しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡の映画館

2019年01月20日 | 暮らし
管理人が高校生の時、笠岡には映画館が4館あった。
西から、
大和座・笠岡セントラル・中央劇場・金星劇場。
学校の推薦した映画以外は見たらいけない決まりだった。

「笠岡沿革史」笠岡町沿革史編纂期成会 昭和26年発行より転記
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大和座
明治11年祝座として発足せしが大津波のため流出し、同36年新築して戎座と改め、昭和5年大改築し大和座と改称、同15年より映画を主とす。座主 従業員9人
笠岡映画館
昭和18年8月1日開館す。館主 経営者 従業員8人
金星映画劇場
昭和26年3月新築開館。代表 幹部2人
太陽座
昭和26年8月新築開館す。洋画を専門とす。館主
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ワンマンバス

2019年01月20日 | 昭和41年~50年
♪運転手は君だ 車掌は僕だ あとの四人は電車のお客・・・
電車もそうだが、バスもまた必ず車掌さんが乗っていた。
昭和42年、広島市でバスに乗ったらワンマンバスだった。これにはびっくりした。
後を追うように、笠岡のバスもワンマン化された。

「井笠鉄道70年のあゆみ」昭和56年井笠鉄道発行より転記
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昭和45年4月15日 第一次ワンマン運行実施
系統名・・福山高屋団地大門団地 福山引野大門団地 福山~宮の前
     福山~東福山駅 大門団地~鋼管 大門団地大門鋼管
昭和46年3月20日 第二次ワンマン運行実施
系統名・・井原御領福山 笠岡新国道福山 富岡団地~福山
     福山千軒土手二ツ川
(昭和46年3月31日 井笠鉄道廃止記念式典)
昭和46年9月23日 第三次ワンマン運行実施
系統名・・福山新道玉島 井原山王笠岡 井原~矢掛
     矢掛~福山 井原~鋼管 笠岡~鋼管
昭和47年9月10日 第四次ワンマン運行実施
系統名・・井原~共和 寄島~里庄 矢掛~宇土谷
     矢掛~高梁 矢掛大倉三山 沙美~金光
     鴨方~遥照 鴨方~仁故 鴨方~西六
昭和48年6月30日 第五次ワンマン運行実施
系統名・・福山伊勢丘培達団地 培遠団地高屋鋼管 培遠団地病院鋼管
昭和48年9月15日 第六次ワンマン運行実施
系統名・・福山~旭ケ丘団地 福山~茂平入口
昭和50年5月16日第七次ワンマン運行実施
系統名・・井原小田笠岡 矢掛~笠岡 沙美~玉島
(省略)
昭和52年8月1日 第十一次ワンマン運行実施で完了。

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小三の春④遠足

2019年01月20日 | 城見小・他校
三年の遠足は福山だった。
遠足の日は暗いうちに家を出る。
学校に着くと、点呼の後、出発する。
学校から大門駅まで歩いてゆく。
県境を越え、講口池のふきんは、薄暗くて不安な気持ちになる。自然と早足になった。

大門駅から次の駅(福山駅)で降り、福山城に行く。お城で解散して、走ったり、遊んだり、弁当食べたり、持ってきたお菓子を食べた。
福山城公園には、金網で造った大きなゴミ籠が、随所に置いてあった。
同級生が食べ終えて、ゴミ箱にいれた空を、頭と手を箱に突っ込んで物色する人がいた。
それが、うまれて初めて見る乞食だった。

次に、お城からバスに乗って草戸の明王院に行った。
バスから降りて、はじめて五重塔をみた。
バスの集合まで時間があるので芦田川の河原に下りた。
こんな大きな川が、日本にあることに腰が抜けそうだった。
水面に石を投げるのは海の遊びと思っていたが、大きな川なら可能なことも知った。
芦田川の大きさに、同級生たち全員が興奮した。
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猪の肉は,一番美味しい

2019年01月17日 | 暮らし
「動物民族」長澤武著 2005年・法政大学出版局発行より転記。

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イノシシ
味は甘く濃厚で、「山くじら」と呼ばれるほどの美味。
焼肉とするほか味噌を入れた「しし鍋」が一般的。
この肉を「ぼたん」と呼ぶのは、馬肉の「さくら」に対しての民間の言葉。
獣肉の中で一番美味とされる。


カモシカ
食べると温まるので夜尿症の子や、冷え性の婦人によいといわれた。
特に晩秋の肉が美味で「木の葉肉」と呼んだ。
煮て食べるのが一般的だが、味噌漬け・塩漬けで保存したり、塩ゆでして干して非常食として愛用した。

シカ
味が淡白で「刺身」が一番と言われ、特に11月ごろの雄鹿の背肉は、マグロのトロより美味いといわれている。
普段はすき焼きにして食べる。

クマ
ツキノワグマは肉よりも、高価な肝や毛皮が目的で捕獲が行われてきた。
肉は参加者で分配や、煮て近所の人に食べさせたり、塩漬け・味噌漬けにして保存した。
肉の他、肝臓・心臓・腎臓・足の裏まで捨てるところなく利用した(食べた)。

ノウサギ
農山村の家の近くの野山に数多く生息し、素人にも捕獲しやすかった。
一番庶民の口にした肉だった。
昭和40年頃から寄生虫病が流行り、数は急激に減っていったし、この頃から日本の農山村の食生活も豊かになり、ノウサギを食べる習慣もなくなった。

タヌキとアナグマ
昔から「タヌキ汁」という言葉は知られているが、食べたことのある人は少なく、「こんな臭くてまずいものはない」と言って、二度と食べなくなる。
ところが姿勢が似ているアナグマの肉は、脂肪分が多く、煮ても美味である。
どうやら昔から言うタヌキ汁は「アナグマ汁」を都会人か文人か広めたようで、とんでもない間違いである。


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いの一番・・・とは?

2019年01月16日 | 暮らし
「いの一番」は辞書によれば、イロハの最初の文字なので、「まっ先」「第一番」の意味と書かれている。

民俗学では異説がある。

「動物民族」長澤武著 2005年・法政大学出版局発行より転記。

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耕作栽培する技術を持たない縄文人は、狩猟や漁撈により食用になる動物を得たほか、食用となる木の実や草木類を採集して暮らしていたようだ。
雑穀や稲の栽培が始まり、主食の確保はできても、タンパク質は狩猟や漁撈により、動物性タンパクを主として摂ってきた。
動物性タンパクは主として肉を食用とすることによって得られた。

縄文遺跡から出土する骨などから、
シカ、イノシシ、ノウサギ、クマ、アナグマ、サル、リス、モグラ、イタチ、オオカミ、キツネ、タヌキ、カワウソ、ムササビ、カモシカなどがある。
これを見ると、
うまいまずいは関係なく手あたり次第に、捕らえられるものは何でも口にしていた感じがする。
しかし古墳時代になると、出土する骨もシカ、イノシシが一番多くなり、ノウサギ、サル、クマがこれに次いで、タヌキ、キツネの骨は次第に減ってくる。
焼畑の普及でシカやイノシシが多くなったこと、食糧も豊かになり、より美味なものを摂る時代へと変わってきて、味のよいイノシシやシカ肉を多く摂り、まずいタヌキやキツネの肉は次第に敬遠されるようになった、と考えられる。

次に、獣肉類が衰徴する時代が、京の都を中心に、仏教の渡来・普及にともなう殺生禁断によってやってくる。
一部に「薬喰い」という名で、民衆に食べられていた。

長野県の諏訪神社では、古くから動物の生贄(いきにえ)を神社にたくさん捧げる神社として有名で、特別殺生が上様から許されていた。
そこでこの神社からシカなどの獣肉を食ってもよろしいとう「免許状」のごときお札が発行されていた。
文化文政の頃になると、江戸の町中にも獣肉を売る店が現れ、食べる人も増えていった。

肉の味のよい順序では、一番がイノシシ、二番がカモシカ、三番がシカで、
そんなところから猪は「いの一番」だと言われ、「ししの肉を喰わぬうちは、うまいものを喰ったというな」という諺もあるくらいおいしい肉だった。
クマの肉は四番だといわれた。


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亡国病①

2019年01月10日 | 暮らし
癌を亡国病とは言わないが、結核がなぜ「亡国病」と呼ばれたのだろう?
軍人用語のような気がするが、昭和40年代の初めごろまでは身近にある怖い病気だった。

「昭和」3 非常時日本 昭和7~9年  平成元年講談社発行より転記
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猛威をふるう「亡国病」
対策が遅れた結核予防

結核は昭和10年に死因の一位になっていた。
農村での結核患者の急増は、兵士の供給を農村に依存していた軍部にとって深刻な問題だった。
しかも、働き盛りの10代後半から20代の若者たちに結核による死亡率が高かったことが、政府にその予防対策を急がせた原因になった。

明治から大正に至るまで、結核は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり、「貧民病」と呼ばれるほどだった。
結核死亡者は、東京が圧倒的に高く、全国平均の三倍以上ににも上がっていた。
ところが昭和期に入ると、結核は都市部から農村へと広がり、やがて「亡国病」と呼ばれるまでになった。
肺結核による死亡が多かった職業は、製版、印刷、繊維産業などで、特に繊維産業で働く女性たちは1.000人中23人が結核で死んでいったという。そのうち半分は工場の寄宿舎で死亡し、残りは会社を首になり帰郷した農村で死亡した。

昭和12年「結核予防法」が改正され、
①医師による結核患者の届け出制度
②療養の途のない結核患者以外でも予防上必要と認められる患者は公共結核療養所に入所させる。
などの規定が加えられた。
しかし届出を「環境上結核を伝染させる恐れある患者」と限定したため、結核による死亡者は年間14万人を超え、結核患者はその10倍の140万人に上ると考えられていたにもかかわらず、届け出制度施行後1年間に届け出た結核患者はわずか28.000人に過ぎなかった。
政府は次々に対策を打ち出したが事態はなかなか好転せず、12年以後も結核による死亡者は年々増加し、14年には死亡率が人口100.000に対し216.3人、18年には235.3人まで達した。


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応神山の「航空灯台」

2019年01月09日 | 昭和16年~19年

笠岡を代表する山、応神山に石とコンクリートによる遺構が残っていることは多くの登山・ハイキングなら誰でも知るところ。




(撮影2018年12月30日)

では、それは何であるのか?
何時頃に設けられ、いつまで使用されたのか?
と尋ねられると返答に困る。



「小田郡史・下巻」 昭和16年小田郡教育会編纂
地図が添付され「航空灯台」と記されている。




設置された時期は不明だが、軍事施設でなかったことはハッキリした。
戦後まで利用されていたのかも知れない。
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招魂社及忠魂碑

2019年01月09日 | 昭和元年~10年

「小田郡史・下巻」 昭和16年小田郡教育会編纂より転記する。

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招魂社及忠魂碑

維新以後国事に斃れたる烈士の霊を慰めん為、日清戦役後本群連合にて、笠岡町威徳寺付近天神社境内に忠魂碑を建設し、北進事変後第二忠魂碑を建設せしが、日露戦役後之を改めて招魂社造営の議を決し、廃棄したる昭忠碑は有志者の奉仕により古城山頭に移転し、其跡に社殿を造営して、日清戦役以後各戦役忠死者の霊を合祀し、茲に本郡招魂社を見るに至れり。然るに昭位置は狭隘にして不便なるを以って、後之を古城山に移転し以って今日に至れり。

各町村多くは忠魂碑を建設し例祭を行ひて忠霊を慰むるの方法を講ぜり。
其建設の年月左の如し。
(城見村はなし)※一部抜粋する
金浦町 大正11年5月10日
陶山村 昭和3年11月
大井村 昭和4年5月
笠岡町 明治29年12月(日進役) 明治34年10月(北清役)

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徴兵人員、在郷軍人会

2019年01月09日 | 昭和11年~15年

「小田郡史・下巻」 昭和16年小田郡教育会編纂  より転記する。

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徴兵人員

兵事に関する最近の統計は、事変関係上之を公表することを許されず。
故を以って比較的古き統計を用ふるの止むなきに至れり。
大正4年度に於いて甲乙合格者が71%なりしも、昭和10年度59%に低下せるは、寒心に堪へざる所にして、国民体位の向上を企画するの急務なるを痛感せしむ。

徴兵人員趨勢
明治41年 徴兵総人員753 陸軍現役151 海軍現役2
大正7年       1.048    206    13


在郷軍人会及軍友会

各町村に在郷軍人分会の設立あり、之を統合して小田郡連合分会を設け、帝国在郷軍人会に属し、国防思想普及の為盛に活動せり。
会員数は事変の関係上調査するは能わず。
別に軍友会なるものあり。
兵役を終わりたる者を会員とし、各町村に設置せり。


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ハミ(マムシ)を飲む、食う、売る

2019年01月08日 | 暮らし
祖父は畑で取ったハミを、そのまま生血を吸っていた。
父は皮をはいだハミを串刺し状にして軒下に干していた。干した後は、どのようにして食べていたのか記憶はない。
今思えば、祖父が血を吸った残り物を、父が干して食べていたことになる。

その後、祖父はハミを生け捕りして一升瓶にいれ、それが何匹か貯ったら売りに出していた。
それほど日本が貧しかったのだろう。
それほど畑には、ハミが多かったのだろう。
母方の祖父は、畑でハミに噛まれ、危なかったそうだ。

動物民族1長澤武著 2005年発行・法政大学出版より転記

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マムシ
胆のうを強壮、強精、肺結核、胃弱の薬として生で丸ごと飲む。
あるいは、骨付きの肉を焼いて食べる。
卵や子も同じ目的で煮て食べる。
生きたものをマムシ酒にして、打身、はれ物、痛み止め、肩こり、熱とりに患部へ塗布する。
胆のうは乾燥させて保存しておき、眼病、疳の虫、産後の肥立に湯に溶かせて飲む。
突き目には水に溶かせてガーゼで目につける。
皮は焼酎漬けにしておき、打身、神経痛に貼る。または干して保存しておき、歯痛のとき酢でといて患部へ貼る。

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