しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

本土決戦 (丸谷)

2021年08月16日 | 昭和20年(戦後)

「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行

アメリカ軍は九州上陸を「オリンピック作戦」と名づけ、
昭和20年11月1日におこなふことにしてゐた。
関東攻略は「コロネット作戦」で、翌年3月1日開始の予定だった。

45年5月のドイツ降伏後にアメリカ兵にしばらく休養を与えなければならないし、
日本の9月は台風、11月、12月は寒さがある。
そこで志布志湾、吹上浜、宮崎沿岸の三方面から同時といふことになる。

日本軍の指導者たちは知性を軽んじたし、
国民に対しても君主に対しても責任感が乏しかった。
思考が非論理的で、数値になじまなかった。

アメリカ軍は地形が改まるほどの艦砲射撃を一週間つづけ、
上陸地点で日本軍がまったく抵抗できないようにしてから上陸する。
サイパンにおけるこの体験で、同じことを九州でも関東でもされることはわかっていながら、
日本軍の上層部は本土決戦とか一億玉砕とか叫ぶのをやめなかった。

長野県松代の地下に設けた大本営は、
天皇と内閣を巨大な地下壕に幽閉していつまでもこの国を支配したいといふ空想的願望のための装置である。

・・
保阪正康は「本土決戦幻想--オリンピック作戦」で、
8月15日に降伏しなかったら、
日本と日本人はどうなってゐたかといふ、
あり得たかもしれない歴史をつきつけるのだ。

保阪によれば、秋になっても降伏しない日本はもはや国家の体をなしてゐない。
天皇や鈴木内閣の意に従はうとする終戦派に対し、
本土決戦派がクーデターを起こし、後者が勝てば、
天皇および次期内閣が松代に軟禁される。
当然、
ソ連軍は北海道と東北に侵入する。
しかし決戦派は諦めないかもしれぬ。

10月25日(11月1日のマイナス7日)にはアメリカ戦艦軍による艦砲射撃が開始。
10月27日には米軍が、防備の手薄な甑島などに上陸。
11月1日、侵攻部隊が浜辺に近ずくと、特攻機が突っ込む。
艦隊の集結してゐる所へは人間魚雷などで攻撃。
その他の特殊潜航艇や攻撃艇などが特攻作戦をおこなふ。

上陸した米軍との地上戦になると、米軍戦車にくらべて日本軍の戦車および対戦車砲ははるかに劣弱。
火炎瓶、手投爆雷による特攻作戦をおこなふ。
このあとが民間人による戦闘で、
大本営の「国民抗戦必携」は、
刀、槍、竹槍、鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口を用ゐてアメリカ兵の腹部を突き刺せと教える。

本土決戦となれば敵が近くにゐるから特攻作戦に有利、といふのが軍人たちの理屈だったらしい。
日本軍上層部の、体面を重んじる官僚主義が最も悪質な形で発揮されたとき、
年少者や民衆にこんな形での抵抗戦を強ひる発想が生まれた。


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