しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ひい祖父さんの学歴

2023年12月25日 | 学制150年

利三郎(りさぶろう)祖父さんは、管理人のひい祖父さん。父の祖父。
元治元年(1864)備中国の茂平村に生まれた。
農家の長男、第一子だが利三郎。

終戦の年の11月、
隣家から発生した赤痢になり、医療や薬品もなく、あっけなく亡くなった。
それまで農業一筋の元気な人だったそうだ。

ひい祖父さんの話は、家庭内でもよく聞いたが、学歴の類の話は記憶にない。
たぶん、義務教育を受けた後、終生を農業して茂平で暮らした。
子は4人、すべて女子。

・・・

 

(利三郎じいさん 1864~1945)

 


じいさんを現在の小学入学に当てはめると、

じいさんは、

明治4年・1年生

明治5年・2年生 (←この年学制発足)

明治6年・3年生

明治7年・4年生


しょうじき、じいさんの学歴はまったくわからない。
茂平に寺小屋があったのか?どうかも不明。
親が文字が読めたのと、督促で、少なくとも「下等学校」は卒業していると思われる。

しかし、それも、
何才で入学して、何才で終了したのか? 不明
その学校はいったい、どこに存在したのか? 不明
(今後の調査まち)

・・・・


「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行

学制の規定
(明治5年から12年まで)では、小学校を上下二等に分け、この二等は男女とも必ず卒業しなければならなかった。 
下等小学校も上等小学校もそれぞれ六カ月ずつの八級に分けられ、
入学の際は八級から始まり、順次一級までの課程を修めて卒業となった。
また下等、上等小学校ともに段階ごとに試験があり合格しなければ、もう一度同じ級に留められることとされていた。

就学の督促
学制発布以来、政府の重点政策は全国各町村に小学校を設立し、すべての学齢児童をここに就学させるということだった。
このため、学区取締りという、就学の督促、小学校の設立、学費の調達など学事の一切を行う機関を設けた。

かなり強力督促を行った。
府県によっては、各種の 規則を設けて督励業務の役割を明らかにした。
巡査に命じ、就学児童の取締りを行ったり、校旗を就学率によって区別するなどの例もみられた。
厳しく就学を督促するだけではなく、県の役人が各学校を巡回し優等生を表彰したり、
学校でも成績優秀者へ賞品を添えた表彰や皆勤賞などの賞状を授与し、就学を奨める手段をとっていた。

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. いつにするかは府県でまちまち

1872(明治5)年に始まった日本の学校制度ですが、
明治の初めは学年の始まりをいつにするかは決まっていませんでした。
いつにするかは府県によってまちまちでした。 
まだ学校に行くということが当たり前になっていないころでしたから、とにかく学校に行かせる (就学率をあげる)ことを急いだのです。 

・・・

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学校制度ができる前

2023年12月25日 | 学制150年

江戸時代、幕府は、庶民教育はまったくの放任主義だったが、
維新政府は庶民教育の必要性を高く認識していた。

 

 

・・・

 

明治維新

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

維新頃
維新政府指導者たちの維新政府の直面する重大な課題は、
欧米資本主義列強からの圧力に抗し得る統一国家の建策設にあり、
その精神的基盤をなす国民意識の形成と国家の富強をめざす人的能力の育成は急務であった。
ことに、国民一般の教育すなわち初等教育の普及の必要性は指導者の間で早くから認識されていた。

尊皇攘夷派公家として、新政府の枢要な地位にあった岩倉具視は、慶応2年9月「時務策」において「文武学校ヲ興ス事」を掲げ、
ついで翌3年3月摂「皇道」を明らかにするための大小学校の設置を建策している。

江戸時代から続いた寺子屋・私塾は、大きな勢力をもって維新後もなお存続し、
さらに新しく設けられるものもあり、これらが「学制」後の小学校設置の重要な基盤となったであろうし、
寺子屋とは別にあるいは寺子屋を母体として新しく公共的性格をもって、成立・普及した郷学校や義校等は、
「学制」後の小学校の直接的なあるいは実質的な母体となったのである。

一方、指導者養成の学校である藩校では幕末から維新にかけ多くの諸藩において教育改革を実施したが、
その学校は廃藩置県後は廃止され、県学校や郷学校などに引き継がれた。
こうした藩校は一般に「学制」発布後の中学校以上の直接または間接の母体となったが、
小藩の藩校はその地方の代表的小学校に転換しており、ここにも近代小学校成立の母体をみることができる。
明治5年の「学制」に基づく近代小学校は、以上のような歴史的基盤なしには容易に成立し得なかったであろう。

維新後
維新後、時代の動きを反映し、
政府及び府県・藩の政策に基づいて、郷村における有志の協力によ郷学校の設立が各地に多数設けられるようになった。
明治3年の太政官からの郷学校に関する達など新政府の郷学校設置の方策にしたがって、
府県において郷学校が各地に普及をみた。

 

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「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行

寺子屋から小学校へ
わが国の小学校は、明治5年(1872)8月の「学制」によって、
すべての国民を対象とする初等教育機関として発足し、今日に至るまで百余年の歴史をもって発展してきている。
しかしこの小学校は「学制」発布によって突如として成立したわけではない。
「学制」発布後、全国に小学校が設置され、国民のすべてが教育を受ける体制を比較的早く整えることのできた基盤・背景には、
江戸時代中期以後、庶民の日常生活と関連をもって発達し、とくに幕末には全国の農山村にまで広く普及した庶民教育機関である寺子屋の存在があった。

さらに維新後、
「学制」が発布される以前において、時代の動きとともに全国的に学校改革の気運が高まり、
中央・府藩県の政策のもとに、全国各地に民衆一般を対象とする郷学校等の初等教育機関が、
寺子屋とは別に、あるいは寺子屋を基盤として企図され、設置されていた実態があった。
「学制」に基づく近代小学校は、こうした歴史的基盤の上に、近世以来の寺子屋や維新期に企図され設置された様々な初等学校を母体として成立したのである。

学校の設立
「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」
(学制序文)
明治5年(1872)9月、明治新政府は現在なら「学校教育法」に相当する規程を「学制」として制定する。
これによって新しい学校を設立すること、全国民に就学を督励する方針が示され、近代的な学校制度が発足する。

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「学校の歴史 第2巻 小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

郷学校の設立 

維新後、時代の動きを反映し、政府及び府県・藩の政策に基づいて、
郷村における有志の協力によって設立・経営された郷学校が各地に多数設けられるようになった。

明治3年12月の太政官からの郷学校に関する達など新政府の郷学校設置の方策にしたがって、
府県において郷 学校が各地に普及をみた。

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