笠岡村に”寺子屋”は、推測だが5~10程度あったと思われる。
笠岡は寺の町だったので、文字通りの”寺子屋”も多かっただろう。
名代官として知られた早川八郎左衛門正紀の時代に、「敬業館」ができた。
四書五経など教える郷学だったので、現在に言うと中等教育(中学・高校)の一段高い学校だった。
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「岡山県教育史上巻」
久世條教刊行
代官は躬行実践を以て身を律し、屡々部民の啓蒙に奔命し、更に其の趣旨を徹底せしめんが爲、條を纏めて月毎に部民に諭した。
これが『久世條教』である。
『久世條教』は早川代官の管下たる美作久世に流布したのみならず、常陸の代官岡田寒泉によつて刊行、其の管下七郡百八十二個村にまで頒布せられ、
此種著書の権威としてとして重きをなしたものである。
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笠岡敬業館
笠岡住民の感激
久世代官早川正紀は、天明八年七月二十一日備中笠岡の陣屋をも支配することなり、其の教化的活動は久世同様に熱烈であった。
幕府は久世典学館の成績に鑑み早川代官を褒章し、支配所高二万石を加増した。
笠岡住民を感激せしめ、同年八月有志26名をして学問振興のため学館建設方を請願し、遂に笠岡八幡平に敬業館の完成を見るに至った。
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(笠岡市笠岡「敬業館」跡 2017.12.28)
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「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
『久世条教』を忘れるな
「どんなに貧しい家庭でも、母の乳房が二つあれば二人の子どもは養える。
子を殺すことは言語道断の悪事である」(『久世条教』)
奔走した一人の代官がいた。
それが、江戸後期の名代官として知られる早川八郎左衛門正紀である。
彼が天明七年(1787)に美作(現、岡山県東北部)に赴任して間もなく村々の実情を見て回ったところ、
村人は三人目からは間引きをし、貧困者にいたっては 一人残さず間引きをしていた。
そこで天明九年に「赤子間引きの制札」を村々へ出 し、三人目から銭五○貫文の養育費を支給するとともに、
目付役による間引き監視 や連帯責任による処罰を行なうことを伝えた。
いっぽう、当時荒廃していた地域を復興させるため、寛政七年 作国久世に日本最初の教諭所「典学館」、
寛政一〇年笠岡に「敬業館」を設立して庶民教化に努め、さらに『久世条教』という啓蒙書を出版した。
本書には、堕胎・間引きを戒めた「洗子 を禁ず」の一条を加えて育児を奨励し、
農民を集めて月三回教論を行ない、正紀自身も春・秋二回に地域を巡回して民衆に説論した。
*早川正紀、江戸中・ 後期の幕臣。通称、八郎左衛門。
関東の河 川工事を行ない、出羽・美作・備中・武蔵 国の代官として活躍した。
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「井原・笠岡・浅口の歴史」 郷土出版社 太田健一 2009年発行
敬業館
江戸時代後期、武士や庶民の間に学問への欲求が高まった。
支配階層である藩士の教育を目的とする藩校が設立される一方、庶民が学ぶ郷学も登場した。
笠岡に作られた敬業館も庶民の学問への高い志によって造られた郷学である。
寛政九年(1797)、笠岡代官所石橋屋久右衛門他二十五名の連署で学館設立の請願書が出された。
その内容は「在町之老若」に時々教諭の機会を設け、志ある者には家業の間に素読などを学ぶことができるようにというもので、
まさに庶民のための学校作りが目的であった。
建設費は学館建設を請願した人々の中の富裕層を中心に、銀二十貫目と三十両が集められた。
また運営費は建設費の余ったお金を貸し付けて、その利子を運営費に充てるとした。
笠岡村八幡平に教堂ほか三棟、約四 十坪の建物・敷地を持った敬業館が開設、翌年には町内有志から漢籍も寄附され、敷地も村有となるなど態勢が整い、教育の場が開かれた。
敬業館を語るうえで欠かせない人物が二人いる。
一人は当時の笠岡代官早川正紀である。
早川は天明七年(1787)久世の代官として久世村 (真庭市)に赴任、翌年には笠岡の代官も兼務となった。
早川が久世に郷学典学館を設立したことを知った笠岡の領民は、笠岡にも学館をと代官所に請願を行った。
早川代官はこれを許可し、敬業館と名付けたという
もう一人は初代教授の小寺清先 (1748~1827)であ る。
笠岡の祠官であった清先は、早川に敬業館の初代教授に迎えられ、 四書五経を中心に講義を行った。
郷学の教授として長年庶民の教育に当たるとともに、笠岡の文化の向上に努めた清先は文政十年(1827)に死去、三男の廉之が二代目教授を継いだ。
さらに嘉永元年(1848)廉之の死去後その子完之が跡を継ぐものの、
慶応三年学館の維持が困難となり郷学としての敬業館は閉校、五十有余年の公教育の場は幕を閉じた。
しかし明治五年(1872)敬業校と名付けられた学校は、明治十年に改称して現在の市立笠岡小学校となり今に至っている。
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