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【女帝から孫への皇位継承】
古事記の成立は元明天皇の時代に行われます。
これに携わったのは太安万侶と稗田阿礼と言われています。
太安万侶の素性は分かりますが、稗田阿礼という人物に関する記録は一切残っていません。
この本では、『稗田生まれ』という偽名を名乗る人物こそ古事記及び日本書記の選集を行った人物ではないか、という説が展開されています。
姓(うぢ)は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。人と為り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)しき。
本居宣長は次のように言っています。
此ノ人、上ノ文に廿八歳とありしは、かの清御原ノ御世の何(いづ)れの年なりけむしられねば、今和同四年には齢(よはひ)いくらばかりにか有ルらむ、さだかには知リがたりけれど、姑(しばら)く彼レを元ノ年として数ふれば、六十八歳にあたれり、されどそのかみ所思看(おもほしめ)し立(たち)しこと、いまだとげ行(おこな)はれぬほどに、天皇崩(かみあがり)まししを思へば、御世の末つかたの事にこそありけめ、もし崩リの年のこととせば五十三歳なり(古事記伝より)
年齢の一致と、立場その他の検証を経て『稗田阿礼は藤原不比等ではないか』との説が展開されて行きます。
古事記とは、元明天皇に献じられた秘密文書ではなかったか、というのです。そして元明天皇と藤原不比等とのただならぬ関係までもが明らかになって行くのです。
古事記でアマテラスは孫のニニギノミコトに『此の豊葦原ノ水穂ノ国は汝(いまし)知らさむ国ぞ』と言って天孫族の支配を宣言します。
※月岡芳年『大日本名将鑑』に描かれた神武天皇(ニニギノミコト)
古事記成立の時代、皇位の継承はかなり紆余曲折しています。女帝が多く立ったのもこの時代です。
舒明天皇が亡くなったとき跡継ぎが決まらず、いったん皇后が皇位をキープして皇極天皇となります。
乙巳の変(↓脚註参照)で立った孝徳天皇が亡くなると皇極天皇は斉明天皇として再び即位します。
その後天智天皇(乙巳の変の実行者)、さらに壬申の乱を経て天武天皇と続きますが、天武天皇が亡くなると皇后の持統天皇が立って皇位をキープ。持統天皇の息子である草壁王子が早世してしまいますので、ひたすら孫の文武天皇に皇位を譲ることに腐心します。
文武天皇が亡くなると、持統天皇の娘である元明天皇が皇位をキープ、娘の元正天皇を即位させることで、これまた孫の聖武天皇に皇位を譲ることに成功するのです。
古事記が成立した時代、二度にわたって女帝から孫への皇位移譲が行われていることに注目してください。
天孫降臨はアマテラスからニニギノミコトへの皇位継承にほかなりません。
古事記には『祖母から孫への皇位継承を正当化する』という一大テーマが潜められていたのです。
古事記と日本書記の編纂、新しいミソギ・ハライの神道の確立、神話の改変と他氏族の祖神の乗っ取り、天皇制イデオロギーの確立とともに、天皇制の蔭で他氏族を圧倒して繁栄した藤原氏の基礎を築いた人物、それが藤原不比等である、と結論づけてこの論文は終わります。
(完)
※脚註:昔は『大化の改新』と言いましたが、事件そのものは最近では『乙巳の変(いっしのへん)』と呼ばれています(テロで世の中を変えることができた稀有な例といえます)。
斬られた入鹿の首は飛んで皇極天皇の御簾に喰らいついたそうです。この執念はただごとではありません。入鹿は皇極天皇に恨み言を言っているのです。
女帝の時代はスキャンダルの時代でもあります。考えてみれば『乙巳の変』自体が『激情的な中大兄皇子による、母親(皇極天皇)の愛人(蘇我入鹿)殺し』であり、これを唆したのは藤原鎌足です(藤原氏が『藤』という植物を姓にしたのは、まことに象徴的なことだと思われます。藤はそれだけでは成長することができません。他の樹木に巻き付いて成長し、ついにはその樹を覆い隠すばかりに繁り栄えていくのです。自らは決して表に立たず、裏から政治を操った藤原氏にはまことに相応しい植物に思えます)。
孝謙上皇(後の称徳天皇)の時代には有名な弓削道鏡事件が起こりますので、元明天皇と藤原不比等の関係も二人の強い信頼を考えるとありえなかったことではなさそうに思えます(藤原不比等は天武帝の未亡人と通じ、子供まで授かりましたが処罰されていません)。
なお、近松半二の『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』に登場する淡海公(三輪姫と入鹿の娘という二人の女性を操るイケメン)は藤原不比等がモデルとされています。
【女帝から孫への皇位継承】
古事記の成立は元明天皇の時代に行われます。
これに携わったのは太安万侶と稗田阿礼と言われています。
太安万侶の素性は分かりますが、稗田阿礼という人物に関する記録は一切残っていません。
この本では、『稗田生まれ』という偽名を名乗る人物こそ古事記及び日本書記の選集を行った人物ではないか、という説が展開されています。
姓(うぢ)は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。人と為り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)しき。
本居宣長は次のように言っています。
此ノ人、上ノ文に廿八歳とありしは、かの清御原ノ御世の何(いづ)れの年なりけむしられねば、今和同四年には齢(よはひ)いくらばかりにか有ルらむ、さだかには知リがたりけれど、姑(しばら)く彼レを元ノ年として数ふれば、六十八歳にあたれり、されどそのかみ所思看(おもほしめ)し立(たち)しこと、いまだとげ行(おこな)はれぬほどに、天皇崩(かみあがり)まししを思へば、御世の末つかたの事にこそありけめ、もし崩リの年のこととせば五十三歳なり(古事記伝より)
年齢の一致と、立場その他の検証を経て『稗田阿礼は藤原不比等ではないか』との説が展開されて行きます。
古事記とは、元明天皇に献じられた秘密文書ではなかったか、というのです。そして元明天皇と藤原不比等とのただならぬ関係までもが明らかになって行くのです。
古事記でアマテラスは孫のニニギノミコトに『此の豊葦原ノ水穂ノ国は汝(いまし)知らさむ国ぞ』と言って天孫族の支配を宣言します。
※月岡芳年『大日本名将鑑』に描かれた神武天皇(ニニギノミコト)
古事記成立の時代、皇位の継承はかなり紆余曲折しています。女帝が多く立ったのもこの時代です。
舒明天皇が亡くなったとき跡継ぎが決まらず、いったん皇后が皇位をキープして皇極天皇となります。
乙巳の変(↓脚註参照)で立った孝徳天皇が亡くなると皇極天皇は斉明天皇として再び即位します。
その後天智天皇(乙巳の変の実行者)、さらに壬申の乱を経て天武天皇と続きますが、天武天皇が亡くなると皇后の持統天皇が立って皇位をキープ。持統天皇の息子である草壁王子が早世してしまいますので、ひたすら孫の文武天皇に皇位を譲ることに腐心します。
文武天皇が亡くなると、持統天皇の娘である元明天皇が皇位をキープ、娘の元正天皇を即位させることで、これまた孫の聖武天皇に皇位を譲ることに成功するのです。
古事記が成立した時代、二度にわたって女帝から孫への皇位移譲が行われていることに注目してください。
天孫降臨はアマテラスからニニギノミコトへの皇位継承にほかなりません。
古事記には『祖母から孫への皇位継承を正当化する』という一大テーマが潜められていたのです。
古事記と日本書記の編纂、新しいミソギ・ハライの神道の確立、神話の改変と他氏族の祖神の乗っ取り、天皇制イデオロギーの確立とともに、天皇制の蔭で他氏族を圧倒して繁栄した藤原氏の基礎を築いた人物、それが藤原不比等である、と結論づけてこの論文は終わります。
(完)
※脚註:昔は『大化の改新』と言いましたが、事件そのものは最近では『乙巳の変(いっしのへん)』と呼ばれています(テロで世の中を変えることができた稀有な例といえます)。
斬られた入鹿の首は飛んで皇極天皇の御簾に喰らいついたそうです。この執念はただごとではありません。入鹿は皇極天皇に恨み言を言っているのです。
女帝の時代はスキャンダルの時代でもあります。考えてみれば『乙巳の変』自体が『激情的な中大兄皇子による、母親(皇極天皇)の愛人(蘇我入鹿)殺し』であり、これを唆したのは藤原鎌足です(藤原氏が『藤』という植物を姓にしたのは、まことに象徴的なことだと思われます。藤はそれだけでは成長することができません。他の樹木に巻き付いて成長し、ついにはその樹を覆い隠すばかりに繁り栄えていくのです。自らは決して表に立たず、裏から政治を操った藤原氏にはまことに相応しい植物に思えます)。
孝謙上皇(後の称徳天皇)の時代には有名な弓削道鏡事件が起こりますので、元明天皇と藤原不比等の関係も二人の強い信頼を考えるとありえなかったことではなさそうに思えます(藤原不比等は天武帝の未亡人と通じ、子供まで授かりましたが処罰されていません)。
なお、近松半二の『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』に登場する淡海公(三輪姫と入鹿の娘という二人の女性を操るイケメン)は藤原不比等がモデルとされています。
この本はまだ読んでおりませんので 読んでみます。
モバちゃんの記事のベースがあれば かなり助かりますね。
ぜひ、元の本をお読みになることをオススメします。とてもオモシロイんです。