明治40年の学校令で義務教育は6年となり、
従来の高等小学校の1年生、2年生は、尋常の5年生、6年生となった。
祖父母は明治40年以前の対象者で、
父母は明治40年以後の対象者となった。これが昭和21年までつづいた。
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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
明治40年、尋常小学校6年・高等科2年
高等小学校の普及は尋常小学校への併置という形で増加し、
尋常高等小学校が小学校全体のなかで占める割合は、大正期にはこの傾向がより顕著に現れているのである。
明治40年に義務就学が六年に延長され、その就学率も100%に近づき、従って次の段階として高等小学校の著しい拡充である。
明治37年38年の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。
こうした状態に応じて、明治40年(1907)に小学校令を改正して、
尋常小学校の修業年限は6年となり、義務教育年限が2年延長された。
これに伴って高等小学校は2年となり、3年まで延長することができるものとされた。
義務教育年限の延長は、明治41年から施行されたが、これによって義務教育六年間が国民の共通基礎課程として成立するとともに、
義務教育から直接に中学校や高等女学校等の中等教育に接続することとなった。
このことはとくに高等小学校の性格に重要な変化をもたらすこととなった。
すなわち高等小学校は、一般大衆の子どものための完成教育機関としての性格をもつこととなった。
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「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
A. 第1期 (最初)の国定教科書
最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっ ています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。
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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
義務教育の充実
大正元年(1912)の就学率は男子98.8%、女子97.6%、
平均98.2%で就学における男女の差はほとんどなくなっていた。
また尋常小学校入学児童の卒業比率では大正2年度入学、7年卒業の場合80.3%と
大正期ではまだ20%近くの児童が中途退学もしくは留年していたと思われる。
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