marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

<Ⅹ>黒子の親分現る 気がつく人は気がついている・・・親愛なるXへ

2022-07-11 14:01:17 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

 写真の500円玉については末尾に少し。

知り合いから、早速と言えばいいいか、先のブログの掲載写真に疑義が呈された。あんたは、プロテスタントいいながら、写真はスペインだかの田舎で巡礼の日にその日になれば担ぎ出され、この人の祭りだとか言われて普段見慣れないところから引き釣り回される、マリアだかの像ではないのか、2回も掲載して少しキモいんではないのか、信者さんには大変申し訳何のだがねぇ、と。・・・

その通り、プロテスタントは目に見えるシンボルは作らないから、キモイと言えばキモイ(気持ち悪いという意味です!)。少なくとも僕の信条は、これはプロテスタントでもかなり難しいことなのだが、神のイメージとして対象物を作らないし、拝まないということになっている。プロテスタントは、キリストであって、マリアではない。西欧でキリスト教といえども、実際、ギクシャクするのは「キリストの名によって」を「マリアの名によって」とかで、祈るからではないのかと思ったりした。

なぜ、カトリックのシンボル化を取り上げるのかと言えば、その時代になって神の御存在をどのように異邦人にも(つまり、万物を創造し人をも造りたもうたという存在の、そのことさえも知らない人々へ)ご自身の存在「私は生きて、すべてはわたしの手の中にあるぞ!」と人類に知らしめるに、神も背に腹は代えられぬという時代になって、いかような手段を用いようとも人類の救済に介入しなくてはならない時代に入ったからと考えてしまうのである。

イエスという神人も終末には、予兆に疫病は起こる、飢饉が起こる、地震が起こる、戦争も起こる、と預言されてているから。2000年以上も前からの預言となるが、1日は千一日のごとしとあるから、人世界の時間など無きに等しいと思いなさい、とのことなのであろう。そういうことはいつの時代もある・・・という事ではなく、昨今、とみに数値的にも顕著に顕わになってきているという中にあって、先のブログに書いたエフェソ信徒への手紙に「天地創造の前からあなたたちを選び・・・」とあるように、肉的遺伝子を引き受けつつも、よくも悪しくも選ばれし人々は、永遠の世界に帰還すべく、この時代になってあらゆる方法によってかそのことを知らしめられるのであろう。

自然現象は、宗教と無関係というなかれ。天地を創造した神は、その最終として人を創造されたのであった。救済の為に地上に送られた独り子イエスは、確かにその自然をも支配なさるという記事が聖書に書かれている。枯れたイチジクの木の教訓(マルコ11:20~)、又、突風を静める話(マルコ4:35~)など、「この方は一体どういう方なのか」と弟子達が驚いたことが書かれている。万物を創造され、人をも創造され、「わたしを見たのは、父を見たのである」とイエスは言われたとあるし、天地創造以前にその創造主なる父と共におられたというその独り子であるとするなら、自然をコントロールされるのも何ら理屈的には不思議ではない、ということになる。もし、ここからも哲学や思想、人の世界の実態としての有り様を考察せんとするなら、ぼんやりとした観念的にではない、自己の弱さへの逃避でもない、ひとりひとり自分なりの聖書の読み方が、示されてくるという訳である。これを読まれて何かを感ずる方があれば、それはあなたも天地創造の前から選ばれし人なのかもしれません。どうぞ、それを追求されますように・・・。

天変地異、いつの時代もそんなもんだ、では済まされない時代になった。世界の裏側の片隅での事件が瞬時に共有化され、知ることができるようになったのだから・・・。イエスが再臨のとき、世界の人々がそのことを知るであろうとの預言通り、準備がなされてきたという訳である。心の事象としてではなく、奇跡とされるか、物理現象として視覚、聴覚に訴えられ、世界の人が分かるということであろう。

20世紀後半以降、神の御存在を如何なる方法で大衆に示されるのか、神が創造され最高傑作として愛された人が消滅していくことに、背に腹は代えられない、そんな神の思いなのではないだろうか。マリアの顕現しかり、宇宙人やUFOなども、この際、ぐ~うっと高い意識に持ち上げて如何なる方法にでも存在に気がつかせようとしておられるのではなかろうか、などと思ってしまう。目に見える現象とともに、内面的に気がつき始めた人には、それを普段の生活において感じているのではなかろうか。

ブログでここずーっと黒子なんぞと語ってきたが、話がややこしくなるが、もっと稚拙にいえば、だから良い宇宙人とか悪い宇宙人とかになってしまうのだが、彼らは目には見えない。見えるとしても人間そのものに同期して、気が付かないようになってしまっている。当の本人も気が付かないようになっているからなのだな。彼らは表舞台にはでてこないのだが、いつも舞台設計と出演者を創造せし、神は終末までのストーリーとをすでにお持ちであり、いつも演出を兼ねているわけである。

あれこれと書くのは、一人の(つまりあなたの)生命の無意識上に関わる課題だからである。けれど、これが限界なのは、言葉で意識していくこと自体が、すでにかなりの制限を受けているからなのだ。屁理屈こね、納得する文字や、言葉ではない、只管打坐である、といった道元禅師や、所作するときにいちいち、頭が頭は何ぞやなどと考えはしまい、といった臨済のような、これを実存と言うのかはどうだかは、いずれ僕らは存在し、生存そのものに深い意味がある、故にありのまま体現せよ、そして生涯を送れといった誰でもが実は、肉体を持ち命ある限りは逃れられない、その自分という存在に、今も生きている実感といおうか、そのことに深い意味を見いだし生き抜くことだ。

黒子は、ご存知のように色が黒いという実態のことではなく、その働き、浄瑠璃で人形の手足を動かす人は、あからさまに黒い頭巾はかぶらないが、そのいちいちの動作をさせる者ではなく、主体的には命あるそのひとりの人間、意志もあり、意欲もあり、という生き物ではあるが、ここでの黒子は、それらの所作、見えぬ意欲、思考に個々人に与えている背後の「能」に現れるまさに黒子のイメージでなのである。しかし、能の黒子は守護霊のようなものと言っていいかもしれない。しかし、ぼんやりしたものではなく実に明瞭に自己の中に確立されていくものがあるのである。

それは不完全な人の言葉なる信条なる意識のようなものではなくラジオで言えば、チューニングする、波長を精度良く厳密に合わせる基盤のようなものがあることを感ずるのである。絶えず祈れ、聖霊を受けよ、全黒子の指令者、善なる霊に繋がっておれ!と。その自分の「核」のCPUなる部分の働きを確認し、受信する日々が、絶えず祈れということになるのだろうか。

黒子の親分現る などという表題だが、内容は至って真面目である。僕が黒子と言って来たのは、今読む皆さんの生存にも関わっている事だからとあえて書こう。悪い黒子の集団、悪い宇宙人の集団があからさまに姿を人を通して現わし始めたからである。

さて、地上に使わされた良い黒子について、この国にその一つ古代からのシンボルがある500円玉の写真を掲載した。この花が三つ寄り添う桐の紋だが、この国で政治家が記者会見を行うとき、外人記者クラブなどで演台の前に掲げられる紋でもあるのをご存じだろう。誰でもが知っているであろう織田信長の肖像画、その羽織の紋付きにこれが付いている。豊臣秀吉にこれを啓示された絵が見られる。長期政権であれば、江戸徳川の三つ葉の葵のご紋ということのはずだが・・・。家康は採用しなかったには訳がある。

次回の大河ドラマは、徳川家康である。彼は、関東に東の京として江戸を造営し幕府を開いた。家康は、京都の束縛を離れ、あえてこの桐の紋を用いず存在は知りつつも過去のものとし、時代は新しくなると自らの三つ葉葵の紋を使用したのであった。所謂、この黒子バックヤードの桐紋の束縛から、もっと政治は解放されねばならないと思ったのである。関東には古代から黒子としてDNAをもつ武士集団として姿を現わす集団がいたからなのである。それは関東から東北の広い領域に及んでいたのだったから。

事実、この国の学校で習う歴史からは、学びが少ないが、古代隣国大陸からの交易は、多くの渡来人、帰化人が日本海を内海としてこの国に来ていたのである。15世紀のイタリアのサンセウントラトの「東洋地図」には、ミヤコと記される(京都)と北の日本海側にはAGUDA(秋田)以外の記載がないことが早くから知られていたのである。古代以来の伝統をもつ秋田湊が中世にはすでに国際的に西欧でも知られていたのである。

日本においてこういう時代、歴史が続いてきたが、世界においても闇の黒子集団エージェントは歴史を動かして来ているのである。今も!・・・



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