先日物故した哲学者梅原猛氏は既存の枠組に囚われずその活躍は多方面に亘りました。
これは戯曲作家としての氏の一面を示す一冊。古事記の国譲り神話を題材に、多方面からの該博な知識と近代人の思考を加味し、新作歌舞伎の脚本として書きおろした一冊です。市川猿之助『スーパー歌舞伎』として上演されましたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
※梅原猛『オオクニヌシ』株式会社文藝春秋 / 1997年3月30日第1刷発行
この戯曲の中でオオクニヌシは当初オオナムチという名前で登場します。
オオナムチはもともとは三輪山の神様です。その神様がなぜ出雲大社に祀られているのでしょうか?
※諸星大二郎『暗黒神話』(集英社)に登場するオオナムチ・・・縄文デザインを纏った神様!
スイマセン⤵オオナムチといわれるとどうしても使ってみたくなる画像です(直接の関係はありません)。
ここの登場するオオクニヌシはまことに善良な人物なのです。本来はアメノミナカヌシとカミムスビノカミの間に生まれたのですから、これは神様なのです。しかし自分の出生をしらず、沼のばばあに預けられて育ちます。世界にはこのように高貴な胤をもつ人物が賤しい身分に貶められている話が多いです。いわゆる貴子流離譚です。物臭太郎なんかはその最たるものです。そうして兄弟からはバカにされ軽んじられる末弟は実に優しい心を持っているのです。因幡の白兎伝説がそれをよく現しています。
※因幡の白兎を助けるオオクニヌシ。
この優しい末弟は兄弟の悪だくみに遭い何度も命を失いかけます。物語の中では本当に死んでしまうのですが、黄泉の国へ行っては戻る度に以前よりも強くなります。ついには黄泉の王スサノオの娘と恋に落ち、娘とともに剣を持って現世へと駆け落ちするのです。兄弟たちの企みを破ってこれを討ち果たし、大和の国を平定します。
※黄泉の国から復活したオオクニヌシ(パズドラより)
ところが、ここに天つ神の一団がやってきます。彼らこそは高天原から来た天孫ニニギの一党であり、契約によって大和を譲り渡すよう迫るのです。国つ神たちは文字というものを持たなかった。穏やかな生活を送ってきた彼らには文字の必要が無かったのです。
そこであるいは騙され、あるいは討たれ、強大な軍事力を背景にした集団に大和の国を奪われてしまいます。
何だか時代劇でよくある『ニセの証文をもとに善良な庄屋を陥れる悪代官と豪商』のような構図です。
※侵略者としての天孫ニニギあるいは神武天皇・・・八咫烏(ヤタガラス)を掌に載せている。
この戯曲には出てきませんが古事記によればタケミカヅチは砂浜に剣を逆さまに立てその上に胡坐をかいて座りオオクニヌシに国譲りを迫ります。これは実に異様な姿ですが、これこそ強大な軍事力を背景にした脅迫であったと思われます。オオクニヌシは二人の息子に相談しなければ決められないと時間稼ぎをしますが、長男コトシロヌシは怯えて小屋に籠ってしまいます。次男タケミナカタは敵将タケミカヅチに戦いを挑みますが両腕を引き千切られてしまい、遠く諏訪の地まで逃げに逃げますが捕らえられてしまいます。
※諸星大二郎『暗黒神話』(集英社)に登場するタケミナカタ・・・両腕を失い甲賀三郎の人穴に繋がれている!
スイマセン⤵これもどうしても使ってみたくなる画像です(直接の関係はありません)。
この戯曲は梅原日本学の研究成果をもとにしているので、天つ神とは現在の天皇家の祖を長とする一団であり、そのルーツは大陸にあります(直截に言えば朝鮮系になります)。彼らは大陸渡来の鉄器で武装しています。当初筑紫の国に勢力を張っていたのですが、これが大和へと攻めのぼってくるのです。
※縄文時代を象徴する優美な火焔式土器のデザイン
縄文時代とは狩猟採集の文化であり、最近までは原始的な時代だと考えられてきましたが、最近の研究では『狩猟採集に基盤を置きながら、争いのない社会が一万年に亘って続いた、稀有な時代』だとされるようになっています。
火焔式土器の優れたデザインを見てもその文化水準の高さは明らかです。
ここに攻め入った渡来人たちによって稲作がもたらされ弥生時代に突入するワケですが『穀物という蓄積可能な財の登場によって貧富の差が生まれ、それまでの穏やかな生活は失われてしまった』と言えるのではないでしょうか。
オオクニヌシは出雲に移されて亡くなり、現在の出雲大社の地に祀られてこの物語は終わります。
※大林組による古代出雲大社の復元図・・・宮殿ではなくあきらかに死者を祀る建物です。
現代の方言分布を見ると山陰地方が関東語圏であることが分かりますが、これは大和が天つ神の一団(現在の天皇家に繋がるルーツの一族)に支配された後、国つ神に繋がる氏族が関東や山陰に逃れたことを表わしているように思われます。
※関東語圏と関西語圏(アクセントによる分類)
※関東語圏と関西語圏(語尾による分類)
オオクニヌシの最期の言葉は、天つ神の支配を受けながらも国つ神の精神が世を覆い、もとの直き世界になるための祈りの言葉です。
おそらく、天つ神のほうがわれらよりも文明人であろう。人間は文明の発達とともに、人間が昔からもっていた尊い魂を失ってしまったのだ。われら国つ神のほうに、天つ神よりはるかに尊い純粋な魂が存在している。私はその純粋な魂の国をこの世につくろうとした。私はあまりに人間を信じすぎて、その純粋な魂の国を滅亡に導いたが、その理想が誤っていたとは思えない。
おまえは私のただ一人、残った孫だ。おまえは、この国つ神が祖先以来大切にしてきた清らかな魂をそのからだに受け継いでいるはずだ。その純粋な魂で、かえって侵入者たちを敬服させよ。
百年も二百年も経てば、かえってこのずる賢い侵入者たちも、彼らが支配する国つ神の清らかな魂に感化されて、少しはまともな人間になるかもしれぬ。百年で少しまともな人間になったら、二百年経てばいっそうまともな人間になるであろう。そうしたらこのオオ大和の国の人間は、天つ神の魂よりより多く国つ神の魂をもつ人間になるにちがいない。
おまえたち国つ神の子孫たちは、美しい魂をこの日の本の地に深く深く植え付けろ。それが私の天つ神に対する復讐だ!
オオクニヌシの復讐は成ったのでしょうか?現代に生きる我々は直き心を忘れてはいませんか?
改めて問い直したい一冊です。