しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「街の子」昭和の歌姫に--美空ひばり

2020年10月11日 | 昭和21年~25年
30代の時、横浜市の磯子に住んでいたことがある。
美空ひばりは磯子の魚屋の娘という話は聞いてはいたが、自分も若く、芸能界のことを思う余裕はなかった。

今は、その魚屋さんがあった場所位は、行っておけばよかったと思う。
亡くなってから久しいが、よく見れば義兄(姉の夫)と同じ年だ。
義兄は「加山雄三と同じ歳」とはよく言っていたけど、美空ひばりと同じというのは聞かなかった。何故かな?

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「昭和時代 敗戦・占領・独立」 読売新聞社著 中央公論社 2015年発行

美空ひばり

「街の子」昭和の歌姫に




1948年(昭和23)年5月1日、大人の歌謡曲を軽々とこなす少女に聴衆は度肝を抜かれた。
わずか10歳の小柄な少女が、横浜野毛の横浜国際劇場でデビューした瞬間だった。
人気歌手の渡辺はま子や小唄勝太郎、喜劇の柳家金語楼らが出演していたが、
大御所顔負けの存在感をみせた。

美空ひばりは1937年(昭和12)年5月29日、横浜市磯子区の滝頭で魚屋を営む加藤増吉、喜美江夫妻の長女和江として生まれた。
店があったのは、八百屋や駄菓子屋が並ぶ庶民的な「屋根なし市場」の一角。

早熟の才能は、幼くして周囲の注目を集めた。
1943年、応召する父親の壮行会では、「九段の母」を歌って評判になる。
以後、地域の壮行会に呼ばれて披露した「出征兵士を送る歌」などは、集まった縁者の涙を誘ったという。


辛辣な批判の声

1949年1月、東京有楽町の日劇のショーに出演。
同年、「悲しき口笛」で大ヒットを飛ばして一気にブレイクし、歌謡界と映画界を股にかけた彼女の快進撃が始まった。
しかし、大衆の中から登場した幼いスターには逆風も多く、辛辣な批判にさらされた。

本格デビュー前の46年12月、9歳の彼女はNHKのど自慢の予選審査に参加した。
しかしカネは鳴らなかった。
「子供が大人の歌をうたっても審査の対象にはなり得ない。ゲテモノは困りますな」。

49年の掲載された雑誌のルポは、無理に働かされ、疲れ切ったトーンに貫かれていた。
「児童の福祉」が考慮されていないなどとして、彼女の活躍ぶりに水を差す意図は明らかだった。
詩人のサトウハチローは「あどけさがまるでない。怪物、バケモノのたぐいだ」




銀幕のドル箱スター

「悲しき口笛」ヒット




美空ひばりは映画の大スターでもあった。
松竹映画の「踊る竜宮城」でデビュー曲「河童ブギウギ」を歌った。
ひばりの歌声に魅了された万城目正は、12歳の少女のために「悲しき口笛」を作曲した。
これを主題歌にした同名映画がひばりの初主演作品となった。
映画の原作がすぐに作られ、雑誌『平凡』に掲載された。
10月に映画が公開されると、レコードは爆発的に売れた。
3万枚でヒットといわれた当時、50万枚を超える大ヒット曲になった。




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