「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行
日中戦争の泥沼化
1937年(昭和12)11月、関東軍は蒙疆(もうきょう)政権を樹立した。
同年12月北支那方面軍が中華民国臨時政府を樹立した。
1938年3月には、中支那派遣軍が南京に中華民国維新政府をを樹立した。
この傀儡政権は統一もせず、民衆の信望は低かった。
国民政府の軍事的潰滅のあてが外れていった。
1938年春、徐州に中国軍50~60万人が集結した。
大本営は、大規模な包囲殲滅作戦である徐州作戦を4月7日命令した。
しかし六個師団約20万人の日本軍は、中国軍をほとんど捕捉することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。
徐州作戦にひきつづき、
大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、その攻略が戦争終結に結び付くと期待された。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1000㌔ほど揚子江をさかのぼったとっころにある。
重慶は航空機による爆撃しかなく、そのためにも武漢の攻略は必要とされた。
大本営は武漢に加え、軍需物資の入口となっている広東省を攻略する方針を決めた。
1938年8月22日、30万の兵力で武漢作戦は発動された。
1938年10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
徐州同様、中国軍は退却しており潰滅的打撃を与えるという目的は果たせなかった。
日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事的動員力は限界にたっしつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大されていったが、目的を達することなく終わったのである。
宇垣工作と汪兆銘工作
宇垣工作
1938年5月に近衛内閣の新外相に就任した宇垣一成大将は、「国民政府を相手とせず」声明の修正を主張し、近衛も同意を与えた。
宇垣の登場は国民政府との和平工作を再開させる契機にはなったが、まもなく暗礁に乗り上げた。
中国側は、日本による華北支配・賠償支払いなどある程度応じる姿勢を見せたが、蒋介石の下野を拒絶し、交渉は行き詰まり9月に打ち切られた。
汪兆銘工作
汪兆銘は国民党副総裁の地位にあった。
日本軍の停戦表明に合わせて和平を実現する筋書きだったが、国民政府内の主導権は握れなかった。
その後は、汪兆銘を国民政府から切り離した。
1939年、
1938年末に中国戦線は膠着し、厭戦感情も表面化しつつあった。
1940年、
ドイツは4月以降北欧と西方諸国へ侵攻。
6月フランスを陥落させた。
ドイツの勝利に幻惑され「バスに乗り遅れるな」とばかり日独伊三国軍事同盟締結。
それを背景に東南アジア占領(南進)を活発化させた。
大東亜の新秩序
1940年7月22日、第二次近衛内閣が成立。
「基本国策」は「大東亜の新秩序の確立」と謳った。
これは、日満支を一環とし大東亜の包容する皇国の自給自足経済の確立を意味した。
「南進」は日中戦争解決でなく、それ自体を目的とした。
東南アジアに植民地を有するアメリカ・イギリス・オランダ・フランスとの対立は避けられないものとなっていった。
9月23日、ベトナム北部へ武力進駐が開始された。
9月27日、ベルリンにおいて日独伊三国軍事同盟が調印された。参戦は自主決定によることとなった。
日中戦争の泥沼化
1937年(昭和12)11月、関東軍は蒙疆(もうきょう)政権を樹立した。
同年12月北支那方面軍が中華民国臨時政府を樹立した。
1938年3月には、中支那派遣軍が南京に中華民国維新政府をを樹立した。
この傀儡政権は統一もせず、民衆の信望は低かった。
国民政府の軍事的潰滅のあてが外れていった。
1938年春、徐州に中国軍50~60万人が集結した。
大本営は、大規模な包囲殲滅作戦である徐州作戦を4月7日命令した。
しかし六個師団約20万人の日本軍は、中国軍をほとんど捕捉することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。
徐州作戦にひきつづき、
大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、その攻略が戦争終結に結び付くと期待された。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1000㌔ほど揚子江をさかのぼったとっころにある。
重慶は航空機による爆撃しかなく、そのためにも武漢の攻略は必要とされた。
大本営は武漢に加え、軍需物資の入口となっている広東省を攻略する方針を決めた。
1938年8月22日、30万の兵力で武漢作戦は発動された。
1938年10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
徐州同様、中国軍は退却しており潰滅的打撃を与えるという目的は果たせなかった。
日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事的動員力は限界にたっしつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大されていったが、目的を達することなく終わったのである。
宇垣工作と汪兆銘工作
宇垣工作
1938年5月に近衛内閣の新外相に就任した宇垣一成大将は、「国民政府を相手とせず」声明の修正を主張し、近衛も同意を与えた。
宇垣の登場は国民政府との和平工作を再開させる契機にはなったが、まもなく暗礁に乗り上げた。
中国側は、日本による華北支配・賠償支払いなどある程度応じる姿勢を見せたが、蒋介石の下野を拒絶し、交渉は行き詰まり9月に打ち切られた。
汪兆銘工作
汪兆銘は国民党副総裁の地位にあった。
日本軍の停戦表明に合わせて和平を実現する筋書きだったが、国民政府内の主導権は握れなかった。
その後は、汪兆銘を国民政府から切り離した。
1939年、
1938年末に中国戦線は膠着し、厭戦感情も表面化しつつあった。
1940年、
ドイツは4月以降北欧と西方諸国へ侵攻。
6月フランスを陥落させた。
ドイツの勝利に幻惑され「バスに乗り遅れるな」とばかり日独伊三国軍事同盟締結。
それを背景に東南アジア占領(南進)を活発化させた。
大東亜の新秩序
1940年7月22日、第二次近衛内閣が成立。
「基本国策」は「大東亜の新秩序の確立」と謳った。
これは、日満支を一環とし大東亜の包容する皇国の自給自足経済の確立を意味した。
「南進」は日中戦争解決でなく、それ自体を目的とした。
東南アジアに植民地を有するアメリカ・イギリス・オランダ・フランスとの対立は避けられないものとなっていった。
9月23日、ベトナム北部へ武力進駐が開始された。
9月27日、ベルリンにおいて日独伊三国軍事同盟が調印された。参戦は自主決定によることとなった。