649回目の冒頭記載の宿題と思いつつも'20年の教会歴イースター12日にかけて、敬愛する退任牧師から続けて、先方での”信仰を語る会”での原稿が送られてきて、それに質問がありました。高齢者も増え、新型ウィルスのこのような事態に”死について考えること”は、大いに意味のあることであると。それについて教会の方々への質問が小生にも来ましたので返答。3回に渡る原稿は長すぎて掲載できないので未信者の方にも理解できるであろう箇所を抜粋、掲載します。**************
◆死生観に関する議論
(一)死の恐怖に晒された現代人:死を思うのは人間だけであり、観念の死に脅かされる恐怖を持つが人は答えを得られない。
(二)トルストイの達した「死生観」結論は以下の二つの葛藤(想い)であってどちらもある種の救済を求めているというのです。
(1) 死は絶対的なものでこの現世という相対的な世界から意味を与えることは出来ない。だが絶対的意味だからこそれはあらゆる形の生を受け入れ全てを許すだろうとの思い。
(2) 死そのものは無意味である。だからこそ死を超えた何か、「生命」と呼ぶような何かがある。そしてその永遠と続くしかも個人の死という現象を超えた「生命」こそが個人の生にも与えるとの思い。例えばキリストの死がそれにあたる。キリストの死は彼を見ない何の交流もない信者の人生を変え人生に影響を与えて来た。トルストイの尊敬する兄の場合もそうだ。兄の死が千年前であっても私は影響を受ける。それこそが「生命力」である。こうして私の生の根本は全て私以前に生きとうの昔に死んだ人々の生命からなっている。従って人間は誰でも自分の死後も他人のうちに生き続けることが出来る。その意味で死んだ人々の生命はこの世限りのものではない。*****
次回へ 続く・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます