聖書に書かれている、他の宗教との揺るぎない違いは、僕らの生きる世界、死後の世界も・・・つまり、全てを、といったらいいのだがその舞台設定を創造されたと、きちんと文字で記されてところ。それが本当かどうかと、あるいはその時代の文書に対し今の僕らがどのように読めばいいかと、今も研究されていること、第一、それに耐えていることです。これが一番。
世界のベストセラー聖書に、その天地の創造者は、その方は無論、制限、限界のある舞台設定、被造物の外におられるということになる。そこが、永遠の世界のそれらの方が住まわれるパラダイスということになりそうだ。今もあり永遠に続いていると。彼は活きて働いているということ。理屈から言っても、今、僕らは生きているから、僕らに霊を与える方が不在になることはない。生者のあらん限り、死者は生きん。生者があらん限り、彼(神)を求め続けるであろう。
それから、遠く離れて、創造者の呼び名も忘れた。この国の人びとは、「涅槃」や「浄土」という名称で知られてきたのではなかったか。ここで、いま僕は何も詳しくは調べて書いていないので実はもっと詳しい定義があるかも知れない。いわゆる、僕らが思う「天国」である。
前回からの続きを思い、ユダヤの宗教の聖書の昔の人の話など誰が関心をもつだろう。しかし、いずこの人も永遠を求める気持ちがあるものではないだろうか。ここで、現代もその研究徒やらに耐えている(それは真実だからそれが出来ているのだということは別にして)からという理由で、聖書だか何だか知らんけれども、僕らは、天国という言葉、何故か永遠に生きる世界があるのだろうと思っているのです・・・少なくとも僕は。だから、先に、まず第一に聖書ありきでは、ないのです。否、それに書かれていることはすでに、舞台設定として創造されていたのであって、そこにわれわれが共にあるもの、彼(父なる神)を求め、共に創造されし世界を喜び、共に学び・・・という世界があった、そうなる世界があったはずなのであった。「神は、創造した人に永遠を思う気持ちを与えられた」・・・ という言葉が、聖書に書かれているのを読んだだけで、僕らは神という演出家にすでに脱帽ということになる。
主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は120年となった。(創世記第6章3節) すでに舞台に立つ主人公たる人間の寿命をもとうに設定されていたということだ。
本当の天国を異邦人(聖書のことなどよう知らんという人びと)にパウロはどう伝えたのか。実は、彼パウロが聖書の世界の段階での異邦人とは、先祖伝来から言われ続けてきたであろう、おおもとの遠い昔の天地創造(天国、神と共に住んでいた世界も含め)のルーツを感じて居た人びとなのではあったろうけれど。第一にデアスポラ(離散)によって自分の生まれたルーツの記憶をわずかに保ち、しかし、その気持ちのセレモニーを遠くに離れたあの地、この地に於いて守ってきた(今も守られているということは、僕のブログでアメリカでユダヤ人作家と結婚された米谷みよ子の小説「過越の祭」を紹介した)。パウロの時代、すでに常用語にギリシャ語を話すユダヤ人が熱心に彼の話を聞きに集まっていた。そこで、彼は、選民としてのイスラエル人(ユダヤ人)の旧知の物語の人びとの話ではなく、さらにそれを遡り、人類の創造、さらにそれ以前の天国で住みし場所、その故郷を話すのであった。・・・ つづく
世界のベストセラー聖書に、その天地の創造者は、その方は無論、制限、限界のある舞台設定、被造物の外におられるということになる。そこが、永遠の世界のそれらの方が住まわれるパラダイスということになりそうだ。今もあり永遠に続いていると。彼は活きて働いているということ。理屈から言っても、今、僕らは生きているから、僕らに霊を与える方が不在になることはない。生者のあらん限り、死者は生きん。生者があらん限り、彼(神)を求め続けるであろう。
それから、遠く離れて、創造者の呼び名も忘れた。この国の人びとは、「涅槃」や「浄土」という名称で知られてきたのではなかったか。ここで、いま僕は何も詳しくは調べて書いていないので実はもっと詳しい定義があるかも知れない。いわゆる、僕らが思う「天国」である。
前回からの続きを思い、ユダヤの宗教の聖書の昔の人の話など誰が関心をもつだろう。しかし、いずこの人も永遠を求める気持ちがあるものではないだろうか。ここで、現代もその研究徒やらに耐えている(それは真実だからそれが出来ているのだということは別にして)からという理由で、聖書だか何だか知らんけれども、僕らは、天国という言葉、何故か永遠に生きる世界があるのだろうと思っているのです・・・少なくとも僕は。だから、先に、まず第一に聖書ありきでは、ないのです。否、それに書かれていることはすでに、舞台設定として創造されていたのであって、そこにわれわれが共にあるもの、彼(父なる神)を求め、共に創造されし世界を喜び、共に学び・・・という世界があった、そうなる世界があったはずなのであった。「神は、創造した人に永遠を思う気持ちを与えられた」・・・ という言葉が、聖書に書かれているのを読んだだけで、僕らは神という演出家にすでに脱帽ということになる。
主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は120年となった。(創世記第6章3節) すでに舞台に立つ主人公たる人間の寿命をもとうに設定されていたということだ。
本当の天国を異邦人(聖書のことなどよう知らんという人びと)にパウロはどう伝えたのか。実は、彼パウロが聖書の世界の段階での異邦人とは、先祖伝来から言われ続けてきたであろう、おおもとの遠い昔の天地創造(天国、神と共に住んでいた世界も含め)のルーツを感じて居た人びとなのではあったろうけれど。第一にデアスポラ(離散)によって自分の生まれたルーツの記憶をわずかに保ち、しかし、その気持ちのセレモニーを遠くに離れたあの地、この地に於いて守ってきた(今も守られているということは、僕のブログでアメリカでユダヤ人作家と結婚された米谷みよ子の小説「過越の祭」を紹介した)。パウロの時代、すでに常用語にギリシャ語を話すユダヤ人が熱心に彼の話を聞きに集まっていた。そこで、彼は、選民としてのイスラエル人(ユダヤ人)の旧知の物語の人びとの話ではなく、さらにそれを遡り、人類の創造、さらにそれ以前の天国で住みし場所、その故郷を話すのであった。・・・ つづく