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親鸞によれば『真の極楽』つまり真実報土の極楽世界は、光の世界なのです。
無礙光如来すなわち阿弥陀仏が発する、妨げるもののない光に満たされた世界です。
その光は、あまりの強さゆえに極楽をのみ満たす光ではありえません。
※阿弥陀仏が発する、妨げるもののない光に満たされた世界こそ真の極楽浄土である。
それは強い光の世界ゆえに、その光をまた、この世界に持ってこなくてはならない。この妨げることのない永遠なる光の世界は、その光の豊満なためにまた多くの苦悩に悩む衆生にその光をもたらすことを命ずるのである。
極楽浄土へ行く者とは、六道の輪廻を脱して極楽の住人となるのですからこれは本来一方通行なのです。
ところが親鸞はそれとは異なる見解を示すのです。
念仏の行者は極楽に赴くのですが、それは56億7千万年後の未来にこの世を救う弥勒菩薩と同じ境地(等正覚)に至り、(弥勒菩薩と同様に56億7千万年の間中)ずっと補處の位にいて、あの世とこの世を往復して菩薩行に励まなくてはならない、というのです。
極楽へ行っても全然ラクではないのです。
この極楽行きを『往相廻向』、帰りを『還相廻向』といい、この2つを合わせて『二種廻向』といいます。
これこそが親鸞独自の革新的な思想なのです。
※親鸞が考えた二種廻向(往相廻向と還相廻向)のイメージ図
この世とあの世を行ったり来たりする永遠の往復運動を通じて衆生を救うことこそ、浄土真宗における極楽往生の真髄なのです。まるでニーチェの『永劫回帰』です。
※真の菩薩は光の世界から衆生を助けるためくり返し何度でも現れる(タロウ!ウルトラマン、ナンバーシックス!)
そして親鸞は『救世観音が衆生を救うために人の姿を借りて何度でも立ち現れている』という考えに至ります。
立ち現れた救世観音は親鸞にこうささやくのです『美しい女身となってお前に犯されてやろう』いや、これではまるきり悪魔ですが・・・。
親鸞自身もまた生まれ変わり死に変わりして衆生を救おうと心に誓うのでした。
現代人はあの世を信じなくなりました。
マルチン・ハイデガー以来『人は死んだら無になる』という考え方が支配的です。
しかし『あの世』を考えることこそが親鸞の本質的な理解につながると著者は言います。
最後は有名な『カラマーゾフの兄弟』の問答で締めくくることといたしましょう。
フョードル『神があるかないか、不死があるかないか、イワン答えよ』
イワン『神も不死もありません』
フョードル『ないとしたら、どうしてそのような虚偽が存在するのか』
イワン『神と不死がなかったら、文明もありません』
(了)