貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

捨子へ慈悲の施し三説

2019-07-28 10:32:24 | 日記

捨子へ慈悲の施し三説

令和元年7月28日

 「富士川のほとりを行に、

三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。

この川の早瀬にかけてうき世の

波をしのぐにたえず。

露計の命待まと、捨置けむ、

小萩がもとの秋の風、

こよひやちるらん、

あすやしほれんと、袂より喰

物なげてとをるに、

「猿を聞人 捨子に秋の 

     風いかに」

いかにぞや、汝ちゝに悪まれ

たる欤、母にうとまれたるか。

ちゝは汝を悪にあらじ、

母は汝をうとむにあらじ。

唯これ天にして、汝が

性のつたなき(を)なけ。」 

と、全文彫られている。

「中国の詩人にとって、

猿の鳴き声を聞いた時、哀切の

情を表現するのが常套であった。

芭蕉はこの句で、そのような

悲しみなど、親に捨てられた子を

目にして感じる哀切とは、比べ

ものにもならぬ、といいたかった

のである。・・・・・・。

しかし、それにしても芭蕉が、

なぜその子に、持ち合わせの食物

投げ与えただけであったのか、

はなはだ理解に苦しむのである。

なぜ彼はその子を抱き上げ、誰か

世話してくれる人のいるところ

まで連れていかなかったであろ

う?」

と、ドナルド・キーンさんは言う。

 学者の三説も説く。

「ある学者は、芭蕉の寺代には、

道端に捨子を見ることが今より

は遙かにおおかたのだ、

と指摘する。」

二つ目は、

「芸術神への芭蕉の献身が、

彼をして世の常の人間的義務を

放棄せしめたのだ、と説明する。」

三つ目は、

「このエピソードは全くの作り話、

「旅に死す」というこの日記の

主題を強調するため、作者が挿入

したものだと主張する。」

 何回原文に触れても不可解さは

残るのは、私だけではない。

 左右の二つの章文碑、読みやす

い方に、どうしても目が走る。

 富士市の交流プラザ前であった。