しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

池田筑後守長発

2021年10月24日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市井原町 井原小学校

池田長発ほど気の毒な交渉役はない。
日露戦争後の小村寿太郎に似た役だが,小村よりも条件がさらに悪い。
小村は名を残したが、長発は井原市以外では忘れ去られている。

稀に報道されるのは、刀を差した侍がエジプトのスフィンクスでの記念写真だけ。
この時、わずか27歳で遣欧使節の代表を務めた。





池田筑後守長発 パリに燃ゆ

文久元年(1861)の第一回遣欧使節に続き、文久3年(1863)第二回が派遣された。
この時、
34名の使節団の正使をつとめたのは、旗本で外国奉行をつとめる井原の殿様・池田筑後守長発、当時27歳であった。

幕府の意図は、横浜を鎖港すべく、まずその突破口としてナポレオン三世に会見して同意を得、次に他の諸国を歴訪しようとしたものであった。
一行は12月29日横浜を出港し、香港・シンガポール・カイロ経由で翌年(1864)3月10日にマルセイユに上陸し、3月16日巴里に到着した。
横浜出港後79日間を経過していた。

長発は3月24日に教書を奉呈し、甲冑一領と黄金飾りの日本刀二口を献上した。
大満悦のナポレオン三世は3月28日、パリ宮殿で盛大な謁見式を挙行した。
フランス側はナポレオン皇帝・皇后・皇太子のほか、国務大臣や文武百官に加え、官延女官が多数参列した。
一行の中でフランス語が堪能であったのは益田孝ほか10名であった。

長発は61日間のパリ滞在中、7回にわたって公式の外交交渉を重ねる一方、各地にでかけてフランス文化の吸収につとめた。
製鉄所・紡績所・ガラス工場・陶器工場・金銀細工所のほか、医学研究所・写真館を全員で訪問した。

「おかやま人物風土記」 岡山県広報協会  平成14年発行






井原市観光協会HP

池田筑後守長発の像

井原小学校の敷地にはもともと、江戸時代に領主であった旗本池田家によって建てられた陣屋(役所)がありました。
この敷地内に学問所を建てる計画が挙がり、10代目の池田筑後守長発は自ら「心学館」と名づけ、その思い入れは相当のものでしたが、
途中病に伏しその願いは叶いませんでした。
正面玄関の東側にある庭園「冬園」には、昭和61(1986)年に長発の生誕150年を記念して、
陣屋跡を示す石碑と池田筑後守長発の銅像が並んで設置されました。

※学校施設のため、観光での訪問はご遠慮ください。




撮影日・2021年10月24日


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映画「燃えよ剣」③榎本武揚が登場しないので

2021年10月24日 | 令和元年~
映画館の帰り道、榎本武揚の父の生家に寄ってみた。

場所・広島県福山市神辺町箱田 
日時・2021年10月22日 12:00頃

榎本武揚は本人も父も、たいへん優れた頭脳であって、日本という国家に貢献度が高い親子。
映画には登場しなかったが、限られた上映時間があるので、その方がよかったような気もする。

榎本武揚の父とは、
生家前の石碑文を写す。

箱田良助略歴
良助は寛政2年(1790)箱田村庄屋細川園右衛門の次男として生まれた。
のち細川家は箱田姓を名乗った。
文化4年(1807)6月、17歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。
九州第一次、第二次測量に参加したのち忠敬の筆頭内弟子として測量及び地図作成に尽力し、
文政4年(1821)の大日本沿海興地全図完成に大きく寄与した。
文政5年(1822)榎本家に入り、榎本園兵衛と改名、御徒士となる。
弘化元年(1844)御勘定方となって旗本の列に加えられた。
万延元年(1860)8月71歳にて死去した。
榎本武揚は園兵衛の次男、
オランダに留学して帰国後明治元年(1867)幕府艦隊率いて函館五稜郭に立てこもった。
後、明治政府の要職を歴任した。





「北海道の歴史」 山川出版社 昭和44年発行

函館戦争

あるていどすすめられた蝦夷地の開拓は、幕府の瓦解で多く中絶した。
蝦夷地も明治維新の激動による混乱と空白をまぬがれることはできなかったのである。

明治元年(1868)3月、新政府は函館裁判所を設置して清水谷公考を総督に任命した。
まもなく裁判所は函館府になり、清水谷は府知事になる。
清水谷の赴任と相前後して、奥羽越列藩同盟が成立して戦火は奥羽にひろがり、
その影響は廻米の不足となってあらわれた。

旧幕海軍総裁榎本武揚は、新政府に引きわたすべき軍艦をひきいて品川沖を脱走した。
海軍力の弱かった政府にとっては、のどから手が出るほどのものである。
8艘からなる榎本艦隊には、旧幕府にまぬかれていたフランス士官数名や、旧幕歩兵奉行大鳥圭介らが参加し、奥羽同盟軍に加担するつもりであった。
しかし途中暴風雨で2艘を失い、6艘も損傷を受けた。
仙台藩で態勢をととのえているうちに、奥羽の戦況はきまってしまった。

やむをえず、榎本は、平潟口にあった政府総督府に蝦夷地の開拓出願書をとどけ、
奥羽の負兵をのせて、10月、蝦夷地へ向かったのである。

榎本軍は、函館府の意表をついて内浦湾鷲の木に上陸し、函館に向かって南下した。
函館の兵は敗れ、清水谷府知事は青森へのがれた。
11月1日榎本は五稜郭に入城した。
抵抗した松前藩主は漁船で弘前にのがれた。

榎本軍は軍率もきびしく、将軍家お抱え医師であった高松凌雲は敵の傷病兵も治療し、日本における赤十字精神のはじまりといわれている。

11月4日、イギリスとフランスの軍艦が函館に入港、榎本は艦長・領事と会見した。
このとき、榎本がえた両国の覚書のなかに、
榎本ら徳川家臣団を、”事実上の政権”とみとめる文意があった。
”ザ・ファクトの政権”とみとめられた。

12月14日、全島平定を函館在留の各国領事に通告し、ついで、
士官以上の入札で各種役員を選挙した。
榎本は総裁、
松平太郎は副総裁、
海軍奉行荒井郁之助、
陸軍奉行大鳥圭介 同並 土方歳三
などである。

榎本政権の財政は苦しく、兵士の給料もおくれた。
明治2年3月、政府軍は海軍力をととのえて品川沖を出発。
政府軍8.000、榎本軍3.000、必死の抵抗にあって政府軍は苦戦した。
しかし、衆寡敵せず、1ヶ月余の善戦ののち、5月17日、榎本は五稜郭を出て降伏するのである。

榎本の人物を惜しむ政府軍参謀・黒田清隆は、榎本以下のちに罪をゆるし、
開拓使に出仕したものは少なくない。




「北海道の歴史」 山川出版社 昭和44年発行

北海道誕生

佐賀前藩主鍋島直正を開拓督務に任命、のち長官。
幕末の蝦夷探検家松浦武四郎を開拓御用係りにして、蝦夷地を北海道とあらため、
11ヶ国86郡をおくことになった。
最初の屯田兵が琴似に入植するに先だって、
榎本武揚は,特命全権大使としてロシアにおもむき、
懸案だった日露の国境を決定した。
ロシアは得撫以北のクリル諸島18島を日本に譲渡し、
日本は樺太全島をロシアにゆずった。
この交換条約で、北方における日露の緊張は緩和されたのである。







「日本史探訪22」  角川文庫 昭和60年発行

大政奉還により、徳川三百年の幕がおろされたのは、慶応3年10月のことである。
皮肉にも榎本がオランダから帰国した、わずか半年後のことであった。

榎本武揚
(江藤淳)


函館戦争のときも、敵軍の大将である黒田清隆が榎本の助命の為に親身になって奔走する。
これは榎本という人が、そもそもたいへん魅力のある人だったろうと思うんです。
それから、いわば弓を引いた当の相手の明治天皇が、酒席の相手として榎本を非常にお好みになった。
それから駐露大使になってペテルスブルグに行った時にも、ロシアの皇帝が、
榎本という日本の外交官を、個人的に非常に好ましい人間であると思ったという事実があります。
西洋のほんとうのものを身につけている。

根本的に、技術屋気質があったろうと思うんです。
彼はまた語学がよてもよくできた。
長崎の海軍伝習所でオランダ人の教官から習った。
オランダの生活にはすっと入って行けた。



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