しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

加藤友三郎

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・広島県広島市中区







「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

ワシントン会議

海軍の実力者加藤友三郎は、
日本の国力が米英両国に比べて段違いに劣っていることを考慮し、
1921年12月11日、太平洋の防備を現状のまま維持することを前提として5・5・3の比率を受諾することを決意した。
全権団随員の中には、加藤寛治中将をはじめ反対するものがおり、国内でも強硬論が強かったので、
加藤主席全権は、次官あてに口述をした。
「国防は軍人の専有物に非ず。
戦争もまた軍人のみにてなしうべきものに非ず。
国家総動員してこれに当たらざれば、目的を達しがたし。
・・・・・
平たくいえば、
金がなければ、戦争ができぬということなり」
加藤海軍大臣はさすがに見識が高い。

日露戦争に勝ってから日本国民は増長し、
第1次大戦で火事場泥棒のような手段で国威を発揚した。
そういう雰囲気の中にあって、加藤海軍大臣のような政治・経済のわかる立派な軍人が存したことは賞賛に値する。















加藤友三郎
元帥・海軍大将・首相


大正4年(1915)、第2次大隈内閣の海相に就任してから、4代の内閣で7年10ヶ月の長きに及び海相を務め、
その間才知にたけた加藤は、能力を遺憾なく発揮した。
第1次大戦では英国の要請で特務艦隊を地中海に派遣、
ドイツ潜水艦「Uボート」と戦い「地中海の守護神」と賞賛された。
大正10年(1921)ワシントン軍縮会議に日本首席全権として参加。
英米日の主力艦の比率が5:5:3という米国の提案に対し、従来の方針である対米7割にこだわらず受け入れた。
大正11年(1922)6月内閣総理大臣に就任したが、海相を兼務しワシントン条約に従って大幅に軍縮を行った。
首相在任中の大正12年、直腸ガンで死去。


「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行








撮影日・2017年3月18日

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