貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

大橋公園:奥の細道矢立初めの地碑!

2024-06-25 10:33:00 | 日記
令和6年6月25日(火)
 大橋公園:奥の細道矢立初めの地碑      
 「奥の細道」600里の旅の始まり
の句を詠んだ場所
<矢立初めの地>
に建てられた記念碑が、
真正面に見える。
<大橋公園矢立初の碑>

 千住大橋公園である。


 元禄2(1689)年3月、
芭蕉は、弟子の曾良を伴って
深川(江東区)から船で遡上して
千住(足立区)に降り立ち、
陸奥へと旅立った。

 「千じゆと云所にて船をあがれば
前途三千里のおもひ
胸にふさがりて
幻のちまたに
別離の泪をそゝく
「行春や 
  鳥啼き魚の 
    目は泪」
と、旅立ちの地である
千住の情景が記されている。
<史跡おくの細道矢立初の碑>

 碑の背面には、
芭蕉のことと当時の千住のことが
説明されている。
<背面>

 また、
公園には、「おくのほそ道行程図」や、
紀行文と芭蕉らの出立の様子が
描かれた屏風絵が掲示されている。
<おくの細道行程図>

 大橋芭蕉公園とでも
名称替えしても良い程?!



足立区千住大橋② 4本の棹で釣りを楽しむ釣り人と!

2024-06-24 10:10:56 | 日記
令和6年6月24日(月)
足立区千住大橋②


 千住大橋の全景が撮ろうと、
釣りを楽しむ人の方へ足をのばす。  
          
 「この時期、何が釣れるんです?」
と挨拶。
 80代の男性と暫く歓談。
 4本の釣り竿を活かし、
「今のところハゼ二尾。」
と見せてくださる。

 天ぷらにするそうだ。 
 鰻やエイなども釣り上げるという。
 話し好きな方で、
仕事の関係で両足ががに股に
なったことや
釣った鰻は鮨屋に持って行くと、
歓んでくれること等気さく。

 生粋の北千住っ子!
  区切りのよいところでお暇乞い・・・。



足立区: 千住大橋①千住大橋の由緒と川沿いに!

2024-06-23 15:52:54 | 日記
令和6年6月23日(日)
足立区: 千住(せんじゅ)大橋①      
「通勤客や車は少ないだろう」
と思い立ち、急遽朝行く先を整理。
 足立区の北千住に絞る。
8時前に、出発。
 お茶の水で乗り換え、
北千住駅で降車。
 隅田川を目指して歩くこと20分。
 国道4号線の日光街道に出ると、
大橋が見えてくる。

 千住大橋は、
隅田川にかかる橋で、
北岸は足立区千住橋戸町、
南岸は荒川区南千住六丁目。

 前回は車で来たのだが・・・。
 旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)
の二橋で構成されており、
旧橋の上流側に
東京都水道局の工業用水道専用橋
である千住水管橋がほぼ
並行している。
<背後の橋が千住大橋>

 今修理中で、手前が水道管橋。
 最初に千住大橋が架橋されたのは、
徳川家康が江戸に入府して
間もない文禄3年(1594年)
11月のことで、
隅田川最初の橋である。
 当初の橋は
現在より上流200mほどの処にあり。
 当時
「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」
と呼ばれる渡船場があり、
古い街道筋にあった場所と推測。
 水管橋を降りるとすぐ釣り船が一艘。

 壁に、
「おくのほそみち 旅立ちの地」
と太字で、その紀文がかかれ、
蕪村筆による
芭蕉と曾良が描かれている。 
<蕪村の屏風絵「芭蕉と曽良」>

 隣には、
「千住大橋と荒川の言い伝え」とか、
「河川の移り変わり」「潮待ち茶屋」
のこと等、
板碑に河川の歴史が分かるように
記されている。 
  
  
               
 ~つづく。           

八王子: 永福稲荷神社 芭蕉句碑と力士像!

2024-06-22 09:57:05 | 日記
令和6年6月22日(土)
八王子: 永福稲荷神社 

<社殿>  
    
「えっ、ここが……?!」

「芭蕉の句碑なんてあるのかな?」
 社殿に隣接して建てられている。
<芭蕉句碑>

「蝶の飛ぶ 
   ばかり野中の
     日影かな」

 力士の 発光山権五郎関像と 
<力士の発光山権五郎関像>
 
ショウガ祭が印象に残っている。


八王子市長心寺②芭蕉句碑と可屋句碑!

2024-06-21 11:07:28 | 日記
令和6年6月21日(金)
八王子市長心寺②
 寺内にある「西行塚」に因んで
西行を敬慕した芭蕉の句碑の建立が
企画されたものであろう。
<芭蕉句碑>

 主監の「瀧見可屋」は
当時の先々代の住職で、
三世寛誉泰道大和尚・
俗名 瀧見泰道で、
俳句に熱心、八王子を代表する
近代俳壇を代表するひとり。
 寺内に
「涼しさや 
   月下にならす 
        花鋏」
の句碑。
 また、
八王子鑓水の永泉寺境内にも
「しばらくは 
   夢のかりきる 
      はな衣」
の句碑が建っている。 
 碑表の文字の執筆者「千秋庵」は
「新選俳諧年表」(大正十二年刊)
の大正八年の頃にみえる。
「鶴汀歿、二月十一日、
享年八十六、塩谷氏、名新吉、
千秋庵瑞夢仙と号す。美濃人」
と同一人物と考えられている。

 又
「獅子門」とは美濃派とも言い、
蕉門十哲の一人各務支考の一派
である。
 八王子市内の芭蕉句碑は
この他
「ひばりより 
  上にやすらふ 
     峠かな」
(天保十一年建立、浅川老人ホーム内)
「先たのむ 
  椎の木もあり 
     夏木立」
(明治四十三年)建立、鑓水永泉寺境内)
「しばらくは 
   花の上なる 
    月夜かな」
(建立年次不明、下恩方辺名)
「蝶の飛ぶ 
  ばかり野中の 
    日かげかな」
(昭和二十四再建、新町の永福稲荷)
などが知られている 。
文責 大東文化大学文学部教授 
萩原 恭男 昭和五十九年甲子十一月>
 と詳細に記載されている。
<可屋句碑>

 可屋句碑は、 
「涼しさや 
   月下にならす 
       花鋏」