貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

知十と有磯の砂

2018-12-14 08:41:27 | 日記

知十と有磯の砂

平成30年12月14日(金)

 今朝も、滑川市。

高速を降りて、徳城寺へ。

 徳城寺の創建は不詳。

 室町時代に開かれたよう。

 当初は土肥氏の縁の寺院として、

弓庄城(上市町)城下にあった。

 天正10年(1582)に発生した

本能寺の変で、織田信長が討たれると

当時の城主土肥政繁は織田家を

見限り上杉家に従った為、

天正 11年(1583)、信長の

旧臣の攻撃を受け弓庄城は落城。

 土肥氏は上杉氏を頼って越後に

落ち延び、徳城寺は滑川に移ったと

いう由緒。

 木彫の阿吽仁王像、新に彫られたよう。

 鐘楼も六角堂と凝っている。


 徳城寺境内にある芭蕉句碑(有磯塚)は

元禄2年(1689)に奥の細道行脚で

当地を訪れた芭蕉と曾良が泊まったと

される川瀬屋の後裔である七代目

当主彦右衛門(川瀬知十)らが、

芭蕉70回忌を追善し、

明和元年(1764)にを寄進したもの。

 当地で詠ったとされる芭蕉句、

「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」 

が刻まれている。

新たな句碑は、奥の細道紀行三百年記念碑

知十らが寄進した芭蕉句碑は、

ケースに入って、大切に保存されている。

 

 隣の六角形の石碑は、  

天明3年 (1783年)、知十の十三回忌

の追善供養として寄進された、

 「知十塚」だそう。

 知十という人は、滑川の俳壇を代表

する俳人。

 芭蕉70回忌に句碑建立を思い立ち、

有磯海の砂を手でさらえ、

荒波がかかる自然石を荷い運んで

この秀吟を刻む。

 そして、荒町海岸にあった徳城寺の

境内に建立。

 新たな徳城寺の移転時、句碑も移転。

現在に至っている。

 赤松に守られ,屋根構え、そして、

古い句碑はケースに入れられ,しっかり

保護されている。

「有磯塚」「知十塚」とともに、

大切にされていることがよく分かり、

有磯海と称する富山湾へ見たさに、

先を急ぐことにする。