しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

遺体処理

2020年10月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争時、父は一人の遺体を焼いて、その一人分の遺骨を複数人、
つまり本人及び他の戦死者(土葬)の遺骨箱に入れていたと話していた。

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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行


中国戦線での遺体処理



戦友の死体を背負って前線から撤退するケースもあった。
しかし戦局が不利であったり、作戦行動との兼ね合いで時期的に余裕がない場合などは、そうはいかなかった。

銃弾が飛びかう下で、戦死した上官の遺品として肩章と軍刀を取った後、「右腕を銃剣で切り落とし、三角布で自分の首に下げた」
数日間処理できず「悪臭のはなった」腕を枕元に置いていた。

収容された遺体が多数に上った場合、手首から先を切断し遺骨とし、遺体は埋葬することもあった。
激戦のなかで戦死した戦友の指1本だけを切り取って持ち帰り、それを火葬にすることもあった。



戦死と遺骨

戦死
徐州南方で、1938年
6月9日、戦死の或る近衛工兵隊伍長の一例。
6月13日、神奈川県の家族に弔電が届いた。
6月15日、読売新聞と東京日日新聞の地方版に戦死が報じられた。
6月16日、小隊長から父母あてに戦死に至る経緯の手紙が届く。
6月20日、部隊長から父母あて同様な手紙が届く。
7月12日、戦死通告が父あてに発せられた。戦死場所と時刻と死因が記された事務的なもの。
 遺留品は比較的丁寧な対応がとられた。
 郵送で遺品や、写真が届けられた。

葬儀
8月7日、東京駅に遺骨が到着。
8月9日、工兵隊で慰霊祭。10時半に終了して遺骨を遺族に渡す。
8月29日、村葬が営まれた。
葬儀委員長は村長。村の在郷軍人会、青年団、郡や県、小学校の児童を含め参列者は500名を超えた。
陸軍大臣・参謀総長・教育総監からの弔電もあった。
その後、家での葬儀となった。


招魂式

1941年3月、海軍大将から靖国神社での招魂式と臨時大祭の案内がもたらされた。
招魂式は4月23日、
臨時大祭は4月24日。
「妻子や父母等の内から」二名までとされた。
位牌を抱いて「英霊」は1万4976柱。遺族は三万人。
交通費・無料参観兼、慰安会が催された。
金品の贈呈、陸海軍から記念品が贈呈された。


コメント
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