里庄の山中に12年間、ドロボーしながら隠れ住んだ人がいたとは・・・今日まで、まったく知らなかった。
(里庄町・椿の丘公園から見る”竜王山” 2020.7.27)
「週刊朝日」の昭和史・第二巻 朝日新聞社 1989年発行
徴兵忌避で逃避12年
岡山県の片田舎の農家に盗みに入り捕まった”山男”の話。
---39才のこの男、小さい時から大の兵隊嫌い。
召集令状の赤紙が来た。しかし、どうしても軍隊に入る気にはなれず、山にこもる。
それから12年。
「山男が出る」といううわさが、岡山県浅口郡里庄村の村民たちの間で、
いつのころからか話題になっていた。
ある家では、十数回も米や、塩や干物が盗まれる。
村のはずれの竜王山の山裾の民家は、かたっぱしから被害を受けた。
盗難届の書類は厚さ10センチ余りも積み重なってくる。
これは、流れ者のルンペンの仕業だろうと思っていた、だが、だれ一人として、
その山男なるものの姿を見たものはいない。
昭和30年4月10日の午前3時ごろ、山を降り、田や畑の中を過ぎて、一人の男が里庄村新庄の安田賢一さん方の、炊事場からタヌキのようにしのび込んだ。
板の間に置いてあったオケに入れた一斗あまりの米を、担ぎ出そうとした瞬間「泥棒や」と叫んだ。
オケをもって泥棒は畑まで逃げ、生米をかじっていたところへ、若者が追っかけ、わけなく捕まえた。
駐在の巡査が呼ばれた。
昨年の9月に一度、スイカ泥棒をして捕まったのが、この男だったが、
その時は、そのまま釈放した。
夜が明けて、男は玉野警察所(←玉島と思える・管理人)へ送られた。
取調べが始まって住所を聞くと、竜王山の山中という。
昭和18年から今まで、ずっと竜王山にとじこもっていたのだという。
うわさされていた山男の正体は確かにこの男ときまった。
男の本籍は、兵庫県美方郡射添村で、岸光夫(39)という。
射添小学校をおえて大阪へ出た。
兵隊嫌い。
兵隊検査を浮けたとき、彼はしょうゆをガブガブ飲んだ。
おかげで熱が出たし、背も小さいので、運よく丙種となった。
住友製鋼に入って荷揚げ人足のようなことをやっていたが、赤紙が来たのである。
仕方なしに仲間から餞別をもらい、大社行の汽車に乗った。
故郷の駅は香住だが、大社まで行ってしまい、8~9日遊び歩いているうち金もなくなった。
伯備線経由で岡山の笠岡へ行った。
笠岡から里庄村の夜の道をあてもなく歩いた。
里庄村には思い出がある。
里庄村のある家の酒男にやとわれたことがある。
歩きつづけ、山のなかへ入ってしまった。
昼間は岩かげに隠れたり、山を歩いたり、そして夜になると、山を降り、農具小屋などで眠った。
最初は畑泥棒を専門にして、芋をとった。
芋がなくなると桃の季節がくる。次に柿、大根。自然は人間を餓死させない。
ワナをかけるとウサギやタヌキもよくかかって食べた。
そのうち欲が出て、
米が食いたくなり、山すその人家からかっぱらいをはじめるようになった。
ついでに着るものも失敬した。
泥棒ついでに本、雑誌、新聞は必ず手に入れた。
一年もすると、もう何も考えなくなった。頭はからっぽ。
着るものの事、食べものの事、それだけを本能的に考えていた。
終戦はむろん知っていた。
しかし何十回もコソ泥をやっていたので山を降りる気にはなれなかった。
彼は大のきれい好きで、毎日行水、頭の毛はカミソリで剃っていた。
山頂の彼の「貯蔵庫」には、地下足袋、しょうゆ瓶、マッチ小箱、せっけん、軍隊服、ワイシャツ、手ぬぐい、パンツ、靴下、下駄、塩、たくあん、高野豆腐など。
「つかまったのは欲張りすぎ、もっと遠くまで逃げてしまえばよかったんです。
そんでも、
刑を終えたら、真面目に働きます」
とも、述懐するのである。
大阪編集部・昭和30年4月24日
(里庄町・椿の丘公園から見る”竜王山” 2020.7.27)
「週刊朝日」の昭和史・第二巻 朝日新聞社 1989年発行
徴兵忌避で逃避12年
岡山県の片田舎の農家に盗みに入り捕まった”山男”の話。
---39才のこの男、小さい時から大の兵隊嫌い。
召集令状の赤紙が来た。しかし、どうしても軍隊に入る気にはなれず、山にこもる。
それから12年。
「山男が出る」といううわさが、岡山県浅口郡里庄村の村民たちの間で、
いつのころからか話題になっていた。
ある家では、十数回も米や、塩や干物が盗まれる。
村のはずれの竜王山の山裾の民家は、かたっぱしから被害を受けた。
盗難届の書類は厚さ10センチ余りも積み重なってくる。
これは、流れ者のルンペンの仕業だろうと思っていた、だが、だれ一人として、
その山男なるものの姿を見たものはいない。
昭和30年4月10日の午前3時ごろ、山を降り、田や畑の中を過ぎて、一人の男が里庄村新庄の安田賢一さん方の、炊事場からタヌキのようにしのび込んだ。
板の間に置いてあったオケに入れた一斗あまりの米を、担ぎ出そうとした瞬間「泥棒や」と叫んだ。
オケをもって泥棒は畑まで逃げ、生米をかじっていたところへ、若者が追っかけ、わけなく捕まえた。
駐在の巡査が呼ばれた。
昨年の9月に一度、スイカ泥棒をして捕まったのが、この男だったが、
その時は、そのまま釈放した。
夜が明けて、男は玉野警察所(←玉島と思える・管理人)へ送られた。
取調べが始まって住所を聞くと、竜王山の山中という。
昭和18年から今まで、ずっと竜王山にとじこもっていたのだという。
うわさされていた山男の正体は確かにこの男ときまった。
男の本籍は、兵庫県美方郡射添村で、岸光夫(39)という。
射添小学校をおえて大阪へ出た。
兵隊嫌い。
兵隊検査を浮けたとき、彼はしょうゆをガブガブ飲んだ。
おかげで熱が出たし、背も小さいので、運よく丙種となった。
住友製鋼に入って荷揚げ人足のようなことをやっていたが、赤紙が来たのである。
仕方なしに仲間から餞別をもらい、大社行の汽車に乗った。
故郷の駅は香住だが、大社まで行ってしまい、8~9日遊び歩いているうち金もなくなった。
伯備線経由で岡山の笠岡へ行った。
笠岡から里庄村の夜の道をあてもなく歩いた。
里庄村には思い出がある。
里庄村のある家の酒男にやとわれたことがある。
歩きつづけ、山のなかへ入ってしまった。
昼間は岩かげに隠れたり、山を歩いたり、そして夜になると、山を降り、農具小屋などで眠った。
最初は畑泥棒を専門にして、芋をとった。
芋がなくなると桃の季節がくる。次に柿、大根。自然は人間を餓死させない。
ワナをかけるとウサギやタヌキもよくかかって食べた。
そのうち欲が出て、
米が食いたくなり、山すその人家からかっぱらいをはじめるようになった。
ついでに着るものも失敬した。
泥棒ついでに本、雑誌、新聞は必ず手に入れた。
一年もすると、もう何も考えなくなった。頭はからっぽ。
着るものの事、食べものの事、それだけを本能的に考えていた。
終戦はむろん知っていた。
しかし何十回もコソ泥をやっていたので山を降りる気にはなれなかった。
彼は大のきれい好きで、毎日行水、頭の毛はカミソリで剃っていた。
山頂の彼の「貯蔵庫」には、地下足袋、しょうゆ瓶、マッチ小箱、せっけん、軍隊服、ワイシャツ、手ぬぐい、パンツ、靴下、下駄、塩、たくあん、高野豆腐など。
「つかまったのは欲張りすぎ、もっと遠くまで逃げてしまえばよかったんです。
そんでも、
刑を終えたら、真面目に働きます」
とも、述懐するのである。
大阪編集部・昭和30年4月24日