「週刊朝日」の昭和史・第二巻 朝日新聞社 1989年発行
昭和21年 私の”死の行進”日記 本間雅晴
昭和17年4月9日、飢えとマラリアに悩む米比混成軍76.000人が捕虜となった。
炎天下88キロを歩いて後方基地に収納されたのは54.000人。
”バターン死の行進”である。
この時のフィリピン方面第14軍最高司令官が本間雅晴中将。
戦犯に指定され、9月15日出頭。
昭和20年
9月18日
今のところ、私の罪名はバターンの俘虜7万余名を飲食を与えず炎天に遠い収容所まで行軍せしめ、そのため多数の死者を出したというのである
我が軍の総兵力に匹敵する俘虜を歓待し又は自動車で輸送することは不可能で、これ以外手がなかったのだ。
9月28日
私の罪は指揮官として部下の行為に対する責任である。
この間発表された比島における暴虐(昭和17年8月以降の日本軍の暴行)は私の時代のものではないが、日本の将兵も非常に野蛮だという証明になる。
私たちは明白に旧日本を清算するための犠牲である。
結局軍人になったことが大いなる災いの原因だったともいえる。
10月8日
朝起きるとすぐ、弱った南京虫6~7匹を潰した。
本日、山下大将の裁判が始まる日。
山下の刑は直ちに私の刑だ。
10月15日
新聞を読む毎に愉快な記事なし。
日本人の軽佻浮薄 (けいちょうふはく)驚くべきものがある。
これだから負けたのだとも思う。
10月12日
今朝の読売によると、私のマニラ行きは確実なりとしている。
佐渡の町村長や東京の知人等が私の放免運動をいてくれているとのこと、
その芳志感謝の言葉もない。
12月8日
大森を去って巣鴨に行く。
素っ裸で健康診断を受け、2畳半の独房に叩き込まれる。
せんべい布団2枚、毛布1枚、枕なし。
コンクリートの室はふるえる位寒い。
食事も悪く、ご飯になにか汁をかけたものだけ。小さなミツカン2個。
12月9日
山下の死刑のことを考え終夜うとうとして過ごす。
山下大将が死刑となれば私も極刑を免れぬ。
山下の部下の残虐行為は言語に絶するものがあり、その犠牲者も5万数千という。
しかし責任罰という点から区別をつけまい。
12月12日
朝4時に起こされ、これから30分以内に出発準備せよと無理な要求をする。
厚木飛行場に行き9時半出発。
沖縄の伊江島飛行場に着き、
マニラに着いたのは9時半。
以前官邸だった物置に入れられる。
蚊帳なしで、蚊がいて眠られぬ。
昭和21年
元旦
格別死を怖れてはしないが、死にたいという気持ちもない。
こんな苦しみを早く切り上げたいと思う。
1月3日
8時半から公判開かる。
裁判長まるで検事の如き態度で弁護団の申し出をことごとく蹴る。
高津少将、検事側の証人に立ち、私に対する反逆的証言のみする。
1月6日
日曜で公判休み。
生きながら地獄の如し。
自殺の方法を考えている。青酸カリがほしい。
1月8日
いよいよ「バターン」の行進に入り、米軍曹いきりたって嘘八百を並べ、
余りのことに腹が立って涙が出る。
1月11日
全く知らぬ残虐な実例が次から次へと出てきて、
聞いているのが苦しい。
心身疲労困憊す。
膝が力なく崩れるような気持がする。
1月14日
今朝妻等一行到着の由。
1月24日
妻の顔を見、子供たちの手紙を読んで著しく死生を超越した気持ちになった。
聖作は「お父さんは日本の忠臣だと思う」と書いた。
尚子は「お父さんを飽くまで信じ、少しも肩身の狭い思いはしない」と言った。
これ以上満足を与えるものがあろうか。
妻は最後まで勇敢に戦ってくれた、唯感謝あるのみ。
2月9日
宣告は2月11日の午後3時。
勿論宣告は受ける前からと言わんより、公判開始以前から決まっているので、
これはほんの形式だと言っていい。
死刑は絞殺だろう。
何でもモルヒネの注射をやって殺して置いてから絞殺という形にするとのこと。
長い苦しみではない、アッという間に済んでしまう。
本間家の歴史に国家的の死に方をしたもののある事を残すのも悪くはない。
長生きをしたところでこれから20年位だ。
もう何もいい残すことはないような気がする。
・・・
本間氏の最後
2月11日「銃殺刑」の判決が下る。
マニラからモンテンルパの監獄に移された。
罪状は
1・オープンシティ(無防備都市)となった後のマニラを爆撃した。
2・バターンの病院を爆撃した。
3・比島全国にわたって婦女子を強姦または虐待した。
4・米軍捕虜に、いわゆる「バターン死の行進」をさせた、
など47項目に上っている。
徳川頼貞、今日出海氏らが弁護人として法廷に立った。
富士子夫人も、2月8日の法廷で本間の妻たることを誇りにしていると証言した。
4月2日夕刻、刑場に連行され、3日12人の銃殺隊により執行された。
辞世一首
戦友ら眠るバタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよし
(昭和34年4月5日、岡山県井原市東江原町宝蔵院にて
右が本間中将未亡人富士子さん、左が山下大将の未亡人久子さん。
ニュー井原新聞・昭和34年4月11日)
昭和21年 私の”死の行進”日記 本間雅晴
昭和17年4月9日、飢えとマラリアに悩む米比混成軍76.000人が捕虜となった。
炎天下88キロを歩いて後方基地に収納されたのは54.000人。
”バターン死の行進”である。
この時のフィリピン方面第14軍最高司令官が本間雅晴中将。
戦犯に指定され、9月15日出頭。
昭和20年
9月18日
今のところ、私の罪名はバターンの俘虜7万余名を飲食を与えず炎天に遠い収容所まで行軍せしめ、そのため多数の死者を出したというのである
我が軍の総兵力に匹敵する俘虜を歓待し又は自動車で輸送することは不可能で、これ以外手がなかったのだ。
9月28日
私の罪は指揮官として部下の行為に対する責任である。
この間発表された比島における暴虐(昭和17年8月以降の日本軍の暴行)は私の時代のものではないが、日本の将兵も非常に野蛮だという証明になる。
私たちは明白に旧日本を清算するための犠牲である。
結局軍人になったことが大いなる災いの原因だったともいえる。
10月8日
朝起きるとすぐ、弱った南京虫6~7匹を潰した。
本日、山下大将の裁判が始まる日。
山下の刑は直ちに私の刑だ。
10月15日
新聞を読む毎に愉快な記事なし。
日本人の軽佻浮薄 (けいちょうふはく)驚くべきものがある。
これだから負けたのだとも思う。
10月12日
今朝の読売によると、私のマニラ行きは確実なりとしている。
佐渡の町村長や東京の知人等が私の放免運動をいてくれているとのこと、
その芳志感謝の言葉もない。
12月8日
大森を去って巣鴨に行く。
素っ裸で健康診断を受け、2畳半の独房に叩き込まれる。
せんべい布団2枚、毛布1枚、枕なし。
コンクリートの室はふるえる位寒い。
食事も悪く、ご飯になにか汁をかけたものだけ。小さなミツカン2個。
12月9日
山下の死刑のことを考え終夜うとうとして過ごす。
山下大将が死刑となれば私も極刑を免れぬ。
山下の部下の残虐行為は言語に絶するものがあり、その犠牲者も5万数千という。
しかし責任罰という点から区別をつけまい。
12月12日
朝4時に起こされ、これから30分以内に出発準備せよと無理な要求をする。
厚木飛行場に行き9時半出発。
沖縄の伊江島飛行場に着き、
マニラに着いたのは9時半。
以前官邸だった物置に入れられる。
蚊帳なしで、蚊がいて眠られぬ。
昭和21年
元旦
格別死を怖れてはしないが、死にたいという気持ちもない。
こんな苦しみを早く切り上げたいと思う。
1月3日
8時半から公判開かる。
裁判長まるで検事の如き態度で弁護団の申し出をことごとく蹴る。
高津少将、検事側の証人に立ち、私に対する反逆的証言のみする。
1月6日
日曜で公判休み。
生きながら地獄の如し。
自殺の方法を考えている。青酸カリがほしい。
1月8日
いよいよ「バターン」の行進に入り、米軍曹いきりたって嘘八百を並べ、
余りのことに腹が立って涙が出る。
1月11日
全く知らぬ残虐な実例が次から次へと出てきて、
聞いているのが苦しい。
心身疲労困憊す。
膝が力なく崩れるような気持がする。
1月14日
今朝妻等一行到着の由。
1月24日
妻の顔を見、子供たちの手紙を読んで著しく死生を超越した気持ちになった。
聖作は「お父さんは日本の忠臣だと思う」と書いた。
尚子は「お父さんを飽くまで信じ、少しも肩身の狭い思いはしない」と言った。
これ以上満足を与えるものがあろうか。
妻は最後まで勇敢に戦ってくれた、唯感謝あるのみ。
2月9日
宣告は2月11日の午後3時。
勿論宣告は受ける前からと言わんより、公判開始以前から決まっているので、
これはほんの形式だと言っていい。
死刑は絞殺だろう。
何でもモルヒネの注射をやって殺して置いてから絞殺という形にするとのこと。
長い苦しみではない、アッという間に済んでしまう。
本間家の歴史に国家的の死に方をしたもののある事を残すのも悪くはない。
長生きをしたところでこれから20年位だ。
もう何もいい残すことはないような気がする。
・・・
本間氏の最後
2月11日「銃殺刑」の判決が下る。
マニラからモンテンルパの監獄に移された。
罪状は
1・オープンシティ(無防備都市)となった後のマニラを爆撃した。
2・バターンの病院を爆撃した。
3・比島全国にわたって婦女子を強姦または虐待した。
4・米軍捕虜に、いわゆる「バターン死の行進」をさせた、
など47項目に上っている。
徳川頼貞、今日出海氏らが弁護人として法廷に立った。
富士子夫人も、2月8日の法廷で本間の妻たることを誇りにしていると証言した。
4月2日夕刻、刑場に連行され、3日12人の銃殺隊により執行された。
辞世一首
戦友ら眠るバタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよし
(昭和34年4月5日、岡山県井原市東江原町宝蔵院にて
右が本間中将未亡人富士子さん、左が山下大将の未亡人久子さん。
ニュー井原新聞・昭和34年4月11日)