名古屋観光ルートバスメーグルで名古屋城から徳川園へやって来ました。
黒門
明治33年(1900年)に完成した尾張徳川家の邸宅の遺構で、
総けやき造りの三間薬医門です。
昭和20年(1945年)の大空襲による焼失の被害を免れた数少ない遺構です。
白い建物は徳川美術館ですが今回はパスして徳川園(日本庭園)へ
虎仙橋
虎の尾に架かる檜造りの木橋で、5m下に渓流を見下ろし、下流に龍仙湖が・・・
虎の尾と虎仙橋
この渓流はもみじの木々を縫って龍仙湖へと注ぐ形状が虎の尾のようで
名付けられたそうですが紅葉には程遠く青々としていました。
大曽根の瀧
落差6mの三段の滝です。上、中、下段の岩の組み方が異なるため、
それぞれ水しぶきの表情には変化があります。
滝の背後の山は徳川園の中で最も高く、龍仙湖水面との標高差は約11mあります。
「大曽根」は、古くからこの辺りの地名でした。
海に見立てた龍仙湖
海に見立てた水面の周りに見どころを配する池泉回遊式庭園の中心的存在で、
地下水を水源としています。
黒松を背にして浮かぶ島々、巨石に懸かるもみじ、水際を渡る飛石、突き出す砂嘴、
舟小屋のある渡し場などを巡りながら楽しむことができます。
舟小屋のある渡し場
池には立派な鯉がいて、何かもらえるのかと寄ってきます。
黒門口の脇にある龍門の瀧
龍門瀑ともいわれ、鯉が滝を登りきって
竜となったという登竜門伝説に基づく滝の一形式です。
尾張家江戸下屋敷跡地にあった滝の石を使用し、徳川園に再現しました。
徳川園について
徳川園は、徳川御三家筆頭である、尾張藩二代藩主光友が、元禄8年(1695年)に自ら
の造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだことを起源としています。
当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべ
たと言われています。光友の没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲
られましたが、明治22年(1889年)からは尾張徳川家の邸宅となりました。
昭和6年(1937年)、十九代当主義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は整備改
修を行い、翌年「徳川園」が公開されました。昭和20年(1945年)に大空襲により園内の
大部分を焼失した後は一般的な公園として利用されてきましたが、平成16年秋に日本庭
園としてリニューアルしました。
(リーフレットより)
Saas-Feeの風さんに任せきりで次は何処へ・・・?