marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(297回目)脱線:〔少し〕キリスト教神学について

2017-03-22 20:48:48 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 僕が近藤先生の著作をあげたのは、ほぼ神学的なことの行き着くところの諸々が、総括されていると考えるからです。少し大きな書店に行くと聖書とともに神学書がありますが、聖書の解説かと思い何やらずいぶん小難しい本もあるものだと思って、こういうのを読みこなさないと聖書なるものは理解しえないのかと少し途方に暮れる時がありました。いやいや、決してそういう訳ではなく、シンプルに福音書の神髄を自分の言葉で日々、読み、教えられるところを信じて行けばいいのです。
◆・・・と書いたのはいいが実際、そのままだけでは決して心は満たされず、少し深く知ってみたいと思わざるを得なくなるのですね。そこで、まずは、行き着くところの本道のところを現時点でもっとも総括的な(現時点でのですよ)終着点としてまとめられているのが、近藤勝彦先生の神学書だと僕は思っているのです。(その道の専門ですので、おそらく地方の書店には売ってませんね)
◆その他、この日本の国でも欧米に負けず、聖書により我々の言葉によるカルチャベートされる思考文化の形成を何とか根付かせないといけないと本を著されてきたのが新約聖書学者の八木誠一先生なのです。それは日本文化における生きる文化、また人そのものの思考から、宗教における言葉についてなど哲学的なといえばいいかそのようなことを学んでとても開眼したのです。八木先生の本などが読まれなければ、この国は欧米の言葉の文化に追従しかないだろうな・・・。しかし、その日本特有の”もののあわれ”的心情文化と相まって、真のイエスの言葉が理解されるかとも僕は考えているところなのです。
◆書ききれませんが、その他の先生の本もいろいろ深く教えられたことです。そろそろ肉体も老朽化してきていますから、からだが動かなくなってきたときに、何度でも読み返そうと(なんといっても生きている神様のことを書いている聖書についての著作もろもろは古代のものでも教えられるところとても多く決して古くなりませんし若返るような気もするから・・・)
◆それで、今は、まだ世的な仕事にも就いていますので、少し時間的に余裕ができたら晴耕雨読。体も動かし、自然をたしなみ、春風に当たりサイクリングもし、蕗のとうも見られてきたし、そのうち山菜とりに・・・今回は息抜きとなりました。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(296回目)脱線:「伝道の神学」 近藤勝彦 著を読む

2017-03-21 20:18:34 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 東京神学大学の元学長であられた近藤勝彦先生の本をだいぶ以前にも紹介しましたが、先の回のパンフレットシリーズは比較的安価です税込648円と裏表紙にありますから、少し難しいというか深く学びたい教会の皆さんには数冊購入されて勉強会なりをされるといいかと思ってしまいました。その他、近藤先生の著作は、同サイズで8冊ほど(僕が持っているのはですが)、日本伝道出版というところからシリーズで出ていますから600円、800円(1400円)がどれか数冊買われて勉強会で用いられるといいかと思います。出血大サービスで、このように読めることに感謝したいのですが、とにかく読まれ無ければ意味がありませんので紹介しております。(写真)
◆んでもって、掲題の先生の本は、いきなりレベルが高くてキリスト教書籍専門の教文館からオンデマンド版2007年12月30被発行となっていますが、なぜか2006年に僕は持っていたので読んでいた。神学者のオンパレードですから少しマニア向け(といったら叱られが)です。その他、先生の神学課題の総括篇のシリーズ、組織神学の根本問題は、”啓示と三位一体”、(根本問題の2)”贖罪論とその周辺”ですが、これは全くその道の方向けです。この以降も総括篇は出されているようですが金欠なのでキチンとあったってません。 
◆それらを読まれる為に何度か紹介しましたが、”二十世紀の主要な神学者たち(教文館)”<冒頭の写真>は先生の学問遍歴も交えまして読みやすいのでそれを読まれてから、取り組まれますと入りやすいように思われます。
◆今回は、近藤勝彦先生の本の紹介で終わりそう。それで、表題の事柄はとても一度きりのブログで書ききれるものではありません。それで”二十世紀~”の本の終わりに今後の神学の押さえどころとして次のようにまとめております。詳細は立ち読みされてください。
 第一には「神が神である」ことの認識と主張を再建する必要がある。
 第二には歴史的啓示の認識に際して、イエス・キリストの出来事の中に神の恵みの支配とその力を見ることと、イエス・キリストの人格の秘儀を認識することの重要性。
 第三には「神の契約意志」についての明確化。
 第四には「和解」の根拠としてのキリストにおける「贖罪」の明確化。
 第五には神学、特に教義学は「伝道」に対する不当な扱いをやめること。
 最後にキリスト教神学は「神の真理」の「信仰」を表明する努力でつきるものではない。
                            ・・・ 今回はめちゃに難しくなってしまったな・・・ Ω 



世界のベストセラーを読む(295回目)脱線:「伝道」東神大パンフレット41 近藤勝彦 著を読む

2017-03-20 20:12:28 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
今日は一日、風がつめたかったのですが良い天気でした。午前、掲題の冊子を見つけ読み込んでしまいました。(近藤先生のは諸々あるがこれは読んでなかったので・・・)。そのため、午後から諸々、予定をこなすのにハードな一日でした。それでは読んで改めて教えられたこと。
◆この冊子は、東京神学大学から出版されている一連のパンフレットシリーズの現在の最終版41冊目に当たります。歴代の先生方が書かれている。内容はまさに神髄です。それで、僕が今まで気がつかず改めて深く気付かされたことがありましたのでその箇所を書きます。
    ******************************
◆キリストのバプテスマ(洗礼)
 洗礼とは何かを理解するためには、イエス・キリスト御自信が洗礼を受けたことと、御自分に迫ってくる十字架をバプテスマと呼んだことを理解する必要があるでしょう。初代教会の中で「キリストの名による洗礼」がいつ始まったかという問題は興味深い問題です。マタイによる福音書28章19節によれば「復活した主イエス」によって、「洗礼を授けよ」と命じられています。しかし、そのときから洗礼が始まったかというと、そうではないようです。それ以前に主イエス御自身が「バプテスマのヨハネ」から洗礼を受けていますし、主の弟子たちが洗礼を授けていたとも記されているからです。(ヨハ4:2)
 バプテスマのヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」でした。それは他の清めのための水洗いとは異なり、一度きりの洗礼でしたが、聖霊の注ぎとは結びついていませんでした。その点でイエス・キリストの名による洗礼と異なっています。ただ、罪ある者が悔い改めの洗礼を受けたのです。主イエスは罪なくてその洗礼を受けました。それは主イエスが人々の罪の状態に連なり、人々の罪の現実を御自分のこととして受け止めたことを意味します。罪のない御子なる神が、罪の人々に連なって悔い改めの洗礼を受けたわけで、そのことは罪の贖いのための十字架に向かっていったことでもありました。そのうえで、主イエスは御自分の十字架のことをバプテスマ(洗礼)と呼びました(マル10:39、ルカ12:50)
 イエスの名による洗礼を受けることは、この主の十字架の中に入れられ、キリストの十字架の死と結ばれることを意味します。このことが、洗礼は唯一一度だけ受けるものという性格を決定しています。キリスト御自信の十字架がただ一度で、決定的な仕方によって、最後の審判を代わって受けたものだったからです。キリストの十字架が終末論的な意味を持って、世の終わりまで効力を持つように、それにあずかる私たちの洗礼も最後の審判に備える一度だけの終末論的な出来事としてその人の全生涯を包括します。(p61~63)
    ******************************
◆アンダーラインは、いつもながら僕であるが、この箇所・・・。洗礼が、常に新生の為の了解ごとの意味合としか僕はとらえていなかったが、イエスが同時に御自信が洗礼を受けることによって(我々からいえば新生の為の主イエスを信ずる儀式のようにのみ考えていたが)、同時にそれは、イエス御自信は、御自信の十字架の受難についてもバプテスマといわれてさらに深い意味で永遠の命への新生を意味していたことに新たな驚きを持って開眼させられたことである。
 その洗礼は、地上のキリスト者としての新生とともに、イエスが御自分の受難をもバプテスマ(洗礼)といわれているが故に、それは同時に永遠の命への復活をも意味する深い二重の意味合いが含まれていると理解されたことである。・・・ Ω 
 

世界のベストセラーを読む(294回目)神の力について〔使徒パウロの手紙から〕 (M・ルター)

2017-03-19 23:17:36 | プロテスタント
 「神の力」については、(僕は簡単にこう書いているけれどとても畏れ多いという思いが内心にあることをまずは告白・・・第一、簡単に書ききれるものではないものですしね。時代という制約も当然ありますから・・・)
◆「神の力」については2月18日の266回目の日記に、パウロのローマ人への手紙第1章16節に「福音は神の力である」にてルターの解説を書きました。そこでは、ルターもパウロがこの箇所で用いている「神の力」とは・・・と一部としての説明をしています。そこでは、神から来る能力であることを書いていました。う~む、やはり高尚な話は、僕には分かってもなんとなく理解できる程度だな・・・ルターはそこで、神御自信が能力ある者、力ある者を造り出すものであると書いておりました。ルター先生の当時の聴衆たちは、どのように理解したものなのだろうか・・・。素直に聞けば、自分の「よし、これをやろう!」というインスピレーションをもって意欲に燃えた人が「これは、神様がわたしに今、与えてくれた力なのだ」と理解し、自分の個性を周囲に発揮した人もいたのだろうなと思う。
◆僕などは、『神の力とは、生きとし生けるもののその生命のエネルギーの源となっているもの、その生命とは、すべての命は無論、善なる意欲、希望、創造・・・、この世の実態においては本来の姿に有効なる機能を働かせるエネルギーとなっているその全体の姿を包括するのであり、またその本源』などという風に解説されると分かるような気持ちがする。・・・と書いても聞かされる人や理解しようとする人がその理解の土台としてどのようなことを先理解として当時の聴衆が、共通認識として考えていたかによるでしょうけれど。
◆さて前の回(293回)にルターは、「神の力」という言葉を次のように採用しておりました。コリント人への手紙(4:20)に書かれた当時のコリント人を叱責する言葉としての採用です。
『それゆえ、今や私たちの思いはこうでなければなりません。私たちが、すべての憐れみと慰めの父である神に感謝し、私たちの信仰がことばにおいてでなく、力においてであるよう、これからは私たちの身を整えるという思いです。すなわち、聖パウロはコリント人への手紙で、「神の国はことばにおいてではなく、力においてである」と言っているからです。』
◆あらためてこの言葉は、宗教改革時の真のキリストのことばに信頼するする者たちは、なんら外見、形式にこだわりそれが行われなければ天国にいけないなどの御触れなど恐れることなく、キリストの言葉に立っていれば無論、言うや書くだけではなく身を整えて、生活の行いにおいて証(あかし)、つまり証明していくことが大切ですよと勧めの中で採用しているのです。
◆パウロ当時に遊興の町、コリントの人々がなかなかピンとこないどうしようもない理解不足の人々に叱責としての言葉に採用しているのですが、ルターが当時、この言葉で対抗しようとした相手は、言わずもがなです。(あくまでも当時のことです)
◆僕らは、今、このルターの言葉を違和感なく読んでいますが、500年経過した今でもルターのその言葉が違和感なく読めるということ
にも神の力が示されているのではないかとも言えるのではないでしょうか。当時のキリスト教に対して、何にルター激怒したのかを少しでもふれると、ええっと思わされるような事柄もたくさん出てきます。聖体拝領という奴は特にひどいですが、あまりに脱線してしまいますので今回はこれまでとします。
 あまりに大きな事柄なので「神は細部に宿る」として静かにうやむやとして終わります。・・・

世界のベストセラーを読む(293回目)神のことばゆえ迫害を受けているすべての人に対する回状Ⅴ(M・ルター)

2017-03-18 19:02:53 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 前回からのルターの表題文内容の続きです。何を言わんとしているか、ひとりひとりがイエスの言葉をとらえることそれにつきます。従って、万人祭司、すべての組織のしがらみからの解放を意味します、。それでは・・・
      ******************************
 神はバラムをとおしてもイザヤをとおしても、カヤパをとおしてもペテロをとおしても、いや、ろばを通してもお語りになることができます。私も、この方にしかと固着します。私自身もルターをしりません。知ろうとも思いません。私は彼ルターについてなにも説教しません。キリストについて説教するのです。悪魔はできさえすればルターを手にいれたいところでしょう。しかし、キリストをどうしようもないのですから、私たちも安泰という訳です。
 それゆえ、今や私たちの思いはこうでなければなりません。私たちが、すべての憐れみと慰めの父である神に感謝し、私たちの信仰がことばにおいてでなく、力においてであるよう、これからは私たちの身を整えるという思いです。すなわち、聖パウロはコリント人への手紙第三章〔実は4:20〕で、「神の国はことばにおいてではなく、力においてである」と言っているからです。私たちがそれについてうまく語ったり、書いたりできるというのでは十分でありません。私たちが私たちの愛や慈愛を、友や敵にも差し伸べて、生活と行為とが真理の証をしなくてはなりません。(以下、教皇派の否定を語っています〕
      ******************************
 表題のルターの文は、ここまでとします。
 文中、バラムやイザヤは旧約聖書の中に、カヤパやペテロは新約聖書の中に出てきます。ろば?・・・これは旧約の民数記第22章22節から35節です。
 ろばが主人であるバラムに口をきいたのです。バラムがろばに乗り、石垣に挟まれた細い道を行くろばがそこで動かなくなったのです。ろばには主の御使いが道を塞いでいたのが見えたのですが、バラムは分からず、うずくまってしまったろばを三度ビシビシと打ったのです。すると、ろばが口をきく。・・・その部分書いてみます(新共同訳)。民数記第22章27節から
      ******************************
 27:ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。
 28:主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度も私を打つとは。」
29:バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」
30:ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗ってこられたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」彼は言った。「いや、なかった。」
 31:主はこのとき、バラムの目を開かれた。彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ち塞がっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した。
 32:主の御使いは言った。「なぜ、このろばを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしを妨げるものとして出てきたのだ。
 33:このろばはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ろばがわたしを避けていなかったら、きっと今は、ろばを生かしておいてもあなたを殺していたであろう。」
 ・・・動物の物言いの漫画はすべてこのあたりからの採用かな。次回は、文中の「神の力」について読んでみます。・・・