2021年10月22日
「燃えよ剣」を見に行った。
映画は、小説と史実に丁寧に作られていたように思った。
「戊辰物語」 東京日日新聞社編 岩波文庫 1983年発行
土方歳三は若い時、石田村から出て来て上野のいとう松坂屋に奉公したという話がある。
色白の小さな男で、なかなかおしゃれであったが、いつの間にか食事係の方の女中と関係を結んで追い出された。
近藤の門下になってから、試合に出る時などは、真っ赤な面紐を後ろへ長く垂らして朱塗りの皮胴で悠々とやるので、
土方を知らぬ人間などは、うっかり油断してひどい目に逢わされた。
諸手突きがうまかったとの話である。
村で出来る「石田薬」というのが傷によく利くといって、新選組同志一同には常備薬としてこれを持たせていた。
要するに新選組は、文久三年から慶応三年に到る京都滞在の五年間、
ほとんど暗殺謀殺、剣戟の沙汰を以って終始した。
まず京都郊外壬生の新徳寺を本部として、慶応二年春本願寺学林に移り、
同年初冬、七条堀川に屯所を新築して移転、翌三年12月には屯所を引き払って、伏見奉行邸へ移った。
当時幹部は、
隊長 近藤勇
副長 土方歳三
副長助勤 沖田総司 長倉新八 原田左之助 井上源三郎 斎藤一 山崎進
浪士調役、会計、伍長、(他略)
合計隊士67名である。
鳥羽伏見の戦いが終わって、江戸へ引き揚げとなった時には、
隊士の合計は44名になった。
「戊辰物語」 東京日日新聞社編 岩波文庫 1983年発行
はじめて壬生で呱々(ここ)の声を上げたときの13名の壮漢は結局どんな運命だったのか?
芹沢鴨 近藤勇一味に暗殺された
近藤勇 武州板橋で刑死
土方歳三 蝦夷函館五稜郭で戦死
藤堂平助 油小路にて惨殺さる
原田左之助 江戸本所にて鉄砲傷化膿で死す
永倉新八 大正4年病死
山南敬助 切腹
野口健司 切腹
新見錦 詰腹
沖田荘司 病死
井上源三郎 淀川で戦死
平山五郎 寝首
平間重介 脱出
「NHK歴史発見」 角川書店 平成5年発行
土方歳三の最後
慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、
維新政府軍の東征、江戸無血開城、東北・北越戦争と推移した。
旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介は、旧幕府脱走兵を率いて東北へと向かった。
新選組副長の土方歳三は、鳥羽伏見の戦い後に東帰し、甲陽鎮撫隊の敗退後、これも東方へと向かった。
大鳥と土方らは4月下総国府台で合流し、以後行動を共にする。
大鳥が大将、土方が副将格である。
小規模な戦いを交えながら、会津戦争に加わり、8月土方は仙台へ行ったところで、榎本に出会った。やがて大鳥も合流。
10月、海陸の幕府脱走軍二千数百は、蝦夷地函館への向かい、この年12月には
函館五稜郭に「共和政府」の樹立を宣言したのであった。
総裁は榎本、
大鳥が陸軍奉行、
土方が大鳥の副官として位置づけられた。
榎本をはじめ「共和国政府」中枢の多くは、旧幕府でも開明的ポストについていて、
西洋留学経験者や長崎海軍伝習所の出身者だった。
大鳥も蘭学を身につけている。
郷士だった土方は異色であった。
翌年春になると、維新政府軍の攻撃が始まる。
5月新政府は函館へ上陸を開始し、五稜郭と弁天砲台が分断され、新選組のいる弁天砲台へ土方は救援に向かった。
途中銃弾に当たって戦死した。
その直前、敗走する見方に激怒し、兵士の一人を切り殺したという。
7日後、榎本や大鳥は降伏した。
3年後に赦免され、二人とも新政府の高官になった。
榎本や大鳥は欧米の知識・技術を受容し身につけていた。
土方は討幕派の鎮圧のみを任務として行動してきた。
盟友、近藤勇は千葉流山で投降のあと、打ち首になっている。
土方には命が助かる見込みはない、徹底抗戦だけだったのである。
土方にとって函館は死に場所以外の何ものでもなかった。
「NHK歴史発見」 角川書店 平成5年発行
土方の死をめぐる謎
五稜郭に入場した後、土方歳三率いる陸軍は、わずか一日で松前城を陥落させている。
「土方がいれば必ず勝つ」、兵士たちの信頼を一身に集めた。
しかし翌明治2年4月新政府は反撃を開始した。
榎本、大鳥等は早期降伏に傾いていたが、土方は徹底抗戦を望んでいた。
先頭に立って新政府軍と戦っていた土方は、馬上で敵の銃弾を受けて絶命したといわれている。
戦闘終了後、官軍は戦死者の点検をしたが、その時土方の遺体も墓も発見されなかった。
映画は、殺戮のシーンが多いのは仕方ないが、そこの時間が長かった。
新選組と土方の生涯を2時間にまとめているので、ストーリーの展開が早かった。
地方のことだが、備中松山藩の出の新選組七番隊長・谷三十郎と
備後神辺ゆかりの榎本武揚が登場しないのは、ちょっと残念だった。