marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(525回目)(その4)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 キリスト者の前進なる生き方

2018-07-19 06:51:43 | 日記
  説教、メッセージの続きです。今、このブログで語られているのは、教派でいえば、メソジストの伝統に基づく説教です。日本で知られているは青山学院大学が、たしかそうでした。ジョン・ウェスレーの像が構内のどこかに建っていました。弟のチャールズも讃美歌を沢山作り、今も世界中の教会で歌われている。で、続き・・・  (文中下線は僕です)

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◆ウイリアム・ローはキリスト者の目的について、この書物の中で記しています。聖なる訓練の道のりであり、堕落した魂の癒やしであり、回復である。そしてより高い次元での幸福。私たちの日常の物質的な豊かさとか、感情が満たされるということを越えたところにある、天的な幸福。そういうものへと私たちを備えるものだと。そしてこの目的のために、どういう手段が必要なのか。私たちはキリスト者としてどう生きるべきかということについて語ります。祈り、黙想、御言葉の学び、あるいは断食といったこと、それから、他でもない主日ごとの聖餐の恵みに与ること、これらはすべて恵みの手段である。また、一日の終わりに今日の言動を振り返るとか、そういうことで自己を吟味し、ときには高ぶる自分を否定し、そして言葉を慎むように努める。行いを謹んで実行し、それを整えていくために必要な規律について。規律によって追い立てられるのではなくて、私たちが恵みの生活をするのに必要な規律を備える、ということが語られています。そしてそれは教職だけでなくてすべてのキリスト者にすすめられていることだと言われています。私たちに与えられている環境、人間関係、家庭、状況、知識、経験、あらゆるすべての事柄をこの目的達成のために用いるのであると。

◆しかし、このすすめに導かれるときに、忘れてはならないことがある。形だけではなくて、私たちが内側から満ちあふれる力によって押し出されなければ、どんなに外面的な信仰の形態を私たちがもち得たとしてもそれは、意味をなさない。私たちはそのことを心して、この課題に当たるべきだと思います。私たちを整え、私たちを導き、遣わしてくださるのは、神御自身です。この神が、私たちと共に立って下さる。一緒に歩んで下さる。このことを私たちは礼拝を通して受け止める訓練を続けていきたいと思います。神との生ける交わりは一体何処にその接点があるのか。主の食卓であり、そして食卓を囲んで絶えず守られている礼拝、その礼拝全体を通して語られる神の御言葉以外にありません。

 *********************************** ・・・ 続く 次回で終わります。