しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

江戸時代の子ども

2023年12月23日 | 学制150年

出産時・間引き・疫病等、
赤ちゃんが二歳まで生きるのも、なかなかたいへんだった。


・・・

「江戸の子育て読本」  小泉吉永  小学館 2007年発行


菜っ葉のように子を堕ろす

ルイス・フロイスは堕胎が日常化しているしていることに仰天した。
「日本の女性は、育てられないと思うと、嬰児の首に足をのせ、すべて殺してしまう」と述べた。

・・・

 「子宝」を人為的に抹消する「間引き」には、子どもの生命を尊重する観念はまったくない。
たしかに経済的な理由による間引きも多かったが、しばしば親の身勝手(体面保持や性的欲求など)のために子殺しが行なわれ、 
なおかつ、残忍な手口で行なわれることもあり、「子宝」思想とは相容れないものであった。
間引きを「お返しする」「お戻しする」と表現したように、たとえ「授かりもの」でも一定期間なら、育児を放棄し授かった生命を神に返しても何ら問題はないと考えた。
それは「孝」によっても正当化された。
いずれにしても、一度「お返し」しても、子どもの生命は再生可能と考えた。
言うまでもなく子どもの人格や生存権など皆無の世界である。
今いる家族が生きていくために、または子どもの誕生が不都合な場合に、しばしば罪の意識もなく間引きが行なわれた。 
そして、男児なら「山に遊びにやった」、女児なら「野に草摘みにやった」という隠語で周囲の了解が得られるほどに常態化していた。
仮に間引きした子を憐れみ悲しむ親がいても、周囲は「また産めばよい」と慰めたであろう。 
また、「預かりもの」という観念には「本来自分のものではない」という意識が含まれており、その考え方が親の養育義務の放棄につながった可能性もある。 

芭蕉は、旅の途中に出会った捨て子を見て、これはまったく運命であり、その不運を泣けとつぶやいて立ち去ったというが、
捨て子や間引きにはこのような「運命」「天命」への責任転嫁がなされたのであろう。
実際に、乳幼児の死亡率はきわめて高く、普通に育ててもつぎつぎに死んでいった。
成人まで丈夫に育つという保証はまったくなく、むしろ、育たない確率のほうが高かった。
このように多産多死の状況で、間引きや堕胎の罪悪感は希薄になった。

 

将軍の子でも七割が二歳未満で死亡

「子だくさん」で知られる11代将軍徳川家斉は、正室と側女40人との間に55人の子をもうけた。
だが、40歳以上まで生きたのはわずかに7人(約13%)にすぎなかった。
ちなみに15歳を超えたのは21人と半分に満たず、じつに69%が二歳未満で死亡しており、
御典医による最高の医療でも、乳幼児の7割を救うことができなかったという。

・・・

出産は「あの世とこの世の境」といわれ、
母子ともに命がけだった。
だから、死産でも妊婦が無事なら「安産」といった。
周囲の心配も大きく、神仏への祈願も一入だった。

・・・

若者組


「若者組」は、おおむね一五歳以上の、 成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされたうえで杯を交わし、正式な加入が認められた。
新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、さらに先輩から徹底したしつけや教育を受けることで、子供心をぬぐい去っ 自立した大人へと成長していった。
若者組は、地域における祭礼・芸能、消防・警備・災害救援、性教育・婚礼関係 などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。
いったん若者組に加入すれば内部事情はいっさい口外しない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることはなかった。
このように、江戸時代の子どもたちは、大人の仲間入りをするまでのあいだ、さまざまな人々との重層的な関係や集団のなかで育てられたのであり、
そこには、大勢の人間が深くかかわって一人の子どもを育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。


・・・
女子教育

貝原益軒は『和俗童子訓』で、女子教育の内容について、つぎの指摘をしている。

▼7歳から仮名と漢字を習わせる。
古歌を多く読ませて風雅の道を教える。
▼名数などの単語を多く読み覚えさせた後に、『孝経』首章、『論語』学而篇、曹大家の『女誡』などを読ませる。
▼10歳になったら外に出さず、家の中で「織り縫い」「積み紡ぎ」の技術を教える。
▼女子に読ませる草紙も吟味する。
『伊勢物語』『源氏物語』は言葉は風雅だが、みだらな風俗が書かれているため、早く見せてはいけない。
▼女子にも物を正しく書くことや算数を習わせよ。 
物書きと計算ができなけれ ば、家内の記録や家計のやりくりができない。

このように益軒は、
読み・書き・算盤の初歩教育を男女同様に行なうとした点は画期的だったが、
女子教育を基本的に家庭内に限るなどの限界もあった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「天空の城」に登る 相方城 | トップ | 寺子屋 »

コメントを投稿

学制150年」カテゴリの最新記事