しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

東郷平八郎

2021年10月22日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市船穂町



「軍国日本の興亡」 猪木正道  中央新書 1995年発行

日本海海戦

ロジェストヴィンスキー提督ひきいる第二太平洋艦隊は、
極東で日本の連合艦隊と決戦する前に、過酷としか形容しようのない1万5.000マイルの航海をやりとげねばならなかった。
タンジールで艦隊を二分し、喜望峰経由と、旧式艦をスエズ運河経由させ、仏領マダガスカルで合流させることとした。
その間、旅順港が陥落したニュースも届いた。
食糧事情が悪化し、病人も増え、艦隊内の士気が低下した。

仮装巡洋艦の日本郵船信濃丸から、「敵艦隊見ゆ」の電報が届いた。
ロシア艦隊のウラジヴォストークへの逃走を防ぐため、東郷大将は有名なT字戦法をとり、ロシア艦隊の頭を抑えた。
バルチック艦隊のうち12隻の戦艦のうち8隻が撃沈され、4隻は捕獲された。
ロシア艦隊の人的損害は溺死を含む戦死、4830人。
捕虜は7.000人を数えた。
日本海海戦は、日本の完勝といえる。

しかし光の裏には必ず影がある。
日本海軍は1945年まで、40年間もパーフェクト・ゲームの夢を見続けた。
東郷大将も元帥となり、神格化された結果、海軍軍縮交渉では、日本の孤立化に一役買うことになる。






「教養人の日本史4」 社会思想社  昭和42年発行

奉天会戦と日本海海戦

旅順は参加した兵力13万人、そのうち5万9千人が死傷するという犠牲があった。
黒溝台で9千人の死傷者を出した。
日本軍は決戦に出てロシア軍に大打撃を与え、戦局を終わらせるほかない情勢に立たされた。
兵士も補充する見込みもつかないくなり、兵器の製造と補充も限界に達した。
砲弾も全軍で20数万発を残すだけとなった。
奉天での決戦を企てた。
戦闘は一週間におよび、日本軍の死傷は7万、ロシア軍は9万にのぼった。
ロシア軍はハルビンでの決戦を期して退却し、日本軍は奉天を占領した。
しかし、追撃する余力はなかった。

ロシア軍は、バルチック艦隊の応援を得て、ハルビンで日本軍を殲滅する作戦に出た。
対馬沖で東郷平八郎の率いる日本の連合艦隊に、二昼夜の激戦の末、19隻を撃沈された。
講和交渉は急速に本格化した。
戦争に動員された日本兵は107万人、うち死傷者だけでも21万人であった。




撮影日・2006年3月4日

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佐々木小次郎

2021年10月22日 | 銅像の人
場所・山口県岩国市 吉香公園


櫂の木剣が、ぶんと上がったのである。
六尺近い武蔵の体が、地を離れると、その姿は宙のものだった。
巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。・・・然し、
その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。

吉川英治「宮本武蔵」




巌流ゆかりの柳

佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れましたが、
小次郎の『つばめ返し』の剣法は天下無双であったということです。
吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、
岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長刀(一名物干し竿)を授かり、
この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、
遂に『つばめ返しの術を編み出したと記しています。


↑この錦帯橋北詰にある説明看板は「岩国市」とか記名無しで、名無しの権兵衛の説明文。
巌流島での決闘以外、小次郎に関する信憑性のある資料は少ないようだ。








撮影日・2009年5月23日

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