marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その8)勝手に解釈:ハイデガーの『存在と時間』を読む。『本来性と非本来性』

2024-12-18 10:10:37 | 思想・哲学

天地創造来からという根を持つ思想は幸せだなぁ。人が生き続けるかぎり途絶えることがないだろうから。

勝手に解釈:キリスト教神学からハイデガーが書こうとした源泉をささやかに書いてみたい。源泉がすべて聖書から見てとれる。ところが宗教は、人の誕生時点から、思い込みのように命と一体となっているものなので、生き物である人の先入観からの脱色を図した言語を彼は用いる。ある時は言葉を改造して。

①神は天地を創造し、最後に完成品として人を造られて、7日目に休息された。この創造物のすべてのことに関する解明。

(旧約聖書:出エジプト記三章14節 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた。)「私はあるというものだ」と。まさに『存在』することの何かである。

最終完成形と神の荷姿に創造された人は、すべての現象を言語化することによって、創造世界を理解することができるであろうし、自分を創造した神に近づくことができる。現に僕らの学校のあらゆる学びはそこに行き着くといってよい。

そこで神から離れた罪をもつものとなった人。”罪”を持つといわれる人。その人類の歴史。とりまくすべて、さらにそれも人のどこで、どう思考するのか?、自分という人は?、かかわる周囲の実態物は?、・・・等々。

②文系からではなく理系から追求したのがアインシュタインの『光』についての理論的解析。(旧約聖書:創世記第一章三節『神は言われた。「光あれ」こうして光があった。)光速は、場所によらず不変であること。相対性理論。僕らは光がなければ見て、何かと物体を理解することができない。

①をさらに細かく。神学において『罪』とは的外れ(まとはずれ)といわれる。本来、神の思いにつうづる的の中心を求める生き方でひとは創造されたが、それを彼は『本来性』と彼は語りたいのではないか。

周囲の的外れに生きている多くの大衆。まとの中心を着求めず生きる普段の人々。彼は『非本来性』と語る。むろん、説明であるので道徳性の是非はない。頽落と後者を言っているけれど。

『本来性』と『非本来性』という言葉は、本来性は創造の神の願いに沿った生き方をする、あるいは求めて生きいる人々で、非本来性は神を信じているが神の本心からはずれて、気にもせず生きる多くの大衆、それらを(ひと)と定義したい思いがあるようだ。

まずは、人の思いの『本来性』、『非本来性』という言葉は、そういうイメージを持つとわかりやすかもしれない。本来、堕罪しなければ、アダムは神とともに今も平安に住まうべきであった。しかし、罪を犯し、今も多くの大衆は、神を信じてはいるだろうが、本来のありようから外れ、非本来の姿で多くの大衆(ひと)として漂っている、ということである。

・・・つづく 


(その7)ボケ防止に:ハイデガー『存在と時間』を読むきっかけと核心のヒント

2024-12-17 15:17:12 | 思想・哲学

『存在と時間』を初めて目にする人は、生きていくには時間を大切に使うこと、などと教訓的にとってしまう方が多いと思う。学生時代から頓挫した本を読む為には、第一に解説書から読まないと殆ど歯がたたない。

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故、聖路加病院の日野原重明先生が、『新老人の会』で当地に来られた時に文化会館の講演で、プロジェクターの操作のお手伝いをさせていただいた事があった。その時、先生がハイデガーの『存在と時間』について語られた。その時は、やはり教訓的なことが書いてあるんだろうなと思っていたが、それが再度、挑戦してみようと思って居たわけ。その思いがずうーと続いていたのだが。

で、で、やはり再度の挑戦もさっぱりわからん。で、宗教おたくの僕としては、キリスト教神学の方がとても面白いと思ったのでそちらの方に時間を割いていた。西欧の多くの哲学者らに多大な影響を与えてきたんで何とか読みたい。日本にも多くのお金を出しても招聘したい話があったらしいが。この日本にて僅かながら理解されるのは、『存在と時間』が極めた点が仏教の教えにも近いと見なされたこともあったとか。その点だけで??

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前置きはこの辺で、ヒントとなるのは、彼は敬虔なカトリック教徒であったこと。キリスト教神学の研究から始めたということだった。

それで、このキリスト教神学から『存在と時間』の難解な言葉を読みとこうとすれば、俄然、分かり始めると思われたことだった。ハイデガーは、宗教色ぬきで(とことん考える哲学だからだろうが)キリスト教神学、人間学を言葉化しようとしたのが『存在と時間』であるというのが、僕の結論である。

考えとなる、先理解のベースであるキリスト教がすでに共通基盤としてのあったことの上に西欧の哲学は発展してきたと思われるが、ハイデガーは更に古来からの哲学の上にキリスト教神学を当てはめ、更に宗教色を抜いて、精密分解し哲学理論に展開して行こうとしたものであったと言える。

次回、ベースとなるキリスト教側の考え、それに対する『存在と時間』に出てくる特別に用いられている言葉、本来性と非本来性について。・・・つづく 


(その6)ボケ防止に:その要点のひとつ、ちょと断線・ハイデガーの『存在と時間』を読む

2024-12-16 13:59:12 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

ハイデガーは実に多くの哲学者に影響を与えた御仁なのであった。ヒトラーに加担した等と言われ、問題ありの人でもあったらしいが。

西欧の言葉を駆使する哲学に、この国は、俳句や短歌、詩歌の世界の観念世界に、言葉以上のことを古来から求めた”察し”の世界で来たが、実社会の変革に自然に身を委ねるなどということではなく(これは結局受け身となっているだろうし)、人が考えて、自然や対象物を人の思い通り便利に変えていこうとするには、やはりそこにいる人である。

西欧の哲学(米国はプラグマチックであるけど、それ以前の話)は、起源が神が人を創造したと言われる宗教が、当時、言葉や文化の繁栄地だったマケドニア(ギリシャ)の融合にであって、これには、どうしても他の国の哲学や神話があっても、現実開示としては、それに及ばなくなってしまう。僕らは、天地創造に起源を持つ言葉と結びついた哲学には、決して太刀打ちできない。ハイデガーはそれを追求しようとした。

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キリスト教の大使徒パウロは、生前のイエス(キリスト)には会っていない人である。むしろ、当時キリスト教根絶に励んだ人であったのだが、キリストの霊の顕現にあって180度回心、その伝道者になった。現トルコに離散したユダヤ人にから更に東(アジア州)へ行かんとするに、キリストの霊がそれを禁じた、と新約聖書の使徒言行録16章に出てくる。

マケドニア人が夢に現れ「私達を助けてください」と夢を見る。パウロは、それが神の啓示と受け取り、ギリシャ哲学の発祥の国に向かう。僕はこの話が好きなのだ。使徒言行録17章のアテネでのパウロの説教は、我々異邦人にも理解できるものである。是非、読まれてください。こうして、僕らが世界のことをあれこれ、今でも神学などを考えることができるのは、この話が起源となっている。

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ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読む(仲正昌樹 著)の第一章にこのような文書があった。それを書いて(その6)を終える。

「哲学」とは、自分にとってあまりにも自明で疑う必要のないこと、日常生活でなんとなく常識として通用していること、みんなの行動や価値観の大前提になっていることについて、本当にそうなのだろうか、そう判断できる根拠はあるのか、何故そういうことになったのか、といった問いを発し、安易に答えを出すことはなく、とことん考えようとする営みである。自分が知っているつもりのことの根拠を、その根拠の根拠の根拠の・・・根拠に至るまで徹底的に探求する営みと言っていい。古代ギリシャ人は、この営みを「知sophia」を「愛することphilein」という意味で<philosophia>と名付けた。何か具体的な目的に利用できそうな、個別具体的な「知識」を得ることによって満足しそれ以上深掘り下げた問いを発するのを止めてしまうのは、「哲学」ではない。

・・・つづく 


(その5)ボケ防止に勝手に解釈:分かりにくいハイデガー『存在と時間』を読むヒント

2024-12-15 09:00:10 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

これ、僕の見いだしたハイデガーが『時間と存在』を書こうとした原動力となったベースは、西欧人には当然のごとく流布されていたキリスト教人間学、神学にあり、と思ってみたこと。まず、これが一番の肝の一つ。神学で読み解かれてきたことが、哲学で宗教色を脱色すれば、こういう書き方にはなるだろうな、と思ったこと。もちろんすべてではないけれど。

無論、哲学も実証科学と同様、知られた名だたる先人の哲学者思考の言葉の蓄積をし、新しいもの、先に疑問に思われたことに総括のごとく追記されて行く。それまでに考えられた哲学を土台に思考の深化ごときが行われるのだけれど・・・。

その古代からの根本のことが『存在』。『ものがある』ということはそもそもどういうことなのか、ということだった。古代からの課題だったそうな。

だから、この書物についても、それまでの哲学者がいう、自分を含め、周囲の大衆と自然世界について解くことが、当たり前となっていることがそもそもそれでいいのか、とその常識となってしまった疑いもしなかった思考の土台を根本から壊そうとした説明が書かれる。

自分、周囲(大衆)、世界(自然)について、壊した思考を常識のように、身についた思考論理をもっと分解し精緻に追求してみましょうよ、と迫った代物であること。従って、『人間は・・・』などと説明をしようとすれば、既に読む人の『人間についての先解釈』が、先入観として入ってしまっているから、それも壊さないといけないと。『人間』を先理解を脱色した言葉『現存在』として表記していく訳。

全てにおいてそういう手法をとっていく。あるときは、ニュアンスを伝えるため、言葉の文法も変じていく。専門の哲学者もタジタジらしいから、原文(ドイツ語)にあたらないと本物とは言えないなどというのは、僕ら異国のド素人はまったく蚊帳の外となり、兎に角、なんのことだか??となる訳だ。

こんな感じで冒頭に書いた肝の一つにも触れずに、だだ周辺をうろつくことから始まってしまう本なのだ。両先生の解説本もそんな感じであった。

で、次回から、冒頭に述べた僕なりに解釈した肝の一端を披露して行きたい。・・・ つづく 


(その4)勝手に解釈:神学の脱色としてのハイデガー『存在と時間』

2024-12-14 09:09:09 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

チンプンカンプンな理由は、僕らが当たり前であり、常識であり、だから疑いもしなかった「ひと」という生き物の頭の常態化した思考回路にある。彼は、それは破壊をしなくてはいけないと冒頭、宣うのである。

とすれば、考える土台を壊すことと語るわけだから、理解するという所作から何をもって思考するの? となるのは当然なのだなぁ。

それで、解説書である両先生も、そのことを分かってくれ、から始まるし、ハイデガーの履歴や「存在」ということを考える敬意をねちねちとどうしても書かざるをえない文書になっている。そういう訳で哲学周辺準備から多々書かざるを得ない、さらには自分のかかわりも書きたくなるという不思議な中毒的な書物でもあるのだ。

しかも、表題写真の第一章までも含めた轟先生のその本の四部の一は、本題ではなくこの書物『存在と時間』のいきさつの話なのである。さらに驚くことに、この書物『存在と時間』は、これから書いていくぞ、と今後の表題、目次も掲げていたのだけれど途中で、もう書くことはやめた、とハイデガーがとん挫した書物でもあったというのだ。

・・・こんな具合で、僕も『存在と時間』の本丸に行かないで、その周辺を書かざるを得ない、というか周辺を書きたくなるような、少し中毒気味になる書物なのであった。

ふむふむ、なるほど・・・、僕が思うところのことをハイデガー先生の文章では、こう書けるわけですね、などと勝手に解釈して、悦に入り始めたところなのである。・・・ つづく