『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
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[映画『風立ちぬ』を観た(前篇)]

2013-07-20 13:20:48 | 物語の感想

☆・・・いやぁ、風が立ちまくっていました!!!

 たいがい 宮崎駿監督の独りよがりの作品に思え、批判する準備をしていたのだが、あまりの傑作に驚いた。

 取り急ぎ、幾つかのことについて言及しておく。

 なんか、マッチョ好きのホモの映画評論家気取りが、この作品の、例えば、宮崎監督の、「飛行(戦闘)機好きの戦争嫌い」に代表される矛盾について指摘して、悦に浸っていたが、

 宮崎監督は、その矛盾との、大人としての共生はとうに克服していよう。

 私は、20年ほど前、やたらと宮崎監督を批判しまくっていた。

 それは、宮崎監督への、共産主義者の高畑勲監督の影響を、私が感じていたからだ。

 いや、高畑監督の政治思想などは、後から分かったことで、ただ、私は「言い知れぬ嫌悪感」を抱いていたのだ。

 高畑作品は嫌いじゃないし(次作も相変わらず実験的な野心作のようだ)、宮崎監督の高畑影響下の作品も嫌いじゃないから、私こそが、その矛盾に苛まれ、宮崎作品を批判していたきらいがある。

 だが、宮崎監督は、徐々に高畑呪縛から抜け出てきて、近年、思想に束縛されない作品作りをしている。

 ただ、近年は、エコに囚われている気配はある^^;

 だから、今さら、マッチョ好きのホモの映画評論家気取りが、「矛盾」について言及しているのは、・・・はぁ、シラける。

 パンフレットでも、立花隆やプロデューサーの鈴木敏夫が「古いこと」を語っているのにも、シラけた。

 また、共産主義の呪縛を抜け、

 無理やりなエコロジーも、作品によっては消せていた宮崎作品だが、

 もう一つ、問題があった。

 それは、物語が、フランシス・F・コッポラなみに、スキゾフレニーの症状である「過剰な支離滅裂さ」と共にあった。

 これについても、何度も語っているので、ここでは書かないが、「アリエッティ」の脚本を書いた頃から、治癒していったのかも^^;

 「風立ちぬ」においては、完璧な「一つのテーマの脚本世界」を構築している。

 昨今の宮崎演出だったら、主人公・二郎の、イタリアはカプローニとの幻想世界での邂逅など浮きまくっていたはずだ。

 今回は、作品に調和していた。

 また、マッチョ好きのホモの映画評論家気取りは、主人公の声をあてた庵野秀明(「ヱヴァ」の監督)のド素人のセリフの棒読み振りに不満を漏らしていたが、

 それも、昔からの宮崎監督の素人好きに由来しているから、「今さら・・・」である。

 しかも、庵野監督、ここぞというときにはいい声が出るし、いい感じの味わいもある。

 宮崎監督の、声優による過剰な演出の部分突出よりも、小津安二郎が目指した「散文としてのセリフ」を重視した結果に過ぎない。

     

    ◇

 面倒だからちゃんと読んでないが、立花隆は、パンフレットに、かようなタイトルの一文を寄せている。

   「これは、明治以来西洋に追いつき追い越せで、急ごしらえに作った富国強兵国家日本が、
                        富国にも強兵にも失敗し、大破綻をきたした物語だ。」


 この見立ては、100% 間違いである。

 この作品は、「リザルト(結果)の良し悪し」の作品ではない、「プロセス(経過)の美しさ」を描いた作品なのである。

 「プロセス」とは、それは、うん、「青春」のことである。

 「坂の上の雲」を目指していた日本の「青春」を描いている。

 その結果は、全力を尽くした「結果」でしかない。

 「結果」は結果でしかなく、「青春の輝き」は色褪せない。

 作中、二郎の恋人・菜穂子は、結核に侵されながらも、二郎と結婚する。

 そして、しばらくして、二郎のもとを去り、結核患者の隔離病院に戻るのだ。

 なんで、そもそも、菜穂子は病院を抜け出してきたのか?

 それについては、二人の仲人をした奥さんが、「一番美しい自分を見せたかったのよ」と語っている。

 「一番美しい」とき、「青春の輝き」こそが、この作品の第一義であるのだ。

 そして、男は、それを失っても、生き続けなくてはならない。

   ◇

 書きたいことはまだまだある。

 風の凪いだときのない、この作品の動画としての凄さ、・・・主人公の喫煙シーンも、その煙が、風(空気の流動)を表わしているんだぜ。

 また、この作品の陽性部分を引き受けたイタリアはカプローニとの夢のシーン・・・。

 これは、もう一度くらい見てから、書こうと思う。

 最後に、エンディングに流れる歌のシンガー、荒井由実(現・松任谷由実)について、私が、最近 思ったことが、この作品のテーマと絡むので、転載して、終わる。

 ≪(2012/11/27)今、ラジオでは、ユーミンの40周年アルバム絡みで、ユーミンの曲がよく掛かる(私、このアルバム買ったよ!)。
  ベスト中のベストなので、名曲揃いだ。
  特に、何度も語っているが、『翳りゆく部屋』は、私の永遠のベストだ。
  この曲の、愛の喪失の虚無感・絶望感・・・、その、情景の美しさ、哲学への昇華は、何ものにも変え難い。
  だからこそ、最近の松任谷由実の歌声は、聴いてて辛かった。
  数ヶ月前の新曲を、やはりバイトをしながら聴いていて、私は、その「時の流れの残酷さ(エントロピーの不可逆性)」に、正直、涙がこぼれた・・・。≫

 それでも、男は、生き続けなくてはならない。

 夫の松任谷正隆は、今作への荒井由実の楽曲使用に際し、「若いころの由実が戻ってきたようだ」とか語っていたね。

 たまに、男にはご褒美がある。

 作品最後の、幻想世界で、カプローニが二郎に引き合わせた人物のように・・・。

                                         (2013/07/20)


[『劇場版ポケットモンスター ベストウイッシュ 神速のゲノセクト ミュウツー覚醒」を観た(寸評)]

2013-07-20 02:29:39 | 物語の感想
☆この間が誕生日で、なかなか高いゲームソフトを買ってやったので、連れて行きたくなかったのだが、2人だと安いペアデイだったので、甥っ子を連れて行く。

   私一人だと = 1800円

   私と甥っ子だと = ペアデイ2000円

                  連れて行くが得策っしょ?

 さて、『神速のゲノセクト ミュウツー覚醒』だが、なかなか面白かった。

 ・・・自分の仲間・自分の場所・自分の生きる目的を見い出したミュウツーは、日々を生きていた。

 そこへ、苦悩の内にあるポケモンのSOSの心の叫びを聞き、急行する。

 SOSを発したのは、人間の科学の身勝手により、三億年前の過去から現在に甦らされ、あまつさえ、機械化・兵器化されたポケモン・ゲノセクト5匹の、一番幼い一匹であった。

 ミュウツーは、そんなゲノセクトを助けようとするのだが、ゲノセクトのリーダーは聞く耳を持たず、戦闘に至り、その後、逃げる。

 ゲノセクトの逃げた先は、サトシたちも訪れていた、ニューヨーク風のセントラルパーク風に出来たポケモン・パークだ。

 ここで、ゲノセクトのリーダーは、自分らが三億年前に生きていた土地を再現しようと、ゲノ・フォーミングを始めるのだった・・・。

 物語は、いつもの映画版ポケモンのように大風呂敷を広げず、ニューヨーク風の危機レベルにしたのは、主人公の少年サトシが活躍できる範囲としては良かった。

 サトシが、その素直な熱血漢で、ゲノセクトと社会の融和を願う姿が活きてくる。

 そのゲノセクトが、妙に面白い。

 見ばえ、二足歩行型と円盤型飛行形態のトランスフォームするメカニックさなのだが、ポケモンと言う生物でもある。

 機械の外観で、疲労してヨタヨタする様は、見る者に不思議な感覚を訴えてくる。

 ゲノセクトとミュウツーのバトルは、『ドラゴンボール』の超絶バトルとクリソツだった。

 ましてや、スマートな時の魔人ブーと、色とフォルムの似ているミュウツーは、超サイヤ人みたく、変身まで見せてくれた。

 サトシらは、ミュウツーと、映画第一作目で会っているはずなのだが、初対面のようになっているのは、ミュウツーの能力によって、記憶を消されていたからだろう。

 しかし、今回、その記憶は消されておらず、物語は、映画第一作目以来の「成長」をしたような気がする。

 映画版での、敵役のロケット団の空気感はどうにかならんのでしょうか、

 映画『ドラえもん』のジャイアンやスネ夫がいいヤツであるように、映画版ならではの、サトシらとロケット団の巨大な敵に対しての共闘があってもいいのになぁ。

 なお、同時上映の短編で、ポケモン仲間のお泊り会が描かれ、タルい話が展開されるのだが、ナレーションを担当した女の声が妙に可愛いなと思ったら、前田敦子なので、私は「うへ・・・^^;」となった次第(私はAKBが嫌い)。

                                                 (2013/07/20)