しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三八式歩兵銃

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日本陸軍兵士が持つ銃は、日露戦争から第二次大戦まで変わることなく使用された。
そのことに米軍は呆れたのであろう、空から宣伝ビラ(伝単)でまき散らした。

 

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三八式歩兵銃

「日本軍事史」吉川弘文館 2006年発行

三八式歩兵銃は一発撃つたびに槓桿(こうかん・レバー)を動かして空薬莢を輩出するという操作が必要であったのに対し、
米軍はそれがいらない半自動小銃・M1小銃を採用していた。
「相手は自動小銃、撃ちあいをしていたらこちらは負ける」
「ジャングルがあり、これを隠れミノに敵に近づき、油断しているところを突撃攻撃して、さっと退くから戦争になっていた」


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「三八式歩兵銃」(センデンビラ)

諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器として村田銃に代わって初めて戦線委に登場したのはご承知の通りであります。
然しこれは四十年前の事であります。
その後、各国は競って科学の研究に没頭し科学兵器に一大進歩を見たことは世界各国の知るところであります。
然るに諸君が自動小銃に対し●●式の小銃で闘はねばならないのは何故でせうか。
若し諸君の敢闘精神に米軍と同様な新鋭兵器を以って闘ったらレイテ島の様な悲惨を見ずにすんだかも知れません。
いくら精神力でも三八式歩兵銃ではどうしてコンソリの五〇〇キロ爆弾に喰ってかかることが出来ませうか。

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(Wikipedia)
三八式歩兵銃
日清戦争で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、
有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年(明治37年)から翌1905年にかけて行われた日露戦争において
、帝国陸軍の主力小銃として使用された。
三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、
同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。
このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。
あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、
また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行っている。
この改良は順調に進み、
本銃は1905年(明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、翌1906年(明治39年)5月に制式制定された。
部隊配備は日露戦争終戦後の1908年(明治41年)3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。

本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。
以降、三八式歩兵銃は日本軍(海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。

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12月8日、米英へ宣戦布告

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日清戦争以来、日本は満州の利権に強く拘り、拡大していった。
その結果、満州事変を自ら起こし、
その数年後には支那事変をも自ら起こし、日中全面戦争となった。
米英より、
せめて「満州事変」前を求められたが拒絶、昭和16年12月8日の対米英開戦となった。

 

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「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公新書 1995年発行

東条英機内閣は、ハル・ノートを最後通牒だと受けとめた。
「満州事変前の状態へ、日本を逆戻りさせることはできない。
撤兵しては、英霊にあいすまない」
として、開戦を決意した。
当時の日米の国力には、気が遠くなるほどの格差があった。
「日米蘭の経済封鎖が持続する場合、日本は”ジリ貧”におちいることになる。
特に石油は昭和17年7月ころには貯蔵ゼロ皆無となり、海軍は全くその機能を喪失するに至るであろう。」
ジリ貧を避けるために開戦するというのである。

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(「歴史街道」 2021・9号)

 

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「アジア・太平洋戦争」  吉田・森共著  吉川弘文館 2007年発行

 

戦争目的

昭和16年12月8日、
開戦の日に天皇の名で発表された宣戦の詔書では、
英米などによる対日経済制裁の不当性を強調し、自衛のためにやむを得ないという位置づけである。
しかし、同夜に情報局次長はラジオ放送で、
「アジアを白人の手から、アジア人自らの手に奪ひかへすのであります」、
とむしろアジアの解放にあった。

危機感の高めるときは自存自衛の面が強く叫ばれ、
情勢の好転する場合には大東亜新秩序の建設こそがが、この戦争の目的といわれた。
「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行


反米キャンペーンの立遅れ

米英による支配からアジアを開放するという戦争プロパガンダは行われたが、
白色人種対黄色人種、
西洋対東洋、というキャンペーンは政府により抑制された。
日本はドイツ、イタリアと同盟関係にあったからである。
また、反米的な戦時プロパガンダが本格化するのも昭和18年に入ってからのことである。
米英音楽の演奏が禁止され、横文字の看板撤去、英語の雑誌名や会社名の改名などが行われる。
有名な「鬼畜米英」という刺激的な表現が新聞に登場するようになるのも、翌昭和19年に入ってからのことである。

 

「大東亜共栄圏」の建設

これまでは中国に進出して「東亜新秩序」を建設することが日本の目標とされていきたが、
「大東亜共栄圏」へと舵が切られた。
この「大東亜共栄圏」は、イギリス・フランス・オランダの植民地になっているマレー・インドシナ・東インドを「独立」させることによって建設される建前になっていた。
だが、
その頂点に日本があって共栄圏全体を指導するものと考えられていたことはいうまでもない。
「民族解放」の題目は、しょせん日本による支配を糊塗するためのものにすぎないようにみえる。
だが、日本が東南アジア支配を正当化する理屈として、なぜ「民族解放」を選んだのかという点はやはり重大である。
ヒトラーは、ドイツ民族生存のために不可欠な「生存権」を確保するとう名分のもとに中・東欧に侵攻した。
日本は第一次大戦後の脱植民地と民族自決の流れに便乗した。
すなわち欧米宗主国から「独立」させたアジア諸民族の支持を集め
日本の指導を受けれさせることが可能であると計算されたのである。
ようするに、「民族解放」のスローガンは単にアジア支配のうわべを飾る美辞麗句だったのではなく、
「独立」の意味をゆがめて解釈することによって、日本の建設する新たな帝国を支える基本原則となることを期待されていたのである。


大東亜省


「大東亜共栄圏」内の諸民族は日本の戦争遂行に協力し、
国防資源の開発を中心とした総力決戦体制の構築という目的に奉仕すべきものとされたのである。
東郷外相はこの厚顔な政策に猛反対した。
東郷自身、「大東亜共栄圏」における「独立」が主権国家間の対等平等の関係を意味するものではなく、
日本の指導を前提とすることを認めていた。
「独立は名のみにして実は属国視せらるるものと信ぜしめ、其の結果帝国に対して不信、疑惑と共に不満の念を抱かしめ。。。」
結局、9月1日、東郷外相は辞任に追い込まれた。
 


「大東亜戦略指導大綱」


昭和18年5月30日の御前会議で決定された「大綱」では、
ビルマ・フィリピンを独立させる方針が定められている一方、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し
重要資源の供給源として開発ならび民心の把握に努む」
という条項が盛り込まれた。
石油をはじめとする資源豊富な英領マレー・ボルネオと、オランダ領東インドは日本の領土とするという意思が臆面もなく表明されたのである。
ビルマは対英戦争を遂行するうえで好都合な場所であり、
フィリピンは以前から宗主国アメリカに独立を約束されていた。

ところで「民族解放」を突きつめて行けば、朝鮮や台湾の地位の問題に突き当たる。
これに対処して、特に朝鮮の独立を防ぐためにも、
朝鮮の日本への同化が急がれねばならなかった。
悪名高い「皇民化政策」は、
日本の植民地支配時代に一貫しておこなわれたものではなく、
戦時下に本格化したものである。
さらに44年4月からは、「内鮮一体の具現」という名目の下で徴兵制が施行されている。

 

大東亜会議と「大東亜共同宣言」


1943年11月に開かれた大東亜会議は、重光にとっては、
「大東亜共栄圏」の意義と正当性を内外に闡明にし、アジア諸民族の協力をとりつける重要な場であった。
参加国が平等に一票を持つような機構は日本の指導を妨げるという反対が出て退けられた。
独立を求めるアジア諸民族と、日本の指導を当然とする国内的要求のバランスをとった宣言を採択した。

 

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「ライシャワーの日本史」 エドウィン・ライシャワー  文芸春秋社 1986年発行

第二次世界大戦の発端

第二次世界大戦の発端は一九三七年の日中の衝突にあるので、
一九三九年のヨーロッパでの開戦や一九四一年にアメリカがその両方に参戦したことではなかった。

日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思いこみがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

しかしナショナリズムの波は急速に広がっていた。
とくに中国ではその勢いは激しく、朝鮮半島や満州での植民地支配の現実はもはや日本人をヨーロッパ人やアメリカ人よりも魅力ある主人とは思わせなくなっていた。
日本帝国が大きくなっていくにしたがって、中国人の抵抗も激しいものとなっていった。
東アジアに侵略し、一大帝国を築きあげようと野心にかられた日本は、世界史的にはいささか遅きに失していた。
十九世紀における列強の帝国主義的進出のようにことは容易には運ばなかったのである。

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