しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

てんやわんや  (愛媛県宇和島市岩松)

2024年04月21日 | 旅と文学

獅子文六の小説「てんやわんや」を読んでいたら、物語のモデルと言われる岩松町に行きたくなった。
小説では、宇和島から岩松までバスで約2時間。
現代では、40~50分もあれば行けるだろうと、思っていたが・・・ナント!
20分もかからなかった。
高速道路がトンネルを抜けると、すぐに岩松に着いた。これにはびっくりした。

岩松の街は、岩松川沿いに静かにたたずむ南予の落ちついた町並みだった。
昨年(令和5年12月15日)、
岩松は”重伝建”に指定されたそうだ。おめでたいことだ。

・・・

旅の場所・愛媛県宇和島市津島町岩松
旅の日・2009.10.11
書名・「てんやわんや」
著者・獅子文六
発行・新潮文庫 昭和26年

・・・

 

 

 

私は決心した。
東京は危険な都会というべきである。
薄暮、焼跡の場所で、突然真に突然、女から求婚されて、自若たる男性があったら、それは野蛮人であろう。
食と住居からの恐怖、ピストルからの恐怖、戦犯からの恐怖、女性の暴力化からの恐怖――
この四つの恐怖を、私は三日間のうちに経験して、もう躊躇する何物もなくなった。 
私は、断然東京を逃げる。 
日本の中心部から、脱出する。
行き先は万一ということを考えて、四国にきめた。 

案外、早く、高松桟橋着。
ここも罹災してるが、そんな風景に眼を留める暇もなく、予讃線の列車に飛び込む。
何時に出て、何時に着くのか、
サッパリ知らない。
が、ことごとく瓦葺きであることと、畑や道の土が真っ黄色であることを、珍しく思った。
丸亀 多度津
あとは松山まで、名も知らぬ駅ばかり。

宇和島に着いた。
まさか、 この四国の果ての町まで、 戦禍が及んでいようとは、夢にも思わなかった。
南国である。
熟睡したのと、残りの握飯三個を一時に食べたのとで、私の気分は、いささか回復した。 
留置場のような混雑の宿屋を出ると、私の心は、いよいよ晴れた。
碑が立っていて、大津事件の児島惟謙宅址 云々の文字が読まれた。
あの人がここの出身とは、知らなかった。

鬼塚先生は、よく宇和島の自慢をしたが、暢気な城下町と思われた。
バスの発着所は、天守の残ってる城山の下だったが、武家屋敷らしい土塀を残して、あたりは焼野原だった。
「相生町まで、バスで、どのくらいですか」
二十人ほどの行列に尾してから私は、前の商人体の男にきいた。
「一時間五十分から二時間と見ときなはれや」


やがて、バスは広い石河原の河端を過ぎ、橋を渡り、町に走り入った。
車体が軒に触れそうな、幅の狭い町で、どの家も煤けたように、古びていた。
「ここは、なんという町ですか」
「相生町でっせ」
海岸であるはずの相生町が、この山中の盆地にあるとは、信じられぬことだが、バスは町なかの運送店風な発着所前に止った。
軒の大看板に、まさしく、相生町駅と書いてある。

通行人に、玉松本家への道をきくと、簡単に、腕を伸ばして、指さしてくれた。
それは、半町とない、一筋町の、すぐ右側である。
舗装も、歩道もない往来を、私は歩きだした。 
家々の軒は低く、上方風に紅殻を塗っ店や、中国地方に見るようなレンジ窓の家が多かった。
小さな銀行支店や、歯科医院 や、二階建の駐在所などは、古びた洋館だった。

やがて、右側に、同じ低い軒下に、塗料の剥げた格子窓が連々と続く家があった。
そして、田舎の小酒造家程度の、貧しい入口があった。真黒い標札は、辛うじて玉松と読めるが、果して相生長者の家なのであろ

 

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高瀬舟  (京都市知恩院)

2024年04月21日 | 旅と文学

いつのころであったか。
たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。
智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。

それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。
もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人ひとりで乗った。

 

有名な森鴎外の、有名な「高瀬舟」の、有名な名文・美文のところ。

 

 

特に、”智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに”、の文章が好きで。(誰でもそうだろうが)

いつのころであったか。
たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。
智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。

 

桜の季節になると、この文章を思い出し
知恩院の桜
入相の鐘
それに

「入相の鐘に散る」
松平定信でなく「白河楽翁という表現に
うっとりとさせられる。

 

 


「日本現代文學全集」森鴎外集 講談社  昭和37年発行
旅行日・2009.4.7

 

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梅干しを食べる

2024年04月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

梅干しは、もっとも身近な「食べ物」だった。

おやつとして、竹の皮に挟んで吸う。その後で食べる。
弁当として、弁当箱の真ん中にあるもの。
握り飯に入れるもの。
晩飯の食卓の中央に置いて、誰でも箸が届く、家族共通のおかず兼食後のお茶の友。

今、「握り飯」はコンビニの代表食品であるが、
梅干しには種がないようだ。
ごま塩で握ってなく、海苔がついている。
海苔は自分で巻いて食べる、新技法でおもしろい。


 

「江戸の町くらし図鑑」 江戸人文研究会  廣済堂 2018年発行


梅干し

梅干しは昔から身体によいとされてきた食品のひとつです。 
お弁当に梅干しを入れるのは、黄色ブドウ球菌、0-157の増殖を抑制するからです。 
梅干しを食べると元気になるのは、クエン酸の効果で、疲れの原因となる乳酸の発生を抑えるからです。 
疲労物質の乳酸はガンを増殖させる物質でもありますから、ガンの抑制も期待できます。
合わせて、抗酸化作用 があるリグナンもガンや生活習慣病を防ぐ助けになります。 
そして、クエン酸は血液を中和させ、サラサラにもしてくれます。
これは脳梗塞や心筋梗塞の予防になります。
アンギオテンシンⅡは血管収縮性作用のあるホルモンに働きかけ、動脈硬化の発生を抑制してくれます。
そして、糖尿病の予防にも効果があります。
そのほか、食欲増進や虫歯予防、カルシウムの吸収を助け骨の老化を予防してくれるので、 毎日一粒は食べたい食品です。 

 

 

「鴨方町史」 鴨方町  昭和60年発行

梅漬け 

たいていは一本ほど植えておいて、自給した。
梅干しにしたものを、赤シソやベニショウガなどと一緒に一斗甕に漬ける。 
学校弁当・野弁当・山弁当・握り飯などに入れる。
風邪をひいて寝るとか、頭痛や腹痛などのときには、粥に梅干しであった。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行


梅干し
梅干しは常備菜として大事な毎日のおかずであるから、梅の時期には毎年必ずしそと一緒に漬けておき、 古いものから食べるようにする。
とくに、申年の梅がよいとされ、申年にはできるだけたくさん漬けておく。
おなかをこわしたり、からだの調子が悪くて食欲のないときは「米のかゆと梅干し」に限るとされている。
風邪には、梅干しの黒焼きにお茶をかけて飲んだり、梅干しときざみねぎを茶わんに入れ、熱湯をかけて飲むとよく効く。 
二日酔いには梅干しに熱い湯をかけて飲む。
また、梅干しの粕漬は強壮剤になるという。
これは、梅を塩漬けして土用干しをし、砂糖、焼酎、みりんなどをふりかけながら、酒粕と梅を順々に漬ける。
毎日一粒食べれば病知らずともいわれ、効用は広く信じられている。

 

 

 

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豆腐を食べる

2024年04月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。
豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。
お金か、または大豆と交換していた。

すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。
父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。

農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。

 

 


「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


豆腐
煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。
豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。
苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち 苦汁を使った。

豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。
秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や 三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど作った。
正月餅を搗いたあと、温まっている平釜を使って正月用の豆腐を作った。 
人が死ぬと、米搗きとともに、豆腐作りに気をつかい、大豆の水かしから始めた。
旧十二月八日は、八日待ちとかコト八日といい、一年の仕事納めなので、豆腐やコンニャクを食べ、 一年中の砂をおろし、嘘はらいといって、誓文払いをする。
店に買い物に行くと、豆腐汁を食べさせてくれたりした。
また、折れた針を集めて針供養の日に、豆腐やコンニャクに刺し、針に感謝し、和歌山市加太の淡島明神に納める所もある。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

豆腐をつくる

豆 腐
秋から春にかけては家でつくり、夏場は腐りやすいので買って食べる。
大豆一升で四丁と交換できる。
家でつくるときは、一回に二升の大豆で豆腐一箱分(一〇丁)ができる。

・・・・・

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

豆腐

豆腐をつくるのは、正月、祭り、盆、法事などに限られ朝早くから二人がかりで豆をする。
二升一箱(亘二升で 豆腐一箱=一二丁)がふつうで、石田が一回転するごとに、さかずきに水こみ一杯ずつの大豆を石に流しこむ。 
大豆を入れすぎたときは、石田を二回転ぐらいさせてから 次の豆を入れる。この入れ方で目の細かい呉ができるかどうかが決まる。
豆が多くも少なくもなく、水も多くも少なくもないことがこつである。
豆腐は汁の実、白めえ (白あえ)、けんちゃんにする。
また、焼き豆腐、凍み 豆腐にして長もちさせる。 
おからは、野菜と一緒に炒め煮にする。

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


国民的な食品、豆腐
精進食品だった豆腐

大豆からつくられる豆腐は、中国・朝鮮・日本など東アジアに共通した食文化である。
日本では仏教伝来とともに、僧侶たちの精進料理の一つとして豆腐が伝えられた。
肉食を禁じられた 僧侶たちにとって、「畑の肉」ともいわれ植物蛋白質に富む大豆からつくられる豆腐は、日常的に不可欠な食品であった。
豆腐はごく最近まで"トーフー"というラッパの音とともに、豆腐屋さんが自転車で町内を回って振売りしていた。
今でも田舎に行くと、バイクに乗った豆腐屋さんが走っている風景を見かける。
また豆腐屋にブリキ製の容器やポールを持って買いに行けば、大きな包丁で水の中の豆腐を切って、売ってくれた。
このごろの消費者はスーパーやデパートなどの大型店でパックに入った大量生産された豆腐を買うケースが多くなっている。

凍み豆腐

真言密教の聖地、高野山は白胡麻と吉野葛でつくられた胡麻豆腐をはじめ、精進料理で有名である。
また高野山は凍み豆腐、つまり高野豆腐の発祥地でもある。
中世高野山の院坊で、台所に豆腐を置き忘れたところ凍っていた。
もったいないので、煮て食べたところ大変おいしかった。
これが凍み豆腐の始まりで、高野山の周辺には最盛期100戸ほどの業者があった。


 

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里芋

2024年04月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。

実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。
美味くも、不味くもない野菜だった。

雨の翌朝は、
葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。

 



「日本の伝統野菜」宮崎書店 板木弘明 2015年発行

さといも

いねよりも古くから主食にされてきた野菜。
さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。
日本へは中国を経由して伝わりました。
縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。
山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。
はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、 
そのまわりに「子いも」や「孫いも」ができます。
子いもや孫いもを食べる品種、親いもを食べる品種、 両方を食べる品種があります。

 


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。

 


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

里芋
里芋は日焼けにあいやすい作物。
水田で田芋を作っているところもある。
呼称はコイモとかズイキ芋・・・。
寒さに弱く、腐りやすい。一日ぐらい干して、穴を掘ってスクモをいれることが多い。

 

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

サトイモ 

サトイモは、子芋や親芋・ズイキ(芋茎)などを食用にするが、親芋はえぐくて食用にならない種類もある。 
子芋は 煮物にし、煮染めに入れる。
葬式や法事のときに煮て皿につける。 
ズイキはゆでて、皮を取って干す。
保存しておき、味付けしておかずにし、醤油飯とか五目飯に入れる。

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

サトイモ(里芋)
日本では稲作よりも早く、縄文時代から食べられていた。
中央の親芋のまわりに子芋、孫芋がつく。
ずいき
葉柄はずいきとして食用にされる。

 

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蜜柑(みかん)

2024年04月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、
人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。
芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。
うらやましいな、と思った。
我が家にテレビはなかった。
ミカンもなかった。

日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。
国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。


その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。
笠岡湾の海に面し、

笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が
♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。
それは美しい風景だった。

父母のミカン畑は茂平では多い方だった。
いちばん本数が多かったかもしれない。
だが、
芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。
父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、
実が成り出したころは、出荷して儲けるミカンでなく、
家族で食べたり、隣近所に配ったり、親戚に贈ったりするミカンとなった。


父がよく、
「国が作れい言うて作ったもんで、儲かったもんは、・・・ねえ」
茂平のミカンはその代表作物だったような気がする。

 

 

 

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行

蜜柑


I 江戸時代
紀州蜜柑といえば、紀州から嵐のなかの荒海を運んだ蜜柑で大儲けした、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船の話が有名であるが、
これについては明らかな史料が存在しない。
むしろ元禄期に幕府の特権商人として成功し、材木調達で巨富を得た紀伊国屋文左衛門の出世談として付加されたもの。
これは文左衛門の豪放な性格から生まれた逸話で、紀伊国屋という屋号と紀州蜜柑とが結びつけられて、二世為永春水の『黄金水大尽盃』という小説に仕立てられたために、蜜柑船のイメージが定着したとされている。

もともと江戸初期において蜜柑は、上流武家の贈答品として用いられたものであった。
それが江戸市中に大量に出回り、大衆化して”蜜柑プーム"が起こるのが元禄期頃で、その後に地方都市へも普及していったことが明らかにされている。
とくに蜜柑は、気候などの関係で産地や季節が限定され、
遠隔地からの大量輸送が普及の前提となるため、初めは高級食品として上層社会の一部で楽しまれたに過ぎない。
しかし輸送のルートやシステムが整えられると、生産量や流通量も増え、価格も低く抑えられるようになり、
蜜柑は廉価な大衆食品となっていった。


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

国際的な蜜柑栽培


日本の蜜柑を代表するものが温州蜜柑で、現在、蜜柑といえば温州蜜柑を指している。
江戸初期に浙江省から伝来して、九州で栽培された蜜柑の一種があった。
それの突然変異した実生 から、温州蜜柑が発生したと思われる。
九州地方では温州蜜柑を仲島蜜柑と呼んでいる。
明治以降になると、温州蜜柑は全国各地でつくられるようになった。

アングロアメリカでは、温州蜜柑をテレビオレンジともいっている。
手軽に手で果皮を剥くことができ、テレビを見ながら食べられることからその愛称が付いた。

明治になってこれまで九州のみでつくられていた温州蜜柑が、愛媛県をはじめ各地で栽培されるようになった。
そして東京神田市場に初出荷されたのは明治14年(1881)のことであった。
愛媛県北宇和郡立間村(現吉田町)でこれまで主な商品作物であった生薑の生産が行き詰まったことから、 
明治7年(1874)、温州蜜柑の栽培に踏み切った。
現在この町はわが国でも有数の蜜柑産地になっており、
国東半島(大分県)まで船を使って蜜柑の出作りをしていることで知られている。

 

「日本の風土食探訪」  市川健夫  白水社  2003年発行

八朔と伊予柑

八朔や伊予柑は柑橘類であっても、蜜柑の仲間でもなく、またオレンジやレモンの系統にも属していない。
そこで雑柑の中に入れられている。

万延元年(1860)、備後国御調郡田熊村(現広島県因島市)の寺の住職が、ゴミ捨て場に自生している八朔を見つけた。
旧暦の八月朔日のころになると食べられることから、その名がついたといわれている。
八朔は夏蜜柑やネーブルよりも耐寒性が強く、温州蜜柑に次いでいる。
また病害虫にも強い。 
一般 に柑橘類の収穫は秋であるが、八朔は夏が旬になるなどの利点をもっている。 
八朔の年間生産量18万トンのうち、半分を和歌山県が占めている。
そのほか愛媛・熊本・徳島・広島の諸県がこれに次いでいる。

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行  


わが国の果樹栽培

わが国の果樹栽培を見ると、古代から大正時代まで第一の果物は柿で、北海道と沖縄県を除いて、全国各地でつくられていた。
それが明治の殖産興業政策の一環として取り上げられた萃果(西洋リン ゴ)が、大正9年(1920)頃から伸びて、第二次大戦後には筆頭の果物になった。
しかし昭和35年、蜜柑が萃果を追い越した。 
それまで100万トンを越えていた萃果の生産は90万トン台と停滞しているのに、蜜柑はその後も伸びて、昭和54年(1979)には362万トンにも達した。

国連のFAO(食糧農業機構)の統計をみると、蜜柑はオレンジとして取り扱われている。
世界のオレンジ生産は4662万トンで、ブラジルが第一位で1076万トン、アメリカが第二位で1015万トン、日本が第三位であった。
1992年、世界におけるオレンジ生産は大幅にふえて、6551万トンになった。
日本の生産は半減して159万トン(全世界の2.4%となり、第10位に下がった。
これはバナナ、グレープフルーツやオレンジの輸入が自由化され、大
規模経営の外国産との競合が厳しくなったからである。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

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姫井繁次

2024年04月17日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市茶屋町

 

今では信じられないだろうが、
家で飲む水も、工場で使う水も、昭和30年代は井戸水を使っていた。

ところが井戸を掘っても、水量が少ない地域や、塩分が多くて飲めない地域も多くあった。
水汲み仕事は大変だが、
塩分の多い地域は、それに加え水を溜める仕事があった。


都窪郡茶屋町は児島湾の新田で、塩辛い水しか湧かなかった。

姫井繁次町長は
水道を敷設すること、
高梁川の水をつかうこと、
それを大正時代に提唱し、実現させた町長さん。

英明な町長だと思う。

 

・・・

記念碑


本町は元来干拓地で適当な飲料水がないため町民は砂ごしの川水 天水を用い
後には井戸を掘ったり担い水を買いなどして飲料としたが飲料水確保の根本的な解決とならず、
伝染病やジストマ患者が続出し町民の日常生活の不安は年とともに深刻になったのである

大正中期姫井繁次氏はこの情勢に鑑み、町長に就任 上水道敷設を提唱
水道常務委員会を組織して委員諸氏ともに日夜その実現に奔走し
早島町と提携 水源を高梁川に求め上郷六か町村の協力を得て準備十年 
昭和五年一月起工四十数万円の巨費を投じ翌年十月工事を完了したのである

その後歴代関係者は熱心に維持管理に努力し中途倉敷市早島町とともに備南上水道配水組合を作り 
これより町上水道事業は独立して来たが需要の増加と施設の老朽化のため既設送配水管の整備改良を企画して 
昭和三十三年一月着工総工費七千数百万円を投じ 
昭和三十七年秋待望の大工事を完成したのである。
ここに本町上水道敷設三十周年迎えるに当り 記念碑を建て功労者各位に感謝の意を表する次第である

昭和三十七年十一月二八日 茶屋町

・・・

訪問日・2012.2.17

 

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2024年の桜・総集編

2024年04月13日 | 令和元年~

今年の桜は、開花が一時停滞したので長期間に渡って花見が楽しめた。
およそ100ヶ所の桜を、記録と備忘のため編集しページにした。

 

2024年の花見・総集編    作成日2024.4.13 (kasaoka.sub.jp)

 

(笠岡市「十一番町緑道公園」の桜)

 

 

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福山城の桜

2024年04月11日 | 令和元年~

行った日・2024年4月10日
場所・広島県福山市

 

天気に誘われて、福山と笠岡の桜を観て回った。
そのうち広島県の桜名所である「福山城」は特にきれいだった。

 

 

桜はやはり、天気が必要だなと思った。

 

 

 


福山市を代表する高層建築物。
左から「アイネス福山」「アルファゲートタワー」「福山城」、
いちばん高い建築物は?

 

・・・「アイネス福山」のようだ。高さ101m。

 

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桜渓塾跡の桜

2024年04月08日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県井原市芳井町簗瀬「桜渓塾跡公園」
訪問日・2024年4月7日


嘉永6年(1853年)に創立された、「興譲館」は、現在
全国屈指の歴史を誇る高校であり、女子マラソンの強豪としても知られている。
初代館長となった漢学者の阪谷朗廬は、それ以前、ここ”桜渓塾”で塾長を行っていた、

 

 

桜渓塾(おうけいじゅく)

嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年、岳父山成直蔵の協力によって簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、
青少年の人材育成のため大いに尽くしました。
桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。

嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。
朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。
その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出しました。
大正2年(1913)、桜渓遺跡保存会によって記念碑建立、草廬補修、園庭植樹が行われ、
以後桜渓塾は興譲館館祖が初めて塾を開いた記念の地として保存されています。

井原市指定重要文化財
指定年月 平成17年3月
井原市教育委員会

 

 

 

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