しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

兵隊

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

兵隊は戦争の要員なので、戦争が無い時は兵は一定数以上は必要なかった。
父はよく、「まんが悪い」とこぼしていた。
日中戦争が勃発した年が徴兵検査の年齢だった。
それは父と同じ生まれの人は、ほぼ全員そう思ったに違いない。
この年から検査合格者は、全員兵隊に召集された。

・・・


「美星町史」


徴兵検査

小田郡の各村々は笠岡の貫閲講堂を検査場としていたので
当地の受検者は全員、検査地に宿泊し、翌日の検査に出場した。
その検査場には、村長は勿論、
在郷軍人分会長・小学校校長・青年学校長も列席して行われ、
それは厳格そのものであった。
大体一日に三~四ヶ村の数え年二十歳の青年を対象に行われた。
検査官は岡山聯隊区司令部の職員で、下士官・軍医将校・徴兵官で構成されていた。
検査内容は身長・体重・胸囲・視聴力・肺活量・四肢・性病などで、
受検者は初めから終わりまで、ふんどし一つの裸で臨み、
軍隊式の厳格な号令と返答、態度で実施されたのである。
すべての検査終了後、徴兵官の面前に立って、
甲種、第一乙種、・・・の宣告を受けて終了となる。


召集


戦争がおきると召集令状によって、入隊していた。
その内容は日時と場所の指定をして、至上命令であった。
召集者は一定の日数(三日ないし七日)の間に見廻りの整理を行い、
婦人会からの千人針なり、「祝出征」の幟などを作ってもらい、
組や親族の宴会にも出席し、あわただしい日を送る。
出征当日は氏神様に参拝し、見送りの人達の「万歳」の声に送られて出かけたのである。
村人は涙一つ流されず、「おめでとうございます」と挨拶する他になかった。

 

千人針

出征軍人への最高の贈り物は千人針で、布不足の時でもこれだけは手にいれることができた。
最初は、長さ1mくらいのサラシ木綿に赤で千個の点を打ったものであったが、
後には、それに虎を大書した布や「必勝」と書いた布が用いられた。
また、5銭銅貨を縫い付けて、「死線を越える」の意味をこめたものであった。
女一人一針で、寅年の人は年齢の數だけ小さな結び目をつけた。
これを作り上げる活動を、婦人会が引き受けて「武運長久」を祈りながら、
村中廻り隣村へも出かけて行った。
子どもを背負って、薄い重湯を入れた瓶をさげて、モンペに地下足袋の粗末な出立ちで足を棒にし、
山坂越えて歩き、でき上りは氏神様へお供えして祈り、あらためて、当人に差し上げた。


出征

出征の当日には、氏神様の前に子供から老人まで、大勢集まって、日の丸の小旗を振りながら出征兵士を送る歌を唄って門出を祝った。
若い母親の背中で父を見送っている乳児を見ても、村人は涙一つ流されず、
「お目出とうございます」と挨拶する他になく、慰めの言葉は言えなかった。
一方では、八幡巡りの老若男女が、弁当を腰に杖をついて行く姿が目に入り、
また、どこからともなく小学生の歌声がきこえて

必勝祈願の朝参り 天皇陛下のおん為に
死ねと教えた父母の 赤き血潮を受けついで
心に必死の白タスキ かけて勇んで突撃だ

何ともいえない息のつまりそうな一ときであった。

・・・

(昭和13年・父の出征記念写真)

 

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「ビジュアル日本の歴史 116」

「戦陣訓」

捕虜になるくらいなら死を選べ!
日本を自決に追いやる「戦陣訓」

日中戦争が長引くくにつれ、兵士の士気が低下して軍紀は退廃。
戦場での掠奪、暴行などの非行が続出した。
そこで陸軍省は、1941年(昭和16年)1月8日、「戦陣訓」を全軍に示達、
軍人として守るべき道徳と戦場で特に戒めなければならない心がけを説いて軍紀の粛正を図った。
しかし、中には次のような一節もあった。
~名を惜しむ~
「常に郷党家門の面目を思ひ・・・その期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。
この戦陣訓が示した精神論と捕虜の絶対否定は、敗れた兵士に「自決」と「玉砕」の選択肢しか与えず、失わなくてもよかったはずの多くの命を散らすことになった。

 

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「あの日、あの味」 月刊望星編集部 東海大学出版部 2007年発行

兵隊と食べもの  伊藤桂一

軍事用語で兵食というのは、兵隊の食べもの、兵員のための食糧ということです。
古来、軍事に関する限り、兵食はもっとも重要な意味を持ちました。

軍事用語で兵站(へいたん)というのは、兵用の宿泊施設のことで、同時に食糧の心配もします。
軍事行動する時は、まず食糧をどう補うかを考え、できれば宿泊のことも考えます。
今次大戦では、日本軍は戦力、戦闘、行動力に重点を置き、兵食の問題を重要視しませんでした。

私は日中戦争に7年間、一兵士としてつきあいましたが、
補給は現地でとれ、という命令をよく受けました。
つまり軍そのものは補給を行わないということです。
私が中国山西省で戦ったころ、この土地は黄土の山岳地帯、山の砂漠です。
出発時に3日分の食糧は持ちますが、5日、6日となりますと行く先々の集落から食糧を入手するしかありません。
砂漠だから水の補給(集落の井戸)にも苦労しました。
でも、中国だからまだよかったのですが、ニューギニア、ビルマ、フィリピンなど南方で戦った人たちは、戦死よりも飢餓死で多く死にました。
食糧がないので空腹から病気にとなり、そのまま死んでいきます。
軍の指導部は兵力の行動を図上戦術で考え、その行動ができるかどうかを考えませんでした。
最後は皇軍の戦闘精神で戦えと考えていました。

兵力が作戦で動くときは、弾薬、食糧を同時に考えます。
これを補給線といいますが、
この補給線を絶たれると、部隊はほっておいても自滅せねばなりません。

ビルマでのインパール作戦では、食糧の全く絶えたままの戦いの中で、多くの将兵が死傷しました。
軍司令部はこの困難を、ただ図上で計画し、一人として現地を具体的に歩いた人はいませんでした。
信じられないことですが、南方戦はほとんどこのような図式で戦われています。

 

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「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行
 
女性兵
 
戦局が悪化すると、大規模な兵力動員がおこなわれ、「老兵」や、体力の劣る兵士の占める割合が急速に増大しただけでなく、
幹部そのものの質も低下した。
昭和14年で中核である「大尉」「少佐」は約60%の欠員をみた。
 
1945年6月に公布された「義勇兵役法」は、17歳から40歳までの女性を義勇兵に服させることを決めた点で画期的で、
軍の指揮下に入り女性にはじめて戦闘員としての役割が与えられた。
しかし編成される前に、日本は敗戦の日を迎えた。
 
実際に、新潟県五十沢村の事例で見てみると、女性隊員は14歳から40歳までの「未亡人又は独身者」に限定されていた。
イギリスやアメリカでは、補助部隊であるとはいえ女性の部隊が創設された。
ソ連では第一線の戦闘部隊でも女性兵士が活躍した。
 
日本では女性兵士は実現しなかった。
米英と比べ「男は前線、女は銃後」というジェンダーの力学が強く作用しているといえるだろう。
 
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まえからわかっていたこと

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

「菊と刀」  ルース・ベネディクト  現代教養文庫  昭和42年発行


まえからわかっていたこと

日本は勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。
日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。
なるほどアメリカは大国である、軍備もまさっている、しかしそれがどうしたというのだ、
そんなことは皆はじめから予想されていたことであり、われわれははじめから問題にしていないのだ、と彼らは言っていた。
そのころ日本人は、日本の大新聞『毎日新聞』で、次のような記事を読んだ。
日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、くり返しくり返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する
戦いだ、と言っていた。
真珠湾奇襲のずっと以前から公認されていたスローガンであった。
軍国主義者であり、かつて陸軍大臣であった荒木大将は、『全日本民族に訴う』というバンフレットの中で、
日本の「真の使命は皇道を四海に遍く弘布し宣揚することである。
力の不足は れわれの意に介するところではない。何故に物質的な事柄に気を使う必要があろうか」

彼らはたえず、安心や士気は要するに覚悟の問題にすぎないと言っていた。
どんな破局に臨んでも、それが都市爆撃であろうと、サイパンの敗北であろうと、フィリッピン防衛の失敗であろうと、日本人の国民に対するおきまりのせりふは、
これは前からわかっていたことなんだから、少しも心配することはない、というのであった。 

明らかに、お前たちは依然として何もかもすっかりわかっている世界の中に住んでいるのだと告げることによって、日本国民に安心を与えることができると信じたからであろう。
しかしこうなることは前から百も承知していたことであって、必要な手筈は日本はアメリカ爆撃機の行動半径内すっかりととのっている」。
「敵は必ずわれわれに対して陸・海・空三軍の連合作戦をもって攻勢に出てくるであろうが、これはすでにわれわれの計画中に予定されていたことである」。
爆撃によって国内戦線の日本人の士気を沮喪させることは不可能である、
「なぜなら彼らはすでに覚悟しているから」と確信していた。
アメリカ軍が日本の都市の爆撃を開始したころ、航空機製造業者協会の副会長は次のような放送を行なった。
「ついに敵機はわれわれの頭上に飛来して参りました。
しかしながらわれわれ航空機生産の事に当たっております者は、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了致しております。
したがって何ら憂慮すべき点はないのであります」。

すべてが予知され、計画され、十分計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押しつけられたのではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができたのである。
「われわれは受動的に攻撃されたと考えてはいけない、積極的に敵をわれわれの手もとへ引き寄せたのだと考えなければならない」。
「敵よ、来るなら来い。
われわれは「ついに来たるべきものが来た』と言う代りに、むしろ「待ちに待った好機が到来した。
われわれはこの好機 の到来したことを喜ぶ』と言うであろう」。

またラジオの報道によれば、アメリカ軍がマニラ市中に突入した時、
山下将軍は「ニッコリ笑って、敵は今や我が腹中にあり、と言った・・・・・・」
「敵がリンガエンに上陸した後まもなく、たちまちのうちにマニラをおとすことができたのは、
これひとえに山下将軍の戦術の結果であり、将軍の計画通りに事が運ばれたのである。
山下将軍の作戦は目下引き続き進行中である」。

言い換えれば、負ければ負けるほど事はうまく運んでゆく、というのである。

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12/8 学童

2023年12月07日 | 学制150年

 

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「尋常小学校ものがたり」 竹内途夫 福武書店 1991年発行


一石二鳥の馬糞ひろい

毎週木曜日の登優時、道路に散乱する牛の糞を、部落ごとに拾い集めて登収する行事であった。
この作業は道をきれいにすることと、ほった馬薫や牛葉を、学校の実習や野菜園に肥料として利用することの、一石二鳥のねらいがあった。
トラックはめったに見かけなくて、 もっぱら牛の力による荷車に頼ったから、道路にはいつもその糞が散乱し、蠅が群がって悪臭を放っていた。
この糞は、道路沿いの田畑の持ち主が、自分の田畑に取り込むのであるが、朝早ければ葉は無事で、村中の道から拾い集められた糞は、学校の堆肥舎に山をなした。
不況に喘ぐ村では、道端の馬ひとかけらも無駄にしなかったから、今日は子供が馬を拾う日だと気づくと、わざわざ早起きして糞を掻き集める始末屋もいた。
またこの反対に、子供のためにわざわざ二、三日も前から掻き集めた糞を道端に置いておく奇特家もいた。
こういうことは、今の常識からすれば理解できないかもしれないが、当時ではこれが当然だった。
たとえば、部落ごとにある公会堂や役場、お宮などの公共設備の便所の読み取りは、ただで奉仕することはできなかった。
希望者が多く競争になっ た。
早い者勝ちでは不公平であるから、入札制をとるのが普通だった。
度々の入札は煩わしいので、年の初めにその年一年間の汲み取りを入札で決めていた。
このひろいの作業は、原則として子供の登校する道路に限られていたが、量が少ない時は他の道順を選ぶこともあった。

 

奉安殿

運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだっ た。
この奉安殿は村の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。
正方形の敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に 似た木の生垣が設けてあった。
内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。
ふだんはこの聖域に立ち入ることはできなかった。
月に二、三回、高学年の女の子が身を清め心を正して清掃に奉仕したが、作業はすべて厳冬を除いて素足で行なわれ、無駄口を聞くことはできなかった。 
なぜ女の子だけが当番になったのか。たぶん神に仕える神子の例に倣ったものであろう。

 

非常時日本の教育
国のため、大君のため

昭和六年九月に満州事変が勃発してからは、学校教育も、それまでの国家主義的傾向がますます強まって忠君愛国の軍国主義教育がより鮮明になってきた。
満州事変が関東軍の画策した陰謀だったことを知ったのは、ずっと先の戦後のことであるが、当時の一般の者がそんな軍のからくりを知ろうはずもなく。
校長以下全教師全児童が支那軍の暴虐を憎み、断固膺懲の鉄槌を下すべしと力んだ。
暑ければ、炎熱地を焦がす満州の将兵の苦闘を偲んで耐え、寒ければ酷寒零下三十度の満州の広野に戦う兵士の辛苦思って耐え抜いた子供たちであった。
天皇や国家に対する意識の高揚も、この事変を機にますます盛んになった。
何事につけても国のため、大君の御ためが罷り通った。
学校の諸行事に日の丸と君が代はつきものだったが、
これに皇居の遥拝と、皇軍将兵に感謝の黙疇が加わり、最後は必ず「大日本帝国万歳」が三唱された。

・・・

 

「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


国民学校

昭和十六年「国民学校令」が公布され、明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が 「国民学校」に改められた。
国民学校令の第一条に「国民学校 は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、
この目的に向かって教育内容も大きく変革していっ た。
国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。
初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改められたが、高等科はこれに実業科が加わった。
「国民学校の教育理念に基づき授業内容も大きく改められたが、従来の修身の授業内容に「礼法」を加え、国語には従来の「読方」「綴り方」 「書方」のほか「話方」が加わった。
国民学校の教科書は、低学年向けには色刷りの絵が多くみられた。
教育上の苦心がみられるが、内容は当時の社会情勢や思想を反映し国家主義的色彩が濃かった。
また軍関係からの要求もあり、軍事的傾向も強く現れている。


児童の名誉標章 
戦争に向かって
昭和十三年、国防目的のために国の全力を発揮できるよう人的、物的資源を統制し運用するという「国家総動員法」が発布され、
翌年には「青少年学徒二賜ハリタル 「勅語」を下賜、この年発行の東京市錦華尋常小学校の校報には「名誉標章に就いて」と題し次のように記載 されている。
「昭和十四年元旦を機して今事変出動軍人の児童たちに名誉標章を配布して胸間に佩びさせることにした。
円形の青地に輝く日章旗を描いた。 
この名誉標章を制定した趣旨は、出動軍人の子弟であることが一見してわかるようにするためである。
 (中 略)これをつけている児童は学校においては模範の児童となり、
家庭においては孝子、近隣の手本となって流石皇軍勇士の家庭に育つだけあって見上げたものだと賞賛されるようにとの念願からである」
そして、昭和十五年の紀元二千六百年を契機に一段と戦時体制が強まった。


終戦

小学六年生の時に終戦を迎えたがそれ以前は教室に入るにしても、 
「何年何組、何のだれそれが何々先生に用事があって参りました」 と入り口で名乗って入らなければ ならない。
軍隊と同じ様な教育は訓練そのもので、また登校時は班長を先頭に二列縦隊になって校門をくぐり、奉安殿に向かって整列最敬礼してから教室に入った。
何かにつけ厳しい教育体制化の中にあって、校則に反するようなことは当たり前だがひとつもできない気風だった。
冬の体育の時間には、裸足で雪の上を走らせられ、アメリカ軍のB29爆撃機を模した絵を板に描き、離れたところからB2に向かって雪玉を投げ、当たるまで何回も雪玉を握っては投げた記憶がある。 
昭和二十年八月十五日、天皇陛下の「終戦の詔書」の玉音放送は正午だった。
私は家にあったラジオを家の前の道路に出し陛下の玉音を待った。 
放送の内客は子どもには理解できなかったが、戦争が終わったと母が話をしていたのを覚えている。
当時は雑貨であった家業も商品不足のため、少しだけあった財産を売っての暮らしが始まった。
その日から数日後、学校へ登校すると勉強道具をすべて持って体操場に集合するよう言われた。
すべて持って行くと板の間に正座させられ、カバンの中の本やノートをすべて出すよう指示があり、戦争や軍に関係する絵や文字を硯ですった墨で消すように命令された。 
何が何だか分からないが、生徒全員が黙々と作業していた。
いわゆ墨塗り本で、墨で手が真っ黒になって作業していたのを思い出す。
戦争に負けたことはなんなのかも分からず、先生からは全く説明された覚えもない、子ども時代の記憶に残っているシーンである。 
軍国主義一辺倒の社会と教室の空気は敗戦後は日毎に民主主義へと変化していった。

 

・・・

「美星町史」
学童の生活

小学校では、敵国の肖像画を書いて、長針を突き刺し「打ちてし止まん」と朱書きしたポスター等を
教室や廊下にはり付け、校門の入り口にわら人形をしつらえて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養い、
又、朝礼の時、「海ゆかば・・」の短歌を朗読し、必勝の祈りをして教室に入った。
戦争末期になると、青年学校男生徒は次々に戦地にかりたてられ

昭和20年2月、女性徒は軍需工場に徴用され飛行機の部品を作るところで3ヶ月間働いた。
工場では早朝から機械に取りくみ、夜は午後10時に工場長が廻ってこられ「ご苦労様」おわれて終わりのベルとともに機械が止まった。
夜具も極端に粗末で、裏表の判らないセンベイぶとんで12時ごろ、床に入れば、空襲警報の発令で防空頭巾をかぶり、
服装を整えてそのまま夜を明かしたことも度々であった。

・・・

 

 

 

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