marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(654回) (2/3)退任牧師からの講演記事と質問状

2020-04-18 09:56:11 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

(三)佐伯啓示先生の死生観
 現実の世界では人間は欲望を持ち、ものを所有して喜び、自我をどこまでも膨張させ、最後は病院のベッドに括り付けられ死んで行く。キリスト教のように肉体は滅びても霊魂は永遠だと信じられればまだしも、法然のように死後極楽往生出来ると決すればともかく、或いは神道学者平田のように死後の魂は目に見えない幽界で常々生者と共にあると信じられればともかく、現代人はそう簡単に永遠の霊魂を信じることは出来ません。ではどうすればよいのか。我々はこの世俗的な現実世界に閉じ込められています。生も死もこの世俗世界にある。全てのものが生まれては死んで行く、その生命的な運動が永遠に繰り返される世界を想定していることになるでしよう。それが不生不滅の世界です。だから、空や無とは何もないということではなく、全てのものがそこにあって常に姿を変えながら運動しているその生命的な運動そのものと言えるでしよう。
 この俗世にありながら絶対的な無、真の空という方法の実相(実態)に思いを致せば俗世の現実の見え方が違って来るでしよう。絶対的な無(空)、或いは永遠の生命の運動を前提において現実世界を見ればこの現実の神羅万象が絶対的な無或いは永遠の無或いは永遠の命の現実への投射(鏡)であるように思えて来るのではないでしようか。無とは常なるものは一切存在しない、全ては実体として捉え得ないということです。物質的現象は全て生まれて消滅して行く。そのこと自体が「無」の表現でありそれが現実に形を成したものだということになる。それは「無」から出ておのずと生育しまたおのずと滅して無へ帰して行く。我々自身もまたそうなのです。それをそのまま当然の理として認めるところに日本人は「自然」を見たのでないでしようか。花は咲くもよし、散るもよし、であり人間も同じです。全てが「自然」のおのずからの作用なのです。
 そうは言っても、世俗の現実にあって我々はもちろん覚ることなど出来ません。おのずからあるがままに任せるなど容易に出来ません。善意や欲望からは逃げられません。生死即涅槃(一切の煩悩から解脱した不生不死の境地)などとても無理です。しかしそれでも永遠の無や空といったものへの眼差しを向けることは出来るでしよう。そのとき、絶対的ものとは何処か超越世界にあるのではなく我々の心の奥底にあるというべきではないでしようか。手の届かないところにあるのではなく我々自身の心の奥底にあるのです。生も死も無意味だと思うことこそが自我の執着を否定したうえで現実世界をそのまま自然に受け止めることを可能にするのです。我々は草木のように土から生まれまた土に戻って行きそして別の命が芽を出す。全ての存在がこうした植物的な循環の中にあることをそのまま受け止めほかありません。不正不死とは生まれたものは死に次のものがまた生まれるという植物的で循環的な死生観を言い換えたものと言っていいでしよう。生も死も自然の中にある。そこにおのずと生命が循環するということです。この自然の働きに任せるのです。とすれば我々は特に霊魂はあるかないのか、或いは来世はあるかどうか、などに悩まされる必要はない。この達観に接近しようしたのが日本的な死生観の大きな特徴だったのであり、現代の我々にも決して無縁ではないでしよう。
 以上が先生の死生観ですがこのことに達した動機を次のように述べています。
1) 死など不可知だと分かっていても人間は何処かで死を意識する動物であるという極めて人間的且つ一般的な理由がある。
2) 人間は年を取るとどうしても意識せざるを得ないという一般的な事情と自分自身もそういう方向に向かっているという個人的な事情が重なっている。
3) 日本の超高齢化社会という現実が死とどのように向き合うかは社会問題となって来る。
4) 日本人の宗教精神を問うことになる。
5) これが一番の動機であるが、死を論じることは実に生を論じることにもなるからだ。往々にして「死」はただ「生」の切断であり「生」を終わらせるものだと考えられ勝ちですが、そうではなく「死」は正確には「死への意識」が「生」を支え充実させることもあるのだ。 以上
<参考書籍> 佐伯啓示著『死と生』新潮文庫、トルストイ・原卓也訳『人生論』新潮文庫、伊東 益著『日本人の死』-日本的死生観の視覚―北樹出版  ・・・次回 先生からの質問状があります。僕からの返信回答も記載しました。・・・ 続く
 



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