利三郎(りさぶろう)祖父さんは、管理人のひい祖父さん。父の祖父。
元治元年(1864)備中国の茂平村に生まれた。
農家の長男、第一子だが利三郎。
終戦の年の11月、
隣家から発生した赤痢になり、医療や薬品もなく、あっけなく亡くなった。
それまで農業一筋の元気な人だったそうだ。
ひい祖父さんの話は、家庭内でもよく聞いたが、学歴の類の話は記憶にない。
たぶん、義務教育を受けた後、終生を農業して茂平で暮らした。
子は4人、すべて女子。
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(利三郎じいさん 1864~1945)
じいさんを現在の小学入学に当てはめると、
じいさんは、
明治4年・1年生
明治5年・2年生 (←この年学制発足)
明治6年・3年生
明治7年・4年生
しょうじき、じいさんの学歴はまったくわからない。
茂平に寺小屋があったのか?どうかも不明。
親が文字が読めたのと、督促で、少なくとも「下等学校」は卒業していると思われる。
しかし、それも、
何才で入学して、何才で終了したのか? 不明
その学校はいったい、どこに存在したのか? 不明
(今後の調査まち)
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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
学制の規定
(明治5年から12年まで)では、小学校を上下二等に分け、この二等は男女とも必ず卒業しなければならなかった。
下等小学校も上等小学校もそれぞれ六カ月ずつの八級に分けられ、
入学の際は八級から始まり、順次一級までの課程を修めて卒業となった。
また下等、上等小学校ともに段階ごとに試験があり合格しなければ、もう一度同じ級に留められることとされていた。
就学の督促
学制発布以来、政府の重点政策は全国各町村に小学校を設立し、すべての学齢児童をここに就学させるということだった。
このため、学区取締りという、就学の督促、小学校の設立、学費の調達など学事の一切を行う機関を設けた。
かなり強力督促を行った。
府県によっては、各種の 規則を設けて督励業務の役割を明らかにした。
巡査に命じ、就学児童の取締りを行ったり、校旗を就学率によって区別するなどの例もみられた。
厳しく就学を督促するだけではなく、県の役人が各学校を巡回し優等生を表彰したり、
学校でも成績優秀者へ賞品を添えた表彰や皆勤賞などの賞状を授与し、就学を奨める手段をとっていた。
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「ビジュアル版 学校の歴史」 岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行
A. いつにするかは府県でまちまち
1872(明治5)年に始まった日本の学校制度ですが、
明治の初めは学年の始まりをいつにするかは決まっていませんでした。
いつにするかは府県によってまちまちでした。
まだ学校に行くということが当たり前になっていないころでしたから、とにかく学校に行かせる (就学率をあげる)ことを急いだのです。
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