marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(926回)親愛なるMへ:お話のメモ(その2)

2021-09-22 20:08:08 | 手紙

  昨日のつづき・・・◆本日の御言葉の中には「自分の命」という言葉がある。普段、私達は生きていながら、自分の命などということを普段、考えたりしているものは殆どいないだろう。誰でも死亡率は100%であるのだが。コロナ禍の外出自粛が促されているにもかかわらず、ニュースでの町に溢れる人はどうしたものか。肉体にて現実に生きることと、その中で死を思うことは、その体験を同時に受けつつ、考えたりすることは不可能なことですから、死を考える(そのことは危険である)ということが、普段に生きて生活していることが、実に難しいということだろう。初めは外出自粛を守るが慣れが生じて特に目に見えない相手では、自分は大丈夫と思うのか、少し体験しようとでも間違って思う若者が出てきてしまうのか。
◆ここで、しっかり「自分」というものを考えることが大切なことだと思われされる。むしろ毎朝、祈りの前に自己点検をすること、そうすると、罪という問題も分かるようになるのかもしれない。さて、イエスは、「自分を棄て私に従いなさい」と言われる。この言葉に多くの人々は、正直、嫌な思いを抱くし薄気味悪さを覚える。実は重要な投げかけをイエスは聞くわれわれにしているのである。第一、誰でもが自分そのものを理解できていないのではないか。棄てる自分とはなにか、そもそも、自分とは何なのか。宗教の怖さの多くは、この言葉にあるようだ。学歴のある若者がなぜオーム真理教などという得たいの知れない宗教に走ってしまう時代があったのか。
◆僕は別のブログでこの怖さを大脳生理学的に解明しおて見たい。集団心理か、信ずれば同調圧力が生ずるのか、宗教の怖さでもある、その現象は、自分という者を理解せんとして、哲学者キルケゴールやニーチェが戦ってきたことなのである、と僕は思う。したがって、彼らをかじっていない牧師を僕はあまり信ずることができない、というか、此の世の悪魔との戦いに言葉が足りなくなるかもしれない。簡単な大脳生理学や、精神身体医学や言葉や言語、人の成長期の心理など少しでもかじっていない牧師は危ないかもしれない。なぜなら、背後に神がいて自分の考えを阻害するものがなく、そのことに「自由」を感じ、知的雰囲気に漂っている者とすれば、それは「多くの者が教師となってはいけない。教師は特別厳しい裁きを受けるであろう」との言葉があるくらいだから、むしろエリート気分ではなく、降りかかる試練を十字架の故に喜ばねばならないとすべきだろう。ここで話していることは、この世の悪に対抗すべく魂の防衛するためにそう人生で選ばれている人が居るということで、それをまったく免れている人もいることも優先して考慮すべきことだ。霊的戦いに生まれつき優位に立たれる方もおられることは知っておくべきだろう。「我らの戦いは、血肉にあらず、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々の悪の諸霊に対するものである」(エペソ6:12)



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