癌を亡国病とは言わないが、結核がなぜ「亡国病」と呼ばれたのだろう?
軍人用語のような気がするが、昭和40年代の初めごろまでは身近にある怖い病気だった。
「昭和」3 非常時日本 昭和7~9年 平成元年講談社発行より転記
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猛威をふるう「亡国病」
対策が遅れた結核予防
結核は昭和10年に死因の一位になっていた。
農村での結核患者の急増は、兵士の供給を農村に依存していた軍部にとって深刻な問題だった。
しかも、働き盛りの10代後半から20代の若者たちに結核による死亡率が高かったことが、政府にその予防対策を急がせた原因になった。
明治から大正に至るまで、結核は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり、「貧民病」と呼ばれるほどだった。
結核死亡者は、東京が圧倒的に高く、全国平均の三倍以上ににも上がっていた。
ところが昭和期に入ると、結核は都市部から農村へと広がり、やがて「亡国病」と呼ばれるまでになった。
肺結核による死亡が多かった職業は、製版、印刷、繊維産業などで、特に繊維産業で働く女性たちは1.000人中23人が結核で死んでいったという。そのうち半分は工場の寄宿舎で死亡し、残りは会社を首になり帰郷した農村で死亡した。
昭和12年「結核予防法」が改正され、
①医師による結核患者の届け出制度
②療養の途のない結核患者以外でも予防上必要と認められる患者は公共結核療養所に入所させる。
などの規定が加えられた。
しかし届出を「環境上結核を伝染させる恐れある患者」と限定したため、結核による死亡者は年間14万人を超え、結核患者はその10倍の140万人に上ると考えられていたにもかかわらず、届け出制度施行後1年間に届け出た結核患者はわずか28.000人に過ぎなかった。
政府は次々に対策を打ち出したが事態はなかなか好転せず、12年以後も結核による死亡者は年々増加し、14年には死亡率が人口100.000に対し216.3人、18年には235.3人まで達した。
軍人用語のような気がするが、昭和40年代の初めごろまでは身近にある怖い病気だった。
「昭和」3 非常時日本 昭和7~9年 平成元年講談社発行より転記
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猛威をふるう「亡国病」
対策が遅れた結核予防
結核は昭和10年に死因の一位になっていた。
農村での結核患者の急増は、兵士の供給を農村に依存していた軍部にとって深刻な問題だった。
しかも、働き盛りの10代後半から20代の若者たちに結核による死亡率が高かったことが、政府にその予防対策を急がせた原因になった。
明治から大正に至るまで、結核は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり、「貧民病」と呼ばれるほどだった。
結核死亡者は、東京が圧倒的に高く、全国平均の三倍以上ににも上がっていた。
ところが昭和期に入ると、結核は都市部から農村へと広がり、やがて「亡国病」と呼ばれるまでになった。
肺結核による死亡が多かった職業は、製版、印刷、繊維産業などで、特に繊維産業で働く女性たちは1.000人中23人が結核で死んでいったという。そのうち半分は工場の寄宿舎で死亡し、残りは会社を首になり帰郷した農村で死亡した。
昭和12年「結核予防法」が改正され、
①医師による結核患者の届け出制度
②療養の途のない結核患者以外でも予防上必要と認められる患者は公共結核療養所に入所させる。
などの規定が加えられた。
しかし届出を「環境上結核を伝染させる恐れある患者」と限定したため、結核による死亡者は年間14万人を超え、結核患者はその10倍の140万人に上ると考えられていたにもかかわらず、届け出制度施行後1年間に届け出た結核患者はわずか28.000人に過ぎなかった。
政府は次々に対策を打ち出したが事態はなかなか好転せず、12年以後も結核による死亡者は年々増加し、14年には死亡率が人口100.000に対し216.3人、18年には235.3人まで達した。