しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日中戦争と四十一連隊・・・福山市

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和12年(1937)7月7日
いわゆる日中戦争がはじまった。
四十一連隊も応召することになり、7月31日夕刻福山駅から出発した。
第五師団の先頭部隊で、朝鮮を経由して8月11日天津に入った。
連隊長山田鉄二郎大佐の手記「支那事変の思い出」をもとにふれよう。

山田部隊3.000人は8月長城戦、9月涞源城戦(戦死120人)、11月杭州線(戦死4人)などをへて
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.500人 武器など多数押収)を与え(死者16人)、13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。

南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」

昭和13年1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在。
4月7日には徐州会戦に向かった。
5月19日徐州を占領した。死傷者750人、馬145頭失う。
7月山田は少将に昇進し、後任は納見大佐が来任した。
こののち日中戦争は泥沼化し、食糧難、武器不足、病気、ゲリラに悩まされながら17年にマレー作戦に投入された。



(南京虐殺は国際ニュースだったが、日本では終戦まで報道されなかった。国内では”勝った!”と熱狂していた)


福山では四十一連隊勝利の報がもたらされる度に、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。
この頃から戦死者の扱いに大きな変化が見られたことが注目される。
すなわち、戦死者は「男子の本懐、聖戦の死」「護国の人柱」「壮烈・名誉の戦死」などと言われ、
しかも遺族は「本人も満足でせう」「家門の名誉」などと語らされるようになった。




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