しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

シェイクハンド龍馬像

2021年06月24日 | 銅像の人
場所・高知県高知市浦戸城山 「坂本龍馬記念館」前
建立・2011年11月

龍馬と握手ができるので、人気があるように見えた。





薩長同盟


日本を大きく変えた「薩長同盟」は、龍馬の尽力によって成立した。
では、その内容は具体的にはどういうものだったのか?

「言った、言わない」の水掛け論になる恐れがあると思ったのか、
桂はそれをわざわざ龍馬宛の手紙に書いてきた。
だから、今でもその内容がわかる。
それは六ヶ条である。

一・長州と幕府の戦いが始まったら、薩摩は2.000人の兵を出して京を固め、大阪にも1.000人の兵を出すこと。
一・長州の勢いが強ければ、薩摩は朝廷に働きかけて早期講和を成立させること。
一・万一長州が敗けていても半年や一年はもちこたえるので、薩摩はその間に援護の作戦を考えること。
一・幕府軍が敗退したら、薩摩は朝廷に働きかけて、長州の冤罪を取り消させること。
一・一橋家や会津藩・桑名藩が朝廷を利用しないよう、薩摩が監視すること。
一・薩長は力を合わせて皇威回復を実現すること。


「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行









撮影日・2012年4月4日

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坂本龍馬(生まれた町)

2021年06月24日 | 銅像の人
場所・高知県高知市上町 「龍馬の生まれた町記念館」

高知市の電車通りに「龍馬の生まれた町記念館」があり、
その周辺は市の中心であるが、町は江戸時代や明治の面影が残されている。





「龍馬史」 磯田道史  文芸春秋 2010年発行

土佐に移住した坂本家は、4代目の八兵衛の時代に高知城下の上町(かみまち)に進出して、質屋業を営むようになります。
のちに酒造業や呉服商などにも事業を拡大し、寛文年間(1661~1673)には、高知城下屈指の豪商となっていました。
才谷屋がどれほどの資産家であったかを正しく評価するのは難しいのですが、いわば、
高知のトップ銀行に匹敵する実力でしょう。
屋敷の間口は8~9間、奥行は10間の大土蔵構え。
数棟の酒造が立ち並び、10人以上の使用人がいたといいます。

坂本家の屋敷は約500坪の広さで、これは通常500石クラスの上級武士の武家屋敷に匹敵する広さです。
豪商才谷屋は6代目八郎兵衛のときに郷士株を手に入れ、郷士坂本家が誕生してます。







「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

明治維新の志士たち
坂本龍馬



文久の頃は、だだ勤王だ、攘夷だ、とにかく外国を打ち払うというところで、倒幕を意識していません。
第三期になると、倒幕が大きな力になってくる。

幕府を叩きつぶせ、武力をもって倒幕しろというような西郷や長州の意見と、
将軍に大政を奉還させて、穏やかに新しい政府をつくる。
そのどっちか?のなかで、
坂本は,大政を奉還させて平和的に解決した方がいいという方向が強い。
大政を奉還させ、列藩会議を起こしてというプランでしょう。






「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行

勝海舟と坂本龍馬は、はじめからぴたりと息があった。
名コンビは、日本に海軍を作るための神戸海軍操練所設立に向かって邁進する。
勝はみずから幕府軍艦咸臨丸の艦長となって、アメリカに行ってきた。


亀山社中

龍馬と神戸海軍操練所で航海術を学んだ同志は、操練所の解散によって薩摩藩の保護下にはいった。
メンバーは長崎に行き、薩摩藩の援助の下に独立組織をつくった。
宿舎がある亀山から亀山社中という名前になった。
社中は、英語のカンパニーの訳語だったようだ。

ジャーデン・マセソン商会のグラバーから大量の新式銃を買い入れた。


 「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行










【高知市役所】HP

龍馬の生まれたまち記念館

龍馬が生まれ育った高知市上町に開館。
龍馬が土佐藩を脱藩するまでの少年,青年時代のエピソードを映像や音声で紹介しています。
龍馬の生まれたまち記念館を起点として、
高知市内に点在している坂本龍馬ゆかりの史跡等をめぐる「龍馬の生まれたまち歩き 土佐っ歩」もあります。
また、観光ガイドボランティアによる記念館内の案内もできます。
龍馬が過ごした時代を想像し,当時を偲ばせながら町並みや路地をゆっくり散策してみては。







撮影日・2015年2月28日



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上野彦馬

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・長崎県長崎市銀屋町


長崎名所のひとつ、眼鏡橋のたもと近く銅像が立っている。


右の人は坂本龍馬で、写真機を挟み、左の人が上野彦馬。
日本初の写真家だった人。
横浜で有名な下岡蓮杖と同時期の人。




(Wikipedia)

上野彦馬

幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。
号は季渓。家紋は桔梗の二引。

生涯
天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれる。
広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医を教官とする医学伝習所の中に新設された
舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。

同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。
日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。

維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、
明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、
同年に開催された第1回内国勧業博覧会で受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、
明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。










撮影日・2012年5月9日


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中岡慎太郎(室戸)

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・高知県室戸市    (室戸岬)
制作・本山白雲
設置・昭和10年




中岡慎太郎
1838~1867
土佐安芸郡の生まれ。
万延2年土佐勤王党に加盟。
元治元年(1864)金門の変の政変後、脱藩して長崎へ逃れ、倒幕を呼びかける。
坂本龍馬とともに薩長連合に尽力。
慶応3年(1867)京都で海援隊を組織して高知藩を倒幕へ導く。
近江屋で龍馬とともに刺客に襲われ2日後に死亡した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行







(Wikipedia)
没年 1867年12月12日(29歳没)
没地 日本の旗 京都
活動 倒幕運動
藩 土佐藩脱藩
所属 陸援隊
受賞 贈正四位
廟 京都霊山護国神社(霊山墓地)

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、
日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。
号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。
坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。
贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。








【室戸市役所】

中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。
慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。
この時慎太郎は30才。

この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられました。
室戸岬の先端近くに太平洋を見据えるように建っています。



撮影日・2012年4月4日
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高杉晋作

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・山口県下関市長府
制作・1972年(昭和47年)

長府の街並みは萩に似て歴史があり、町歩きが楽しい。




幕末長州藩士。
1864年(元治元年)12月、功山寺で高杉晋作が、力士隊・遊撃隊らわずか80人程度で挙した瞬間を表した像。
桃型の兜を顎に掛け小具足に身を固めた騎馬像。

「日本の銅像完全名鑑」 広斉堂出版  2013年発行





高杉晋作
天馬空を行く、一代の風雲児


「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん)、敢えて正規するものなし」
生死を賭して戦かった伊藤博文の表現。

徳川300年の世に、最初に反撃の口火を切ったのも彼である。
一代の風雲児とも革命児ともいえる。

高杉家のひとり息子晋作が、新しい人間に生まれ変わっていくのは吉田松陰との巡い会いだ。

21歳の時松陰が伝馬町で斬られた。
その年に結婚した。

文久2年(1862)上海へ行く。 
文久3年(1863)8月18日の政変。
元治元年(1864)6月池田屋事件、7月蛤御門の変(金門の変)、8月四か国艦隊の下関攻撃。
講和の交渉役に命ぜられる。
第二次長州征伐の軍を、自ら先頭に立って打ち破っていく。
その途中に病に倒れた。
慶応3年4月14日、29歳だった。


「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行







「歴史と小説」 司馬遼太郎   集英社文庫  昭和54年発行

幕末の事

なにをくよくよ川側柳
 水の流れを見て暮らす


という唄をつくった長州人高杉晋作ほど飲んで遊んだ男もなかったであろう。
高杉にとって、酒、革命、女は、彼の血が要求している等価値のものであった。
かれは乱世に生まれて英雄となった。

高杉は藩庁から三千両の洋行費をせしめ、子分の伊藤俊輔(博文)をつれて下関まで出かけた。
金がある。つい遊んだ。
芸者末社を総揚げにして連日連夜の大さわぎとなった。
豪遊が藩庁に聞こえ、同志の野村靖之助が、わしの諌止をきいてくれねば腹を切る、といった。
「立派に切れ、おれが介錯してやる」
野村は退散、手がつけられなかった。
さらに長崎に行った。
長崎でも飲み、ついに洋行費は一文もなくなった。
が、英国が長州を応援する意思があることを知った。
この事が高杉に別な思考方法を与えた。
倒幕の可能なことを知った。


金の工面がついたころ、高杉は長崎でオテントサマ号という軍艦を、藩にもことわらず、勝手に買い込んだ。
幕府の第二次長州征伐のとき、丙寅丸と改称して大島郡の沖合で幕府軍艦と戦い、さらに小倉城攻撃に威力を発揮し、
ついで鳥羽・伏見の戦いの後討幕軍の海上輸送に大いに役立った。
がそのときは高杉は病死していた。
累年の奔走、戦闘、酒、女がたたったのである。
この男は風邪一つひかぬ壮健な体をもっていたが、不養生が過ぎた。
父の小弥太が「遺言はあるか」と問うと別にありません、といい
料紙と筆をとって辞世の歌を書きはじめた。

 面白きことも無き世を
  面白く、・・・・・・・・・

とまで書いたが、あとは体力がつきた。筆を落とした。
直後に絶命している。








「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

高杉晋作

奇兵隊は当時としては斬新なものでした。
農民、あるいは一般の町民、そうゆうものまで軍隊に編成していくというのは、
新しい発想をもっている。

上海に行って長髪族の乱(太平天国の乱)を見、
また西洋人がわがもの顔でふるまっているのを見、
うかうかしてると日本は大変なことになると思った。

高杉というのはとにかく弟子を養成するのがうまかった。
山県なんかを養成しているのですね。
奇兵隊の戦法が、第二長州征伐の時山県によって成功しています。






撮影日・ 2015年2月20日




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通学船

2021年06月22日 | 銅像の人
場所・岡山県浅口市寄島町

管理人が小学生の時は、
笠岡市に有人島が9島あり、うち2島(片島・小飛島)に小学校がなかった。

片島は神島へ渡船があり、大人も子供も渡船で渡っていた。今も渡船場跡がいくらか残る。
小飛島は、たぶん旅客船を使用しての大飛島への通学だったと思える。


寄島では三郎島の子供たちが、子どもだけで海を渡って学校に通っていた。




通常は干潟の浅瀬を通学路にして、潮の干満を気にしながら早足で渡ったようだが、
それでも距離があり(1km以上)通学路は潮が引いたばかりの不安定な場所。
想像しても苦難、特に下級生は気の毒な通学だった。



潮によっては「通学船」での通学だった。

「寄島風土記」

冷たい冬の朝、襟巻で顔を包み、潮風に吹かれて1キロに及ぶ干潟をトボトボ歩いて海を渡り、
堤防に辿り着いて上級生が下級生をいたわりながら、しばし焚火を囲んで暖をとり、
隊列を正し学校に急ぐ子供たちを見て、大人は「三郎の子供じゃのー、可哀そうに」と同情の言葉で見送っていた。

潮の都合では朝5時ごろから渡らねばならぬ日もあった。
帰りも干潮時には歩いて渡った。
短い冬の日は昏れが早い。もう島の家には明りがついている。
潮騒に追い立てられ、満ち潮に追いかけられての家路を急いだ子供たちであった。


潮が満ちている時には通学船に乗る。
島の子供全員が10人位乗れる櫓で漕ぐ小舟である。
暴風雨の時は欠航する。
櫓は上級生が漕ぐ。
波風がある時は不安におののき、命がけの通学であった。








撮影日・2021年6月20日
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海軍特攻兵 (震洋)

2021年06月21日 | 銅像の人
場所・高知県香南市夜須町住吉海岸  "震洋隊殉国慰霊碑" 


第二次大戦中、まったくの無駄死といえば、まっさきに吉村昭の『陸奥爆沈』でも知られる、
戦艦陸奥の謎の沈没、それによる1121名の殉死を思われる。

ここ高知県では終戦の翌日、特攻兵器”震洋”が謎の事故で爆薬が発火して111名が無駄に死んだ。
死んだ特攻兵は、たいはんが予科練生であろうから16歳~18最くらいの兵士であっただろう。

特攻兵器で死ぬために配置され、終戦により生きて帰るのが決まった翌日の死はあまりに悲しい。





震洋は昭和20年から21年、予想される米軍の本土上陸を阻止する兵器(1人乗り、または二人乗りのボート)。
日本本土の他に、台湾や朝鮮にも配置されていた。

「最終決戦」のために準備された特攻兵器


空からの特攻は、
戦闘機から複葉の練習機まで使われた。
ロケットモーター付グライダーの桜花。
海からの特攻は、
人間魚雷回天、甲標的を改良した「蛟龍」、アクアラング付けた兵士が爆薬の棒でつつく「伏龍」、
主力となったのが、
「震洋」である。

べニア板で造られたモーターボートの艇首に250kgの爆薬を詰め、暗闇を利用して敵艦に体当たりするというものであった。
予科練や予備学生が操縦要員に当てられ、終戦までにおよそ6.200隻が造られた。
「震洋」は本土決戦に備えて九州、四国、関東地方などに配置され、50隻で一隊とする無数の震洋部隊が編成された。
本土決戦が行われなかったが、一部の震洋はフィリピンや沖縄で戦っている。

「日本本土決戦」 新人物往来社 2002年発行








この震洋隊殉死111名の死者数は、比較してみる。
日露戦争の、「日本海海戦」で日本側連合艦隊の死者数が117名。(バルチック艦隊側は4.830名)
太平洋戦争の、「人間魚雷回天」の出撃戦死者数が87名、訓練死を含めると148名。

ここ高知の海軍兵は、
戦果も、武功も無関係での死。
武装解除による軍人で無くなる日の死。
悲劇というしかないが、事故解明がされず二重の悲劇になっている。








昭和20年8月16日、爆死した日本兵で血の海になった海岸。
日本の復興の中心になるはずだった、若い担い手111名が散った。
今年の夏で、その日から76年になる。


撮影日・2012年4月4日



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陸軍特攻兵 (知覧)

2021年06月20日 | 銅像の人
場所・鹿児島県南九州市知覧


管理人は終戦から27年経った、昭和47年5月から丸1年間、大隅半島の鹿屋市に住んでいた。
本土最大の特攻基地があった鹿屋市で”特攻”、”特攻兵”に思いをすることはあったが、特攻が話題になることはほとんどなかった。

薩摩半島の知覧は陸軍の特攻基地があったのも知っていたが、紅茶や金峯山、たまに武家屋敷や薩南工業が話題になる程度だった。
知覧の特攻が話題になることはなかった。


それがいつからか、それとも、いつの間にか
紅茶や武家屋敷の知覧は、
”特攻の町”知覧になった。






「知覧の」の誕生  柏書房 2015年発行

報道班員として鹿屋に来た川端康成。

「私は特攻隊員を忘れることができない。
あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員、早く帰った方がいいといふ隊員もいた。
飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だったが、防空壕にいれば安全だった。
沖縄戦も見込みがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰った。
特攻隊については、一行も報道は書かなかった。」


「話さなかった」のは、川端だけではない。
戦後約70年間、特攻隊員との接触体験を胸の内に秘めてきた市民もいるという。
特攻基地での勤務経験の公言を固く禁じられていたという。







いろんな小説やTVドラマで知覧が登場し、そのどれもが少年兵や青年兵が死を覚悟して飛び立つまでのすじになっている。
知覧での一夜か二夜のお話で、その前後が抜けている。

知覧の前のこと
国を挙げての”お国のため”プロパガンダ。
入隊すれば、少年兵を塀で囲み、皇国・神国の教育を叩き込む。
少年兵は、自分の”死”こそが国家を護り、家族を守ることになると信じる。特攻兵になる。


知覧の後のこと
飛行訓練時間が少ないため飛び立つのが精いっぱい、特攻機も訓練機およびそのレベルの機、重い爆弾かかえてよろよろ飛行、
それに対して敵の米軍は戦闘機が待つ、艦からは前方が見えないほどの射撃を受ける、vt信管付き。
日本の特攻機が急降下して敵艦体当りは、はっきり言って、沖縄戦ではほぼありえなかったであろう。


知覧での一夜の出来事の話や特攻記念館の展示品を見て感動して泣くのは個人の自由だが、それは趣味や観光であって、
歴史の勉強にもならないし、
ましてや国政や国防についても、少しも参考になるものではない。



撮影日・2013年8月9日


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鷺舞

2021年06月19日 | 銅像の人
場所・島根県鹿足郡津和野町

映画かテレビかすっかり忘れてしまったが、
城下町・津和野の”鷺舞”を初めて見て、日本にはこんなに美しいお祭りの踊りがあるのかと思った。
衣装も、舞も、街並みも、みなよかった。






鷺舞

鷺舞は津和野の弥栄神社に伝わる古典芸能神事です。
鷺舞は天文11年(1542)に時の津和野城主吉見正頼(11代)が山口の祇園会から移し入れた芸能神事ですが、
本元は京都の八坂神社祇園会に伝えられたもので、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。
坂崎出羽守の時代に一時中絶しましたが、亀井氏の時代になって京都祇園会の鷺舞を直接習得させ、今日まで受継がれています。

津和野町観光協会










津和野は石見(島根県西部)だが、アクセスに恵まれない。
そのため、街並みは森鴎外の時代をいくらか残し、周辺の自然もまたすばらしい。








撮影日・2011年10月27日

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海女

2021年06月19日 | 銅像の人
三重県鳥羽市鳥羽  海女と童子の像


漁村に行けば、女性が海に潜って貝や海藻を採り、海女(あま)さんと呼ばれている。
管理人は農村・漁村・山村を併せた村に育ったが、村に漁師はいても海女さんはいなかった。
それに、瀬戸内海地方で海女さんがいたという話は聞いたことがない。
すくなくとも、戦後の貧しい時代でさえ瀬戸内海沿岸に海女さんはいなかった。

なぜ瀬戸内海地方に海女さんはいなかったのだろう?

それと、日本全体でみても海女さん人口が減っている。
将来、日本から海女さんが絶滅してしまう可能性もないとは言えない。






【鳥羽市役所HP】

海女とは

海女とは、素潜りでアワビやサザエ、海藻等をとる漁を生業とする女性たちのことで、他には類のない女性の漁師さんと言えます。
海女の歴史は古く、古代から受け継がれている漁法であるとの研究者の報告があります。
海女漁は、素潜りという独特の潜水技術による漁法で自然なる海の獲物を採り続け、長い時間、持続してきた素晴らしい漁法です。
また、その持続性・継続性には大きな意味があり、地域ごとに厳しく漁期を定めたり、漁獲できる貝の大きさを定めるなど、多くの約束事を決めて、
漁獲対象とする資源を「獲りすぎないよう」、「獲り尽くさないよう」に守り続けているのです。
現在、日本には、約2,000人の海女が現存しています(2010年海の博物館調査)。
そのうち鳥羽市・志摩市には、全国でも最多となる約750人の「海女」が操業しています。
しかしながら、海女を取り巻く環境は、漁獲資源の減少や海女数の減少と高齢化、後継者不足といった厳しい課題に直面しています。


『鳥羽・志摩の海女』が、国の重要無形民俗文化財に指定されました!

平成29年1月27日に開催された文化審議会文化財分科会において、
「鳥羽・志摩の海女漁の技術」として国の重要無形民俗文化財へ指定答申を受け、正式に指定されました。










撮影日・2013年6月7日
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