「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行
慰安所の実態
日中戦争期には民間人の渡航は許可制であった。
慰安婦政策が存在しなければ、業者が渡航許可を得ることは困難であった。
慰安所での性病の検査には軍や、時には領事館が関与していた。
中国戦線で「慰安婦」とされたのは、
日本国内、
日本の植民地であった朝鮮・台湾、
日本占領下の中国の、女性であった。
日本からは職業的な売春婦が連れて行かれるケースが多かったとみられるが、一般女性もいた。
朝鮮・台湾からは一般の若い女性が連れていかれるケースが多かった。
これら一般女性の場合、仕事の内容を偽って募集された女性も多かった。
彼女たちは戦地に着いてから「慰安婦」として使われることを知らされたが、もはや帰国するすべはなかった。
慰安所の稼働時間は朝から深夜までの15時間程度で、兵、下士官、将校という階級によって利用できる時間帯が分けられていた。
この間「慰安婦」は客として来た兵を拒むことはできず、多い日には一日で50人以上もの兵を相手にしなければならなかった。
女性たちは、親に支払われた金や、移動経費など、本人の知らぬ間に借金を負わされた形になり、「慰安婦」として働かざるをえなかった。
給与は、借金返済などにあてる形で本人には支払われず、借金が返済し終わると国防献金に回されてしまうなど、結局本人に渉るケースは少なかった。
休日は月一回しか与えられず、勝手に外出することは認められなった。
兵士はコンドームの使用が定められていたが、兵士は必ずしもそれを守らなかった。
そのため兵士から性病をうつされたり、妊娠する場合もあった。
戦地で病死した人や自殺した人もいた。
どうにか戦後まで生き延びた場合でも、自分の体験を恥じ、帰国しても故郷に戻れず、身をひそめるようにして結婚もせず、ひとりで生活するケースが少なくない。
性暴力により受けた精神的ダメージは、その後も彼女たちを苦しめた。
いったい何人の女性が日本軍の「慰安婦」とされたのかは
はっきりとわかっていない。
アジア太平洋戦争期を含めて、数万~20万人の女性が「慰安婦」とされたと見られる。
慰安所の実態
日中戦争期には民間人の渡航は許可制であった。
慰安婦政策が存在しなければ、業者が渡航許可を得ることは困難であった。
慰安所での性病の検査には軍や、時には領事館が関与していた。
中国戦線で「慰安婦」とされたのは、
日本国内、
日本の植民地であった朝鮮・台湾、
日本占領下の中国の、女性であった。
日本からは職業的な売春婦が連れて行かれるケースが多かったとみられるが、一般女性もいた。
朝鮮・台湾からは一般の若い女性が連れていかれるケースが多かった。
これら一般女性の場合、仕事の内容を偽って募集された女性も多かった。
彼女たちは戦地に着いてから「慰安婦」として使われることを知らされたが、もはや帰国するすべはなかった。
慰安所の稼働時間は朝から深夜までの15時間程度で、兵、下士官、将校という階級によって利用できる時間帯が分けられていた。
この間「慰安婦」は客として来た兵を拒むことはできず、多い日には一日で50人以上もの兵を相手にしなければならなかった。
女性たちは、親に支払われた金や、移動経費など、本人の知らぬ間に借金を負わされた形になり、「慰安婦」として働かざるをえなかった。
給与は、借金返済などにあてる形で本人には支払われず、借金が返済し終わると国防献金に回されてしまうなど、結局本人に渉るケースは少なかった。
休日は月一回しか与えられず、勝手に外出することは認められなった。
兵士はコンドームの使用が定められていたが、兵士は必ずしもそれを守らなかった。
そのため兵士から性病をうつされたり、妊娠する場合もあった。
戦地で病死した人や自殺した人もいた。
どうにか戦後まで生き延びた場合でも、自分の体験を恥じ、帰国しても故郷に戻れず、身をひそめるようにして結婚もせず、ひとりで生活するケースが少なくない。
性暴力により受けた精神的ダメージは、その後も彼女たちを苦しめた。
いったい何人の女性が日本軍の「慰安婦」とされたのかは
はっきりとわかっていない。
アジア太平洋戦争期を含めて、数万~20万人の女性が「慰安婦」とされたと見られる。