☆(前回からの続き)・・・国道114号線・・・、福島第一原発から20キロ圏内に入ろうかという浪江町近辺で、私は職務質問に引っ掛かっていた。
二人の北海道から派遣された警官は、私の免許証を写し、車のナンバーなども控えていた。
会社名も聞かれた。
私の働いている会社の名前には「王」の字がつくのだが、一人の警官は、用意されていた書式の用紙に「凰」と記していた。
常識で考えて、素で「オウ」と聞いて、「凰」の字を真っ先に思いつくヤツは少ないと思う・・・。
「・・・そうですか。では、戻って、国道399号線で北の方から回って原町に向かうとしますね。そっちは検問はないですよね?」
私はしおらしく言う。
すると・・・、
「なにか、許可証を持っていますか?」と警官は聞いてきた。
話が噛みあわない^^;
許可証云々については、持っていないと伝えてある。
同じセリフしか用意されていないRPG(ロールプレイングゲーム)ゲームのNPC(ノンプレイヤーキャラクター)のようだった。
・・・「ええ、残念ながら・・・。ところで、(地図を見せながら)この北回りならば、検問はありませんよね?」
私も、「ところで」と話を変えるようでいて、またも同じ質問をさせられるのだった。
「検問はやっているかいないか分かりません。でも、多分、平気だと思いますよ」
「何度も検問されて、何度も免許証などを控えられると、なんか問題になりそうですから^^; まあ、事務的なもんなんですよね、それは?」
「え、ええ^^ そうです、事務的です。事務的なものです^^」
「そうですか。では、北回りで行ってみます。・・・では、戻りますね」
なんで、こんな狭いトコで方向転換しなくちゃいけないんだ、と思いつつ、私は、難儀しつつヴィッツをUターンさせた。
そして、警察官に一礼をして去ろうとした、その時、警官二人の背後に、もう一人の人物が来ていたのを見た。
なんとも、「さや侍」を若くしたような、悲しそうな寂しそうな表情をしていた。
その男は、社服を着ていて、胸には、その会社のロゴが縫い付けてあった。
ドーン!
◇
・・・いや、実は、私、この頃、この「最前線」の醸すプレッシャーには、かなり緊張感と圧迫感を感じさせられていた。
しかし、今、20キロ圏内の検問を前にして、その緊張感と圧迫感はピークに達していた。
だから、「ああ、こりゃ、無理だ。こりゃ、無理だ。放射能への過剰な恐怖を持たない自分でさえも、これほどの、心が折れるようなプレッシャーを受けているんだ。普通に暮らして、風評被害を拡大させている人々から、この恐怖を拭い去って普通の生活をしろなんてのは、過剰な情報公開の前にあっては無理なことだ」と、車内で独り言を呟くのだった。
だが、無色透明な放射能である。
健康に害のない今のレベルなら、情報公開さえなければ、気付かずに生活できていたものを・・・。
これが、いわゆる「寝た子を起こす」ということであり、「マッチポンプ」行為なのである。
私が、このブログで繰り返し語っている「正常な判断能力を持たない愚民には知らせるな!」ということを意味する。
さて、国道399線を北上す。
山の道であるが、舗装されていて、相変わらず誰もいないことを除けば、走行に問題なし。
途中、何度か、東の浪江町への脇道があった。
進入禁止の、ささやかなバリケードと表示があった。
おそらく、ここに入れば、先ほどの検問を回り込んで、20キロ圏内に入れるのだろう。
尤も、私がそこまでして20キロ圏内に入る意味はない・・・。
それから、今、この文章を書いていて、地図を見ていたら気付いたのだが、検問のあった国道114号線だが、そこを逆に北西に10キロほど進むと「山木屋」があった。
ここが前回の引用ニュースで記した山木屋地区なのだと思う。
つまり、ここの地区の住人が計画的な避難の対象になったわけだ。
・・・意味が分からなかった。
なんで、この地区だけが突出して計画的な避難の対象になったのだろう。
風向きで、ここだけが危険とされたのか?
他の地区は、計画的な避難をするほどの住人がいないのか。
この後に訪れる飯舘村は、全村避難で、まあ、行政区画的に理解は出来るのであるが。
・・・分かった!
地図をじっと見ていたら、分かった。
山木屋地区が、川俣町の中でも、特に南西に出っ張っているのだ。
だから、福島第一原発から、同心円状に30キロの範囲で境界線を引いたら、その中になったのだ。
追記:どうやら違った。
放射線は、必ずしも同心円状に拡がるのではなく、自然状況(地形、風向きや雨雪など)で変わり、
山木屋地区は<ホットスポット>とされたのだ。
<ホットスポット>とは?
・・・汚染物質が大気や海洋などに流出したときに、気象や海流の状態によって生じるとりわけ汚染物質の残留が多くなる地帯のこと。汚染物質の種類は問わない。
・・・で、今朝(5/17)のNHKニュースを見ていたら、この界隈は、放射線量が非常に高いエリアであることも分かった。
だが、まあ、それでも、東京~ニューヨーク往復旅行(190マイクロシーベルト)したよりもはるかに低い数値だ。
ニュースでは、最大で80マイクロシーベルトが計測されていた・・・。
要は、累積放射線量が問題なのだろう。
◇
飯舘村に入った。
国道399号線が県道62号線と交差する長沼の交差点にはパトカーが待機していた。
私は、道を尋ねようとパトカーに近づく。
だが、パトカーの窓は開かない。
中には、四人の警官がいた。
私が中に向かって手を振ると、やっと窓を開けた。
四人ともマスクをしていて、私を迷惑そうにして見た。
後から会話するに、ちょいと訛っていたので、この方らも地方からの派遣警官なのだろう。
と、書いてみたが、おそらく、地元の福島の警官でも、私から見たら訛っていよう^^;
この四人、・・・放射能に恐怖していた。
複数いる故に、ちょっとした集団ヒステリー状態にあるのかも。
で、ヒステリーは私にも伝播し、やや、私、恐怖を増幅させた。
警官の話では、原町には、この62号線が地図上では近くて検問もないけど、悪路なので、更に399号線を北に進み、12号線で行った方がいいよ! とのこと。
どうも派遣されてくるのは若い警官が多く、屈託なくもある。
私は、その言葉に従ったし、後から考えるに、県道62号線は、一昨年の東北の旅で最も危険だった道ではないか。
地図を逆方向から見ていたので気付かなかったが、震災後、あの道は究極に危険であったはずだ・・・。
若き警官の助言に従って良かった^^
◇
さて、この飯舘村は、訪れた日(05/15)、全村での避難が行なわれた。
《ふるさと飯舘 変わらぬ景色、消える日常 (産経 2011/04/17 00:50)》
<緑が芽吹き、道ばたにはタンポポが咲く。冬が終わり、ようやく待ち望んだ季節が来たはずだった。高校時代まで過ごした村の風景は、いつもと変わらない春。だが、いつもとは違う。故郷である福島県飯舘村から報告する。
■「深呼吸できますか」
東京電力福島第1原発から北西に半径30~50キロ圏にある村は、一部が屋内退避区域の20~30キロ圏に入り、自主避難などを行っていたが、高い放射線量の数値が続いているため、政府が「計画的避難区域」に指定する方針を固めた。水道水の飲用規制、農作物の作付けの規制など、苦難が次々と襲いかかってきた。
「この村で深呼吸できますか?」。16日、計画的避難の説明に訪れた福山哲郎官房副長官(49)に農家の男性は問いただした。主要産業の農業や畜産は、豊かな土と水と空気で育まれてきた。自然とともに生きてきた村の生活が根本から崩れ去ろうとしている。だからこそ、多くの村民が「飯舘村を離れるわけにはいかねえ」と口にする。
■6200人の抱える不安
過疎化でも市町村合併に参加することなく、「自主自立の村作り」を掲げ、村おこしに励んできた。しかし、この未曽有の危機に、村民約6200人、それぞれが不安を抱えている。
父(60)は昨年、長年の夢だった農業に本格的に取り組みはじめた。昨年の経験から今年は、改良した作物を作ることを楽しみにしていた。それなのに田植えの準備もできず、外に出ることもままならず、家の掃除ばかりの日々送っている。
野菜直売所「みちくさ」は収穫の時期を迎えているのに、シャッターが閉ざされたまま。運営者の一人、本田美代子さん(79)は「自分で作った野菜を自分で売る。お金ではない楽しみ、生きがいを奪われた」。
佐藤優菜ちゃん(9)ら3姉妹は「放射能があるから外に出ちゃ駄目なんだよ」と、家の中で絵を描いたり、かくれんぼをして遊んでいる。学校も始まらず、友達とも会えない。快晴の空を見て「外で遊びたいな」と寂しそうな顔をする。
■「なくなっても誰も…」
100歳を超えた男性は計画的避難が発表された日、「長生きはするもんじゃない」と家族に告げ、足手まといになると思い詰めた末に自ら命を絶った。村の幹部は「冷害、大火災、村の危機はたくさんあったが、今度ばかりは乗り切れる気がしない」と弱音を吐く。
1年でも手入れをしなければ、田畑は荒れる。見た目には何ら変わりない、普段通りの景色がよけいむなしさを募らせる。「10年、20年」となれば、元の美しい田園風景に戻すのは難しい。
「こんな小さな村なくなっても誰も気にしねぇよ。国の人もみんなそう思ってんだべ」
店は少ない。夜は暗い。コンビニも1軒だけ。電車も走っていない。子供のころは不便に感じていたが、広い空が近く、穏やかな空気が流れている村に、毎年夏は帰郷していた。今年の夏も帰れるだろうか。(大渡美咲)>
>>>「こんな小さな村なくなっても誰も気にしねぇよ。国の人もみんなそう思ってんだべ」
そんなことはない。
少なくとも、私がいる。
私は、399号線から県道31号線に入り、12号線に至る道をあえて入らずに、飯舘村の一般道を突っ切って12号線に向かった。
豊かな緑が広がっていた。
陽光がきらめいていた。
(2011/05/17)
二人の北海道から派遣された警官は、私の免許証を写し、車のナンバーなども控えていた。
会社名も聞かれた。
私の働いている会社の名前には「王」の字がつくのだが、一人の警官は、用意されていた書式の用紙に「凰」と記していた。
常識で考えて、素で「オウ」と聞いて、「凰」の字を真っ先に思いつくヤツは少ないと思う・・・。
「・・・そうですか。では、戻って、国道399号線で北の方から回って原町に向かうとしますね。そっちは検問はないですよね?」
私はしおらしく言う。
すると・・・、
「なにか、許可証を持っていますか?」と警官は聞いてきた。
話が噛みあわない^^;
許可証云々については、持っていないと伝えてある。
同じセリフしか用意されていないRPG(ロールプレイングゲーム)ゲームのNPC(ノンプレイヤーキャラクター)のようだった。
・・・「ええ、残念ながら・・・。ところで、(地図を見せながら)この北回りならば、検問はありませんよね?」
私も、「ところで」と話を変えるようでいて、またも同じ質問をさせられるのだった。
「検問はやっているかいないか分かりません。でも、多分、平気だと思いますよ」
「何度も検問されて、何度も免許証などを控えられると、なんか問題になりそうですから^^; まあ、事務的なもんなんですよね、それは?」
「え、ええ^^ そうです、事務的です。事務的なものです^^」
「そうですか。では、北回りで行ってみます。・・・では、戻りますね」
なんで、こんな狭いトコで方向転換しなくちゃいけないんだ、と思いつつ、私は、難儀しつつヴィッツをUターンさせた。
そして、警察官に一礼をして去ろうとした、その時、警官二人の背後に、もう一人の人物が来ていたのを見た。
なんとも、「さや侍」を若くしたような、悲しそうな寂しそうな表情をしていた。
その男は、社服を着ていて、胸には、その会社のロゴが縫い付けてあった。
ドーン!
◇
・・・いや、実は、私、この頃、この「最前線」の醸すプレッシャーには、かなり緊張感と圧迫感を感じさせられていた。
しかし、今、20キロ圏内の検問を前にして、その緊張感と圧迫感はピークに達していた。
だから、「ああ、こりゃ、無理だ。こりゃ、無理だ。放射能への過剰な恐怖を持たない自分でさえも、これほどの、心が折れるようなプレッシャーを受けているんだ。普通に暮らして、風評被害を拡大させている人々から、この恐怖を拭い去って普通の生活をしろなんてのは、過剰な情報公開の前にあっては無理なことだ」と、車内で独り言を呟くのだった。
だが、無色透明な放射能である。
健康に害のない今のレベルなら、情報公開さえなければ、気付かずに生活できていたものを・・・。
これが、いわゆる「寝た子を起こす」ということであり、「マッチポンプ」行為なのである。
私が、このブログで繰り返し語っている「正常な判断能力を持たない愚民には知らせるな!」ということを意味する。
さて、国道399線を北上す。
山の道であるが、舗装されていて、相変わらず誰もいないことを除けば、走行に問題なし。
途中、何度か、東の浪江町への脇道があった。
進入禁止の、ささやかなバリケードと表示があった。
おそらく、ここに入れば、先ほどの検問を回り込んで、20キロ圏内に入れるのだろう。
尤も、私がそこまでして20キロ圏内に入る意味はない・・・。
それから、今、この文章を書いていて、地図を見ていたら気付いたのだが、検問のあった国道114号線だが、そこを逆に北西に10キロほど進むと「山木屋」があった。
ここが前回の引用ニュースで記した山木屋地区なのだと思う。
つまり、ここの地区の住人が計画的な避難の対象になったわけだ。
・・・意味が分からなかった。
なんで、この地区だけが突出して計画的な避難の対象になったのだろう。
風向きで、ここだけが危険とされたのか?
他の地区は、計画的な避難をするほどの住人がいないのか。
この後に訪れる飯舘村は、全村避難で、まあ、行政区画的に理解は出来るのであるが。
・・・分かった!
地図をじっと見ていたら、分かった。
山木屋地区が、川俣町の中でも、特に南西に出っ張っているのだ。
だから、福島第一原発から、同心円状に30キロの範囲で境界線を引いたら、その中になったのだ。
追記:どうやら違った。
放射線は、必ずしも同心円状に拡がるのではなく、自然状況(地形、風向きや雨雪など)で変わり、
山木屋地区は<ホットスポット>とされたのだ。
<ホットスポット>とは?
・・・汚染物質が大気や海洋などに流出したときに、気象や海流の状態によって生じるとりわけ汚染物質の残留が多くなる地帯のこと。汚染物質の種類は問わない。
・・・で、今朝(5/17)のNHKニュースを見ていたら、この界隈は、放射線量が非常に高いエリアであることも分かった。
だが、まあ、それでも、東京~ニューヨーク往復旅行(190マイクロシーベルト)したよりもはるかに低い数値だ。
ニュースでは、最大で80マイクロシーベルトが計測されていた・・・。
要は、累積放射線量が問題なのだろう。
◇
飯舘村に入った。
国道399号線が県道62号線と交差する長沼の交差点にはパトカーが待機していた。
私は、道を尋ねようとパトカーに近づく。
だが、パトカーの窓は開かない。
中には、四人の警官がいた。
私が中に向かって手を振ると、やっと窓を開けた。
四人ともマスクをしていて、私を迷惑そうにして見た。
後から会話するに、ちょいと訛っていたので、この方らも地方からの派遣警官なのだろう。
と、書いてみたが、おそらく、地元の福島の警官でも、私から見たら訛っていよう^^;
この四人、・・・放射能に恐怖していた。
複数いる故に、ちょっとした集団ヒステリー状態にあるのかも。
で、ヒステリーは私にも伝播し、やや、私、恐怖を増幅させた。
警官の話では、原町には、この62号線が地図上では近くて検問もないけど、悪路なので、更に399号線を北に進み、12号線で行った方がいいよ! とのこと。
どうも派遣されてくるのは若い警官が多く、屈託なくもある。
私は、その言葉に従ったし、後から考えるに、県道62号線は、一昨年の東北の旅で最も危険だった道ではないか。
地図を逆方向から見ていたので気付かなかったが、震災後、あの道は究極に危険であったはずだ・・・。
若き警官の助言に従って良かった^^
◇
さて、この飯舘村は、訪れた日(05/15)、全村での避難が行なわれた。
《ふるさと飯舘 変わらぬ景色、消える日常 (産経 2011/04/17 00:50)》
<緑が芽吹き、道ばたにはタンポポが咲く。冬が終わり、ようやく待ち望んだ季節が来たはずだった。高校時代まで過ごした村の風景は、いつもと変わらない春。だが、いつもとは違う。故郷である福島県飯舘村から報告する。
■「深呼吸できますか」
東京電力福島第1原発から北西に半径30~50キロ圏にある村は、一部が屋内退避区域の20~30キロ圏に入り、自主避難などを行っていたが、高い放射線量の数値が続いているため、政府が「計画的避難区域」に指定する方針を固めた。水道水の飲用規制、農作物の作付けの規制など、苦難が次々と襲いかかってきた。
「この村で深呼吸できますか?」。16日、計画的避難の説明に訪れた福山哲郎官房副長官(49)に農家の男性は問いただした。主要産業の農業や畜産は、豊かな土と水と空気で育まれてきた。自然とともに生きてきた村の生活が根本から崩れ去ろうとしている。だからこそ、多くの村民が「飯舘村を離れるわけにはいかねえ」と口にする。
■6200人の抱える不安
過疎化でも市町村合併に参加することなく、「自主自立の村作り」を掲げ、村おこしに励んできた。しかし、この未曽有の危機に、村民約6200人、それぞれが不安を抱えている。
父(60)は昨年、長年の夢だった農業に本格的に取り組みはじめた。昨年の経験から今年は、改良した作物を作ることを楽しみにしていた。それなのに田植えの準備もできず、外に出ることもままならず、家の掃除ばかりの日々送っている。
野菜直売所「みちくさ」は収穫の時期を迎えているのに、シャッターが閉ざされたまま。運営者の一人、本田美代子さん(79)は「自分で作った野菜を自分で売る。お金ではない楽しみ、生きがいを奪われた」。
佐藤優菜ちゃん(9)ら3姉妹は「放射能があるから外に出ちゃ駄目なんだよ」と、家の中で絵を描いたり、かくれんぼをして遊んでいる。学校も始まらず、友達とも会えない。快晴の空を見て「外で遊びたいな」と寂しそうな顔をする。
■「なくなっても誰も…」
100歳を超えた男性は計画的避難が発表された日、「長生きはするもんじゃない」と家族に告げ、足手まといになると思い詰めた末に自ら命を絶った。村の幹部は「冷害、大火災、村の危機はたくさんあったが、今度ばかりは乗り切れる気がしない」と弱音を吐く。
1年でも手入れをしなければ、田畑は荒れる。見た目には何ら変わりない、普段通りの景色がよけいむなしさを募らせる。「10年、20年」となれば、元の美しい田園風景に戻すのは難しい。
「こんな小さな村なくなっても誰も気にしねぇよ。国の人もみんなそう思ってんだべ」
店は少ない。夜は暗い。コンビニも1軒だけ。電車も走っていない。子供のころは不便に感じていたが、広い空が近く、穏やかな空気が流れている村に、毎年夏は帰郷していた。今年の夏も帰れるだろうか。(大渡美咲)>
>>>「こんな小さな村なくなっても誰も気にしねぇよ。国の人もみんなそう思ってんだべ」
そんなことはない。
少なくとも、私がいる。
私は、399号線から県道31号線に入り、12号線に至る道をあえて入らずに、飯舘村の一般道を突っ切って12号線に向かった。
豊かな緑が広がっていた。
陽光がきらめいていた。
(2011/05/17)