marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(292回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅳ(M・ルター)

2017-03-17 20:23:39 | プロテスタント
 この世の出来事において、いわゆる一般の人が神様という言葉の概念とはかなり漠然としたものであろうと思われます。しかし、永遠に生きると言われるキリスト教においては、確かな実態のあることとして語られるのですね。
◆イエスは、地上におられるとき、私は天にあなたたちの住まいを備えに行くと言われ、まるでとてつもなくvipクラスの豪華なホテルの部屋のようなイメージが湧く事を話されたことがある。繰り返しますが、キリスト教における死後の事は、実にしっかりとその後、どのような時間(歴史)が経過するのかも語られているのです。
◆そこで、いのちのことばの伝道者はすべての人にイエスの言葉を自分の言葉でとらえて欲しいと願っているのです。抹香臭くも情緒的に不安定なるようなこととは、実は真逆のことなのです。
◆あなたは、真のあなた自信であれ!ただ、心からの真理の自由の障害となり阻害する肉の思い(ここには浮遊する雑音たる霊がひっつく)を十字架につけよ、自由をもたらす真理の霊、聖霊に結びつけられよ。そこに自由があり、肉体が朽ちてもその霊が、天においてあなたを復活させるであろうと。この地上における契約をせよ。条件は、信ずることである。それでは、前回のルターの言葉の続きです。イエスの言(ことば)を自分の言葉でイエスと語ることの大切さをルターは述べています。
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 私のせいで(イエスのことばを)信じているような人がたくさんいます。だが、あの人たちこそは、たとえ、私がみことばそのものを否定し、これに欺いた(神がそのようなことをお許しになりませんように)と聞いても、みことばにとどまる正しい人たちです。あの人たちは、私や私たちについてどんなに悪い、ひどい、恥ずべき事を聞いても、これを意に介しない人々なのです。彼らはルターを信じているのではなく、キリスト御自身を信じているからです。みことばが彼らをとらえ、彼らもみことばをとらえています。ルターが悪党だろうが、聖人だろうが、彼らはルターなしでよいのです。・・・続きます。                                                                   
                       (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p155)
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世界のベストセラーを読む(291回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅲ(M・ルター)

2017-03-16 20:21:04 | 聖書・聖句
 ルターの言葉は前回からの続きです。いついかなる時でも試練はある。悲観的に考えることはありません。鬱(うつ)傾向の症例を書き連ね、そのを肯定するようなことでは無論ありません。
 ルターは神学を研究するに必要なことがらに”試練”をあげておりました。肉体で生きる人生において、大小問わず様々な試練があります。
 「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずる」というパウロの手紙の言葉を思いおこします。試練により、魂が耕された人は、信仰において強くなると思います。
 万物を創造し、その中で神の似姿に創造された人間、生きるも死もすべてのすべてにおいて包括している神の世界での人生は、その試練において、イエスの死には比べうるものではないが、そのこと故に私たちはむしろ、キリストの十字架の苦しみの少しでもその近づきとして迫害や試練は、むしろ大いに喜ぶという逆説が興ります。
 3月1日からレントに入りました。冬の寒さの厳しさに、イエスの十字架の道行きの苦しみを共にし、歩むという想像をし過ごします。そして2017年の今年は第三週に受難週を過ごし、そして春の訪れを感じながら復活祭を迎えます。それでは、昨日のルター掲題表題文章の続きです。
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 ペテロでさえもキリストを否定し、弟子たちはみなみもとから逃げてしまい、ユダが主を裏切って、とらえさせた、あのキリストの時ほどには、私たちの事態はまだそれほどひどくなっていません。たとえキリストの時ほどひどくなったとしても、だめになってしまうとうことはなく、わたしたちのキリストが朽ち果ててしまうということはありません。
 こうしたことや、こうした類いのことが起こるのは、共通の試練と吟味とが行われるためであって、その結果、それぞれの人にふさわしく、強い者は認められ、弱い者は強められ、認められた者は賞賛され、謝った信仰を持つ者は明らかにされ、敵や神のみことばを認識したり、保持したりする値打ちのないものはつまずかされ、かたくなににされるというようになることを、私は知っていますし、確信しているのです。〔・・・・・〕
 私たちは心をあげて神に感謝すべきです。神は気づかれて、聖なるみことばをまだお取り上げにならなず、あなたがたや他の人々にむしろ、みことばに対する倦むことのない霊と愛を賜ったからです。これこそ、彼らが人のゆえではなくみことばそのもののゆえに信じていることの証です。    (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p155)
      ****************************** (いつもながらアンダーラインは僕です。)・・・ 

世界のベストセラーを読む(290回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅱ(M・ルター)

2017-03-15 21:36:19 | プロテスタント
 宗教というと何とはなくうさん臭さを感じるのは、人としての正常な感覚なのかもしれない。だからこそ、言えばよいか、ことばの宗教と言われるキリスト教は、地上における目に見える教祖のようなものは置かない。それからまた、ともすれば宗教には派生するであろ観念的な薄気味悪いものもキリスト教では、排斥する。そのような訳の分からぬ情緒的に人に影響を与えるものをマックス・ウェバーは呪術からの解放と言ったのではなかったか。いずれにしろ、キリスト教は実際的なのである。前回の中での「霊と肉」について、霊についても復活についても、我々の五感には感知できないが実際のことなのである。まずは何より、”復活やイエスのわざ”が弟子の中で一番長命だったヨハネの手紙に述べられているがごとくに理由づけで福音どうのこうのと言葉で物語れるより以前に”事実(真実)だった”ことなのである。
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 ・・・わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわちいのちの言(ことば)について・・・                                        (ヨハネの第一の手紙 第1章1節)
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 この言葉を踏まえて、昨日のルターの続きを読んでみます。信仰の列車に乗ってしまった人からは、当然のように読める文章であるが、今一度、東日本大震災6年を迎えての、行方不明の方が2500名もおられること、そして、イエスがイスラエルの教師ニコデモに「よくよく言っておく」と言われた地上で起こっていることなどを思い合わせ、今僕らは命があり生きているのであるから、この世界に霊の存在もあるのだと思い合わせながら読んでみたいと思います。ルターさんは、個人とイエスの間に組織たちとして立ち塞がる当時の宗教組織(現代で言えばうさんくさいしがらみと考えていいだろう)に対する抵抗の文面は垣間見られますが、これは現代でも解消はされていないと僕は考えます。
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 キリストを死人の中から甦らせ、ご自身の右に座らせて、すべてのもの、したがって当然、罪と死と悪魔と陰触読みの主としたもう方は強くかつ真実な方であることを、私たちは知っています。いわんやまして、教皇の豚鼻など、その三重のざわめきともども意に介したまわないでしょう。この盾を彼らは私たちから奪うことはできません。かれらが私たちからこのキリストを、彼らの思うとおりに手軽く奪い去り、父なる神のご存じないれらが私たちからこのキリストを彼らの思うおおりに手軽く奪い去り、父なる神のご存じのない者をキリストのかわりに据えようと思ってもこの盾がわたしたちの側にあり続けるかぎり、私たちは平然として彼らを軽視し、事を注目していようと思います。
 ですから、このキリストは私たちのためにこの一芝居やこのあとももっとひどいのがやってこようと、それを再びきちんと整えてくださるばかりであなく、その知恵と慈愛のあふれるばかりの豊かさに従って、かえって役に立つようにしてくださると、私は思います。とくに、もしあなた方が祈り信頼とをもってこれを助けるならばなおさらです。  ・・・続きます。 
                     (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p154) 
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世界のベストセラーを読む(289回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅰ(M・ルター)

2017-03-14 19:36:15 | プロテスタント
 神のことばをひとりひとりのものに・・・。今年は宗教改革から500年ということで、ルターさんを読んでいますが、時代的制約はもちろんいろいろありますが、やはりすごいですねぇ。神学大学の先生でもありましたし、当然、古代教父からの神学書、哲学の部類は網羅されていましたし、体をなげうって修練をして、時代と戦い、ために神学を学ぶに必要なこととして”試練”ということもあげてありましたら・・・、そのような中で万人に神のことばを伝えんとした優しさのようなものがひしひしと伝わってくる。これは、日本ルーテル神学大学の先生でした徳善義和先生の訳もいいのでしょうけれど。しばし読み、感激に浸る・・・。さて、
◆前回、「霊と肉」のことについて書きました。最近のニュースは、今まで常識では考えられないようなニュースがあります。政治学者の姜尚中(カンサンジュン)の「悪の力」ではないが、人が苦しむのが見たかったと薬物を飲ませた女学生がいたり、知能身体不自由者はいらないと施設に乗り込み殺人事件を起こしたりなど、どうして考えにくい恐ろしいことが起こるのか・・・。
 肉なる自分という基が自分の選択にない(脱ぎ出したいが脱げない)ものであるならば、真に早く、キリストを信ぜよ! 分かってからなどということ自体がそもそも理解することば自体が自分には無いのだから諦めて、イエスのことばをそのまままずはその通りと理解する(人目など無視して)。それで、霊の話なので生身の人間に悪霊が入り込み悲惨な事件、事故を起こし・・・と、震災で亡くなった方の霊のことを思いながら、命に敵対する悪霊のことも書こうとしたが、ミイラとりがミイラになりそうなのでこの辺でやめとく。それで、何はともあれ
第一にキリストを信ずることはそのようなことからも守れられているということである。前置き長くなりました。掲題のルターの言葉を聞きましょう。
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  罪を犯したのであろうと、よいことをしたのであろうと、なんであれ、ひるまず、恐れずにいようではありませんか。なぜなら、よいことをしたとてそれに頼らないように、罪を犯してもひるむことはないからです。私たちの信仰が、善行や罪以上のものであることを、わたしたちは神に感謝しましょう。なぜなら、すべての憐みの父である神が木製のキリストでなく、生けるキリストを私たちに与えて、信じるようにしてくださったからです。このキリストこそは、罪と聖さとの主であって、たとえ私たちがいつでも千や二千の罪に落ちても、わたしたちをたて、保ちたまいます。このことに関して私にはなんの疑いもありません。サタンがもっと高度に、もっと悪どく試みてもキリストを神の右手から引きずりおろすというような攻撃をしないかぎりわたしたちをくたびれさせることはないでしょう。キリストがかしこに座しつづけたもうので、私たちも罪や死や悪魔やすべてのものに対して主であり、君侯でありつづけるのです。そんなものはなんでもありません。・・・続く。 (『神のことばゆえに迫害を受けているすべての人に対する回状』10の2・56-59)
                   (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p154)  
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(僕のコメント:当時、ルターがキリストのことばをを持って戦った相手が今や光の衣をまとって姿を変えている。人の良心とか見た目ではないこと、あくまで真実のキリストをみることである。心すべし) ・・・  

世界のベストセラーを読む(288回目) 肉と霊についてⅡ (M・ルター)

2017-03-13 20:16:31 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 先の(287回)にM・ルーターのローマ書を読む為の序文の後半を書かせてもらいました。しかし、今の僕らはというか、ルター以降の神の言葉を用いられた方がたは、現在までこのルターの書かれた意味をきちんと理解していたのであろうかと思わされます。
このような語「肉や霊」についてのきちんとした理解がなければあなたは、聖書のどの書であろうと決して理解することはなかろうとあります。そして、今の僕らにとっては、当時の、否、現代でも読めるその著名な教父たちの書についての忠告までしてあります。
◆宗教改革はカトリックに対する反抗だけでは決してなく、結果としてそのようにはなったけれど、第一に「いのちのことば」を我らに、と同時に、その神の言葉を不完全な肉なる人間が手中に取り扱うことによる、常なる注意事項を神が伝え知らしめるために起こされたことで、それは必然的な神の計画の中において行われたものであろうと思わざるを得ない。
そして、思うのですが、なんとなくの理解で実はよく分からない、イエスの言葉などにおける先理解としての序文の忠告事項は、今のその道の方々は、自ら体験として自分の言葉で分かるように信者さんたちに伝えることができるであろうかと思わされるのです。もし、それが可能であれば、根が腐るといわれたこの国だけではなく(実際は僕にはこの遠藤周作の「沈黙」のなかの転んだ宣教師の言葉には異論があるが)いずれのどの地においても、命ある被創造物なる肉なる人間の信仰にしっかり根を張るに違いないと僕には思わされるのだ。この宣教師の言葉は訂正されるべき内容である。”映画「沈黙」を見る”の回を再読ください。
◆ところで、先の回の霊と肉についてのルターの忠告内容がどれだけの人が分かるだろうか。いろいろな難しい神学的な解釈、解説よりもこの重要なことと思われるイエスがニコデモに「よくよく言っておく」と念を押したように、その解説を丁寧に解説して欲しいなと思っているのです。僕には次のように思う。ルターが言うには、パウロの霊と肉は同時に存在していて、(僕らには当然、霊の世界の方は見えないけれど)それは「違う世界が同時に今ある」ということなのではないだろうか。肉とは、二分される一方のものではなくて僕らが普段考える人間にかかわるすべてのことのように書かれていますね。”肉とはからだと魂、理性と全感覚を備えた人間全体のことである”と。その肉の性質として、ふしだらな傾向を備えるのが肉であるという見方。そこで、同時にある霊については、同時にある肉に対してよくも悪くも影響するものがあるという見方。
◆先の回、”内的にも外的にも、肉に役に立つこと、この世の生活に役立つことをめぐって生き、行為する人間は肉なのであり、内的にも外的にも、霊に役立つこと、来るべき生に役立つことをめぐって生き、行為する人間は霊なのである。”とあります。(ルターがいうここでの霊とはよい霊のことだろうけれど・・・)イエスが、「聖霊を受けよ」と言われたのは、まったく霊の世界においても神の力ある純粋な復活の力を備えた潔い神からの霊のこと、であれば我らは、この地上において見えない浮遊する霊にもてあそばれたりすることは決してなくなるということである。
◆イエスは、”真の人”と言われる。人間の形をとり、欠点のない方であれば、その方の霊は、神の元にあり、かつ同時にイエスご自身が私は見えなくなるが、かわりに聖霊をあなた方に送るといわれた、事実、ペンテコステ(聖霊降臨日)におこるのであるが以来、彼は目には見えないが、聖霊としていつも願えば、そのものと共にいる。僕はこれらのことを、震災で肉体は消えたが霊として、行き場を探しておられる方々を思いながら書いている。と同時に、イエスが地上のことを話しているのに、それが理解できなければ天上のことはなおさら分からないとニコデモを叱責されたことを考えながら書いている。よみがえったイエスが疑い深い弟子トマスに現れたという事実がなければ彼がインドまで(中国までもと言われているが)行き殉教することもなかったろうなども考えながら・・・。
◆イエスは彼(トマス)に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」。(ヨハネ伝 20:29)・・・