真実の神、という理解が必要になってくるのです。・・・ 続く
◆人それぞれの人として生き物として生きているその基軸。それが無ければ、異界の人びととの会話はできないだろうと思われてくる。生きている時代や場所は異なっても、それは霊を持つ人が生存する限り、その世界は流れ続けていると思わて来る。事実それは確かなのだろう。否、明確に確かにそうなのだ、と僕は言いたい。だから、他者に対する「汝ころすなかれ」なのであると・・・。人を殺してはいけない、さらに、神が与えられた「十戒」を、神はそのように人を創造したのであるから・・・と素直に読むようにと改めて思う。
◆僕らは、そこで、霊について(実は薄気味悪い悪い霊ではなく)それが、生きとし生ける僕らを生かしめているのだという点から考えてみることなのである。少なくとも、新約聖書で異界も理解されていたであろうイエスの言動は、生きている魂を持つ僕らの身体で読み取って行かなければいけないものなのである。おそらく戒律のように思われるこの肉体を克己させる修行などというものは、その受動態である体でその点から、整える為のラジオのチューニングのように波長を合わせる準備、現存する僕らの今生側の肉の体制を整えることから発生したのものだったのではないだろうか。だから実はここで、自分というものを少し冷静に分析して見るような勧めなのだ。
◆「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と「自分をすて、自分の十字架を負って我に従え」との言葉の中の「自分」とは、誰なのか。「自分の命を救おうと思うものは、それを失い。私のため、又、福音のためそれを捨てるものは、自分の命を得る」との中の「自分」とは何なのか。この世への誕生を左右できない、しかも必然的にこの世界を過ぎさるであろう今を生きている「自分」。それは永遠の異界の世界を求める「霊なる自分」、あるは享楽的にこの肉体の欲求に則した多くの人がそうであろう「ただの霊に生かされている肉なる自分」が内にあることが理解されてくるのではなかろうか。パウロは、そこで死ぬべき生まれつきの肉(自分)に付随する霊と、永遠のいのちをもたらす神からの潔い霊に与るべき内なる肉(自分)があること、そしてそちら側に人びとは帰るようにしなくては生けないことを体験的に知った(啓示を受けた)のであったろう。パウロは、その肉なる自分という人を、私はキリストと共に十字架に付けられて死んだ、といった。もはや私が生きてるのではない、キリストが私の内にあって生きているのだ、という処まで言うのです。そして、このように生きているのは、キリストを信ずる信仰によって生きてるのであると言うのですね。ここまで来ると「極み」です。
◆それを知ってくると、今生に現存する僕らが読む(パウロの手紙にある)「絶えず喜び、絶えず祈り、全ての事、感謝せよ」(テサロニケの信徒への手紙)という言葉などが、この肉体の現存する三次元への自覚として発生してくるものなのだと思われてくるのです。「内なる人」という確信があろう人は、目には見えないが活きているという霊と会話できる、生きている異界の人びととの会話ができるひとびとであろうと理解されてくるのです。その流れている異界の人びとの霊と会話ができ、そのため本来の自分という基軸をもっているという人、あるいは持とうとしている、あるいは、その基軸の位置に帰れる自分というものを持っている人が、おそらく命を与える創造者なる神があらゆる人びとに対して求められていることなのだということが理解されてくるのです。そして、上から来る「聖霊」を汚すものは許されないと。
◆それでは、この国の仏教においてはどうなのかと・・・、僕は否定はしない。この国の多くの人びとの心情。だから、先の回でのブログに哲学者内田樹(タツル)先生の今生にある心情を掲載させていただいたのです。それでは、どうして、キリストなのか、この人以外に福音はない、なのか。ここに本当の神、目に見え確認できるものを創造された神、現象として僕らが確認できるではないかとパウロが言ったそれを創造された神、真実の神、という理解が必要になってくるのです。・・・ 続く