徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

もう一度、駄目なものは駄目と言う時

2015-09-03 22:40:03 | News
普段「デモ(ンストレーション)」と「抗議」という言葉は意識的に使い分けている。
"主人"のある首相官邸前の行動はあくまでも「抗議」であり、夜間や休日は"無人"の建物でしかない国会議事堂前での行動は基本的に「デモ」である。基本的にというのは、例えば深夜まで続いた特定秘密保護法対する行動は、同時並行的に参院で審議、採決が強行されていたので、これは「抗議」である。
先月30日の国会から霞が関一帯で10万人以上の参加者を集めた安保法制反対の行動は正しくデモンストレーションらしいデモになった。
デモンストレーションなのだから、何はともあれとにかく人数である。
そしてインパクトのある「絵」を作らなければならない。そのためには車道を開放させること、雨天という悪条件の中でも参加をサポートし続けること、インパクトのある「絵」を演出することが大事になる。3.11以降、共に行動し続けてきた人たちは給水所や緊急的な"救護所"を設置し、<安倍やめろ exFCK ABE>のバルーンつきの横断幕を国会議事堂の目の前に高く上げた。その経緯や顛末は@onoyasumaroさんのまとめを読んで頂きたい。

【0830国会前給水所】
この夏の宿題として黒白のバルーンあがる国会の前-BLACK RAINBOWへのオマージュ

主催による運営以外にも自主的な給水所活動、巨大ダンマクの掲示など、これらのセキュリティと行動への情熱も今回の大規模行動を支えていたのは明らかだ。
開放された国会前の車道エリアでは至る所で出力の小さなトラメガからバラバラなコールが起こっていた。先頭付近のSEALDsのトラメガも実に控えめな出力だった。それが意図的だったのかどうかはわからないが、参加者の能動的なコールを促すという意味では、悪天候の状況の中でもいい「場」ができていた。それでもコールの基調になっていたのは「安倍やめろ!」である。
17時ぴったりに警備は車道から参加者の排除を始め、オレも地元へ帰った。デモの目的はすでに充分に果たされたのだから、それでいいのである。

3.11以降のデモや抗議への典型的ないちゃもんではあるけれども、今回も参加人数に関する議論が無駄に、延々と続いている。
参加者人数は正確には把握できない。参加者は個人参加者が中心に集まった"メインステージ"である国会前に一極集中したわけではなく、霞ヶ関の辻、日比谷公園周辺に広がり、それぞれ参加団体が街宣を行い数多くの聴衆――参加者を集めたのだから正確な数字というのは誰にもわからない。わからないし、参加者の状況もそれぞれ違うのだから、例えば国会前の車道開放の状況にもいろんな"説"が出てくる。大規模行動の記憶は人それぞれとしか言いようがなので、まあそのどれもが正しいのだろうし、本当に何がきっかけなのかはわからないが。10万人単位の参加者というのはそういうことである。しかし警察情報(3万人程度)で数字を抑えたい産経新聞などは国会前の航空写真を基に参加者数のブロックを描き数字を割り出そうとして、むしろ10万人以上の参加者を自ら証明してしまうという醜態を晒した。
国会前の車道を埋め尽くし、霞ヶ関周辺にまで広範囲に集会や抗議の輪は広がっていたのは事実で、安倍政権に対する反対の世論を可視化した歴史的な写真が全世界に拡散されたのも事実である。

話は変わる。
30日の大規模デモ後に清義明さんがSEALDsを巡る思想的背景を分析した記事を書いた。

国会議事堂前の「敗北主義」-最後に笑うものが最もよく笑う・・戦後左翼史のなかの市民ナショナリズム

タイトルは清さんらしく挑発的なのだが、行動に対する単純な批判というわけでは勿論ない。
SEALDsは「選書」なる書店企画を展開しているのだが、その中で「丸山眞男セレクション」が選ばれている。ずる賢い大人ならその辺は適当に誤魔化すものだと思うのだが、賢く真面目な彼らは「丸山眞男」というキーワードを与えてしまう。清さんならそれを突破口に書くだろうと思った。
とはいえ基本的には、戦後左翼史を辿りながら、頭の悪いネトウヨがデモや抗議に対して意味もわからずぶつける「反安倍=極左」というイージーなレッテルを丁寧に剥がしていく内容にもなっているのだが、結果的に清さんはSEALDsに新しいレッテルを貼ることになる。思想の背景を分析しているのだからレッテルを貼るのは当然のことで、ネトウヨが呪文のように言うレッテルも悪いことばかりではない。それを剥がすのか、引き受けるのかは彼らのやることだ。
とはいえ清さんがよく書く「別個に進んで同時に撃て!」はまったく正しいので、それぞれがやれることを今いる場所からやればいいのである。

ただ、その中にこういう記述がある。

<さらに、これらの反原発から、途中に秘密保護法反対と、現在の安保法制反対に至る潮流を「新しいムーブメント」という人もいます。これはある意味で当たっていますが、基本的にはハズレです。>

その後「ハズレ」に関する記述はないのだが、その「ハズレ」と言われている「潮流」の中にいるひとりがオレである。確かに思想史的位置づけの中で「新しい」とは思わないけれども、3.11以降の行動は「3.11以降」としか言いようのない「状況」の中から行動原理は生まれているので、アタリもハズレもないのである。あえて言えば、SEALDsに対しても言及されているように、「3.11以降」の"群れ"はベ平連的ではある。
そして昨夜のDOMMUNEで園子温はSEALDs以前の、この「3.11以降」の行動をぼんやりとdisったわけだが、もう、それは「見えていなかった」もしくは「見たくなかった」と言っているように聞えた。3.11以降の行動の核となったのはイデオロギーではなく、シングルイシュー(ワンイシュー)と当事者性の徹底だった。園子温が反原発での官邸前抗議で「党派性」を嗅ぎ取ってしまったというのは、それが自らの前衛趣味、偏屈な党派性の写し鏡ではなかったのか。そしておっさんは若者ほどおっさんに優しくない。
シングルイシューの徹底とは何か。

「駄目なものは駄目」という有名な言葉がある。
旧社会党の土井たか子が90年前後のマドンナ旋風時に繰り返し叫んだ言葉だ。この土井たか子の言葉は社会党を文字通り復活させ、結果的に55年体制に楔を打ち込んだのだが、その後「駄目なものは駄目」を信じ切れずに、貫き通すことができず、「政局」に絡め取られてしまった社会党が壊滅的な状況に陥ったのはご存知の通りである。

<そのように考えるとき、私はこれからの国会での反対党のありかたのなかで、妥協のない反対を貫く場面をいま以上に増やすことが必要ではないかと思うのです。もちろん問題によって対応は違いますが、国会での野党の一見強硬な姿勢が結局は政府・自民党の「野党のカオを立てた」僅かばかりの譲歩を引き出しただけに終わるといったことはできるだけ避けようということであります。駄目なものは駄目なのであって、少々の手直し程度で引き下がるわけにはいかないという、分かりやすい態度をとろうというのです。いわばこれは、「反対党らしい反対党への復帰」であります。>
土井たか子 1988年6月27日北海道斜里郡斜里町での記者会見/特定非営利活動法人労働者運動資料室 文献資料より

シングルイシューはイデオロギーや特定の政党を超えなければならないものだけれども、行動のファーストインパクトとして、この「駄目なものは駄目」に似た行動原理があることは確かだろう。
そしてまた3.11以降の行動は生存権を巡る戦いでもある。生存権といえば2009年前後の派遣村問題で湯浅誠が繰り返し語っていた言葉(憲法25条)だが、原発、差別、秘密保護法、安保法制に対するオレたちの行動もまた生存権を巡る戦いなのだから当然言葉や姿勢は厳しく、激しくなる。
だから、やはり、まず「駄目なものは駄目」なのだ。「奴ら」に言うことを聞かせるためにも。

今月20日は土井たか子の命日である。

何が大事なことなのか

2015-08-23 16:24:58 | News
抗議行動なんて、言いたいことははっきりしているんだから、集会なんて面倒くないすか。コールだけで押し切った方が迫力出ないすか?
どんな言葉で、何を話すかではなく(勿論それはそれで大事なことなのだけれども)、どれだけ抗議の声をデカく、長く出し続けるか。
正直なところ、オレは今でもそう思っている。

賢い若者たちであるシールズの凄いところは、おっさん連中が面倒がって手を付けなかった「抗議集会」をスマートに、そして丁寧に見せ、やり切っているところにある。
いちゃもんに負けることなく、雪だるま式に彼らの元には著名なスピーカーが集まっていく。

しかし、やはり集会やスピーチの間隙を突いて野暮やバカがやってくる。
今そこで行われている抗議よりも、もっと大事ものがあるような顔をして。

怒りの主体として

2015-08-10 17:00:00 | News
2011年、怒らない理由はどこにもなかった。
誰かの代弁ではなく、ひとりひとりが皆、怒りの主体として歩いた。
例えば闘いの踊りのように、ドラムとビートさえあれば良かったのだった。ストイックでプリミティブで、そしてダイレクトな行動と意思表示、それがTwitNoNukesだったのだと思う。
ストイックでプリミティブだったのは理由がある。
怒り方に注文をつける奴がいた。また他人の怒りを疑う奴がいた。デモそのものに偏見を持つ奴がまだいた。また手段であるはずのデモが目的でレジャーだった運動マニアがいた。「集団で声を出して歩くこと」が楽しそうに見えてしまう変態がいた。
2011年、デモがストイックでプリミティブであることは必然だったけれども、そんな変態たちを寄せ付けないためにオレたちは怒りの純度を上げ続けた。
だからあの時点でサウンドカーは必要なかったのだ。
どこの誰であろうが、それが何者であろうが関係ない。徹底したシングルイシューは誤解と反発を呼んだわけだが、だから何だというのだ。面白デモを企画した連中はいくらでもいたが、生き残ったのはTwitNoNukesだったのは間違いない。デモの運営有志や参加者がその後どのように活動を続け、あの経験から思考と手段を現在の活動に展開しているか。
その年の秋、運営有志は「デモのやり方」を記した薄い本を一冊だけ刊行した。

TwitNoNukesのやり方は決してとても実務的ではあったけれども、それほど戦略的ではなかった。それ故に、なのかどうかはわからないけれども、TwitNoNukes以降、デモの参加者の活動は戦略的であることに実に自覚的だと思うのである。
それもこれもTwitNoNukesというベースラインがあったからだろう。

放っておいたらいくらでも冷淡になるクールジャパンにおいて、今でもオレは「熱さ」は一番価値があると思っている。
「熱さ」は最高の評価である。
デモや抗議で「頭数になる」ことは大事だと思うけれども、オレはやはり「その感情を声を出さなければ意味がない」と思っている。皆が口に出せる平易なわかりやすい言葉で、同じリズムで、ずっと声を上げ続けることが大事だと思っている。その時、言葉は力を持ち、頭数は本当の意味で「頭数」として透明な、誰でもない存在になる。

例えば2011年以降の一連の行動は「路上で大きな声を出すための試み」だった。
現在のシールズや高校生デモと比較すれば若干遅めだったかもしれないが、ハイピッチのショートコールのみのシュプレヒコールは一人ひとりが最も声が出しやすいスタイルだった。先導車のトラメガだけが目立つクラシカルなシュプレヒコールにはやはり何の意味もない。
若干こじつけ気味に言うならば、その発展型が路上の野次だ。カウンター行動でも大久保公園包囲などの局面ではショートコールが使われたが、基本は「一人ひとりの野次と罵声」である。一人ひとりが路上で反対の声を上げ、「敵」に直接ぶつけること。その路上カウンターのクライマックスのひとつがアルタ裏での直接抗議であっただろう。一人ひとりが当事者となって、数十人か、数百人か、数千人か、それとも数万人かの人間かはそうやって個人が能動的に路上で声を上げることを実践してきた。

TwitNoNukesという行動は、今や首都圏反原発連合の中に息づき、シールズや高校生たちに隠れてほとんど存在すら語られない。
しかし2011年から約1年間だけ「怒りの主体」として現れた運動のオルタナティブとして記憶は残しておくべきだと思うのである。


…ということを「United In Anger」のレビューと併せて書こうと思っていたのだが、またそれは今度、である。

路上の「とりま」

2015-08-04 12:58:27 | News
2日、渋谷で高校生主催による安保法案反対デモが行われた。シールズへの嫌がらせ工作を始めている「賛成派」の問題を含めて、このデモの裏を陰謀論的に勘繰る連中が相変わらずいることに憤りを覚える(しかもその輩の多くが恥知らずな「大人」だ)。
それはとりあえず、まあ稿を改めるとして。

このデモで掲げられた「とりま」はプラカ的には衝撃的なぐらい意味不明だったのだが(ニュアンスで大体の意味はわかるけど)、おっさんであるオレ自身絶対使わないであろう言葉が路上に溢れ出たという意味で衝撃的かつ歴史的デモであります。
思えばシールズの子たちは大学生なりに真面目で、フォーマットに沿って伝えようという姿勢があると思うのだが、この高校生たちはまず同世代に伝わる言葉で状況を突破しようとしている。
それがパンク的でいいのだと思うし、この数ヶ月の動きが腑に落ちた。

<とりまとは、「とりあえず、まあ」の略。【年代】2006年 【種類】コギャル語、略語、ネットスラング>
日本語俗語辞書「とりま」

これ「大人がイラつくゆとり用語」らしいのだが、子供たちが使うのならともかく、お調子者のおっさんが使ってたら確実にイラつきます。

戦争ごっこはなぜ嫌われるのか/安倍政権NO!☆首相官邸包囲7.24

2015-07-26 15:08:40 | News

金曜日は安倍政権NO!☆首相官邸包囲に参加。ネット上でも当日の過剰警備や、「賛成派」としてメディアでも紹介され、在特会やヘイトデモ関係者との関係も濃い政治団体「頑張れ日本」の妨害行為が問題になっている。
それはまた稿を改めるとして、今話題になっているのは官邸前・国会前の現場での極左・ヘサヨ排除である。
簡単に言ってしまえば、まだこの国の民主主義は「手段としての殺人を容認する集団」を容認しない。

最近再び話題の酒鬼薔薇事件が起きた頃、子供たちの「なぜ人を殺してはいけないか」という質問に大人はどう答えるのかがちょっとしたメディアのテーマになっていたことがある。
深遠な回答から感情的な回答まで様々な回答が紹介されていた記憶がある。勿論殺人そのものが人間関係の破綻ではあるのだけれども、その後、殺人者が味わうのは人間関係の集積地である社会からの排除である。最終的に殺人という形でしか人間関係を築けなかった人間に対して社会と個人は容易に関係を結ばない。いざとなったら殺しちゃうような人間では危なっかしくて関係を持とうなど、なかなか思わないだろう。
殺人に限らず、トラブルの多くはイージーな関係性の中で起こる。だからといって田舎の濃厚な関係性の中でも陰惨な事件は起こるのだから、「イージー」というのは関係の距離や重さを測っているのではなく強さを測っている。要するに簡単に言ってしまえば時間や場所に依らない信頼である。
この4年間、路上で多くの信頼に足る人たちに出会ってきた。オレが音楽家だったらDJ TASAKAのようにCDを作りたいと思うだろうし、カメラマンならろでぃのような写真を撮りたいと思うし、bc君や斧君のようなデザイナーならプラカードやTシャツを作っただろう。彼らは「強い関係性」の中から自分たちの表現を生み出している。そしてその表現がまた今の路上の運動で共有されている。まさにコール&レスポンスである。

話を戻す。
同じ場所に存在しているからといって、また同じ時間を共有しているからといって、それだけが「関係」を示すものではない。場合によっては殺人も厭わないと公言する(また公言するのが実に頭が悪いのだが)、中核派及びヘサヨを含むそのシンパが路上の運動の場から排除されるのは当然のことだ。関係の破綻を殺人という形で実行する、しかねない、そのことを否定しない連中とどうやって関係を持てというのだ。いくら抗議しても官邸前、国会前周辺でビラ配りを止めず、不必要なほど巨大な団体旗を掲げで運動にただ乗りしようとする極左はもはやストーカーであり、はっきりと妨害者になっている。
ストーカーに対してしなければならないことは、自分たちとは「関係がない関係」である事実と意志をきっちり突きつけることである。つまり排除しかない。

個人の諍いならともかく、オレたちの行動に勝ち負けという価値観は相応しくない。なぜなら「問題」はひとつの答えや行動で解消するわけもなく、おそらく生きている限りつきまとい続けるのだから。
解決とは勝ち負けのことではない。妄執のように目先の勝ち負けにこだわるのはネトウヨの習い性だが、そんなものに乗る必要はない。

現政権との戦いは確かに「倒すか倒されるか」なのかもしれないが、こちらはそう簡単に倒されるわけにはいかない。なぜならそれでもオレたちは生きていかなければならないからだ。
中核派の女がテレビで言うように「倒すか倒されるか」ではなく、「倒したり倒されたり」する戦いがずっと続くのだ。
すっと続く以上、無駄な乾坤一擲や勇ましいだけの決戦を叫ぶ輩は、やっぱりお引き取り願うしかない。

安倍政権が「手段としての殺人」を容認しようとしている今、イージーな戦争ごっこはお断りだ。

「居場所」と男組について

2015-07-19 14:04:39 | News
居場所系というのは、端的に書いてしまえば手段の目的化を指す。
何らかの活動を続けていれば顔見知りが増えてくるし、普段接点がなくても、顔を合わせなくたって本当に信頼が置ける人間もそれなりに増えてくる。
「現場」で顔を合わせれば食事や飲みに行くこともあるだろう。懇親という意味もあるだろうし、情報交換という意味もあるだろう。
中には行動が目的なのか、その後の飲み会が目的なのかわからないような奴もいる。これも手段の目的化のひとつだと言える。

男組の凄かったところは「手段の目的化」どころか、あまりにも頻繁に飲みに行くため、いつしかカウンターの後に飲みに行くというよりも、飲み仲間が連れ立ってカウンターへ行くというような雰囲気さえあったのではないかと思う。しかもかなり初期からである。
オレたちはカウンターであると同時に飲み仲間だった。

これは見る人が見ればかなり不真面目である。しかし本人たちは至って真剣なのだから仕方がない。
飲み会のために「現場」があるのではない。「現場」のために飲み会があったのだ。
居場所系を突き抜けたところにオレたちはいた。だから男組は強かったし、優しかったのだ。

最近童貞野郎が寂しいことを書いていやがったので、ふとそう思った。

もう一度、BLEND is beautiful/戦争法案国会前抗議(7.18)

2015-07-19 01:15:54 | News


現場にいるからこそ見えてくるものは多い…なんてことを今更書くのも恥ずかしくなるほど当たり前のことなのだが、それを忘れたり、時間がなくて見過ごしてしまうことは少なくない。楽チンな方がいい、何てったって人間は怠惰である。

例えばスタジアムへ行く。ピッチ上で繰り広げられるゲームは勿論、スタンドの反応、息づかい、声援と野次、スタジアムで渦巻く膨大な「情報」をテレビカメラは決して捉えきれない。中継は伝えきれない。
中継は視聴者を扇情し、感情をブーストさせる。嫉妬、悪罵、そして憎悪、ネガティブな感情が噴出する。それはニコ生のコメントや2ちゃんねるの実況板を見ると実感できる。
そしてきっとSNSの空間でも同じことが繰り返されている。
現場には行くべきだ。そしてそこで考えるべきだとつくづく思ったわけだ。

安倍政権の安保法案強行採決に対する抗議行動に参加するために、遅まきながら金曜日は国会前に向かった。久々の「現場」である。
そしてSEALDs(シールズ)の「現場」に参加した。そこでわかってしまった。
何がわかったかって、「もう同じことをする必要はない」ということである。

現場では高橋若木さんと少し立ち話をした。主催に近い若木さんに「やはり英語のコールはどうかと思う」と話しかけた。コーラー周辺の爆心地はともかく、明らかに特定のコールでテンションは下がる。確かにコールのループを2、3回聞けばわかる程度の英語だとは思うが、オレはわかる/わからない以前に、伝える/伝わる方が大事なことだと思うのだ。
チャントの多くがポルトガル語のエスパルスサポが何言ってんだとは思うが、2000年代のエスパルスのゴール裏の改革は「日本語のチャントの増加」だったのだから、伝える/伝わる=容易に歌える、口づさめることはオレにとっては大事なことなのだ。

若木さんは苦笑しながら「確かにおじさんおばさんの中にはついて行けていない人もいる」とした上で、「でも彼らは外に向かっている」というような言葉を返してきた。
つまり「発信力」ということだろう。

若さというのは何はともあれ可能性だけはあるということで、可能性があるということは変化(成長)するということだろう。良くも悪くも変化するのだから、最も価値があるのは可能性を秘めた「今」である。だからこそ「若者」というのはキャッチーで、メジャーで、赤丸急上昇なのだ。
注目度は高い。道すがらに耳に入る若者の話でも同世代への波及も凄いものがあるのだろう。
彼らの行動は秘密保護法反対から始まっているわけだが、選挙権の18歳への引き下げが決まった直後に一気に注目を集めている「若者の行動」に安倍政権が警戒するのもまた当然だろう。これまでの票読みでは計算できない「可能性」が生まれてしまったのだ(当然すでに選挙権を得ている20代の「若者」への影響も考えられる)。
彼らは彼らにしかできない「今」で安倍政権を突いている。
もうこの流れは止まらないし、オレたちおっさん連中も守っていくべきだと思うのだ。

そして、だからこそ「同じことをする必要はない」と思ったわけだ(できるわけもないが)。問題はいつだって自分が何をするかに関わっている。それが世代を越えた、重層的で広がりのある行動に繋がっていく。

今日、喫煙所で煙草を吸っていたら、鏡に映った自分が着ていたteeにいい言葉が書いてあった。
「BLEND is beautiful」
去年随分見て、考えた言葉だけれども、結局大事なのはこういうことさ。
今週24日の大行動はそんな気持ちで参加したいし、多くの人に行動して欲しいと思う。

<安倍政権NO! ☆ 0724 首相官邸包囲 ー民主主義を取り戻せ!戦争させるな!>
2015年7月24日(金)
18:30~日比谷野音集会
19:00~首相官邸包囲 
主催:安倍政権NO! ☆ 実行委員会

最初はtwitnonukesと絡めて書くつもりだったのだけれども長くなりそうなので、それはまた稿を改める。

戦う君をひとりにしないために/男組解散について

2015-04-01 00:56:23 | News
差別を考えるということはどうしたって自分自身と向き合わなければならないということである。
例えばそれは原発の問題のような「経済の問題」というよりも、「関係の問題」といえる(いや、勿論社会問題というのは大きな意味で関係の問題でもあるわけなんだが)。関係の問題なんだから、これは個人の問題にならざるを得ない。更に言えば、だからこそ「正義フォビア」のような問題が起こる。差別を語るとき、それは自分自身を問われるのだから多くの人たちは無意識のうちにバランスを取ろうとする。無自覚であればあるほど、差別を語ることは恐怖に違いない。それならば差別を語ること=正義を語ることに対して苦笑いで棚上げにしてしまえば話は早い。こうして正義フォビアは、所謂「どっちもどっち」論に形を変え、差別を語ることを避ける人たちの安全地帯となる。ひとまずではあるけれども。
だから差別と戦う人は孤独だった。オレたちの「敵」は、またオレたちと変わらない個人であり隣人なのだから、差別というアンフェアな「関係」を問い続ける戦いは孤独なものになる。だからこそ男組はその解散宣言で「戦う人をひとりにしなかった」と謳ったのだ。結果的に戦闘的な姿勢や派手な経歴ばかりが強調されがちになってしまったが(まあ、それはそれで「ヒール上等」で望むところではあったのだが)、男組の存在意義はまずそこにあった。

2013年6月29日に初めて柏木公園に集合したとき、高橋直輝と木本拓史の姿を見たときに「これは成功する」と確信したことを今でも思い出す。高橋は見た目はコワモテそのものだが、男組に何度危機が訪れようと実に楽天的で、リーダーとして人間を惹きつける魅力のある男だった。木本はこんなに人当たりが柔らかくて優しい男もいないと思った反面、現場ではこんなに怖い男もいない。そしてふたりとも酒はあまり強くない。
高橋はその後も、もう手当たり次第としか言いようのないペースで現場やネットで参加者に声を掛け続けた。普通のサラリーマンもフリーランスもエリートビジネスマンも学者もバカも集まった。
男組最後のミーティング後の飲み会で、ある参加者は「TDC(TOKYO DEMOCRACY CREW)やC.R.A.C.は、それでもちゃんとした人間の集まりだが、男組は違い過ぎる」と言っていたのだが、まさにその通りだったと思う。
そして、そのちゃんとしなさ加減は差別反対の声を上げる人間のハードルをひたすら下げた。どんな奴でも嫌なものは嫌だと声を上げるべきなのだ。そしてグループであるということは、そういう人間の背中を押してあげるということでもある(勿論バカはバカなので、場合によってはディスカッションという名の説教も少なくなかったのだが)。

勿論副長である石野雅之を始めとした「ちゃんとしている大人」もいたから男組は成り立っていたのだが、組織内に絶えず問題児が現れるのも男組だった。一時期、男組(そして憂国我道会)には「ネトウヨをグループに引き入れて改心させる」という実に困難なミッションがあったのだが、これはほとんど成功しなかった。しかしその一方で「男組がなかったらネトウヨになっていたかもしれないバカ」を食い止めることはできていたのではないかと思う。
この約2年間の活動の中で家庭や仕事の事情で離脱した者、ここではあまり書けないような理由で離脱した者はいたものの、主だったメンバーは最後までそのままグループに残り、最後まで男組としてヘイトデモに対するカウンターの最前線に立ち続けた。
匿名のレイシストと戦うためにはリアルな存在でなければならない。だから男組はリアルであり続けたのだ。

3.11以降の日本、特に東京のアクティヴィストのひとつの出発点で、その後の社会運動の核となったのは、やはりTwitNoNukesであっただろうと思う。ダイレクトでストイックな方法論は実に前衛的だったし、着膨れしたサブカルサヨクをも挑発する形で鮮やかに、そして執拗に、事あるごとに現場に出没し行動を続けてきた。オレ自身、参加者として彼らと行動を共にして、その一部だったという自負はある。2013年2月に野間易通がオーガナイズしたレイシストをしばき隊(C.R.A.C.)は、そのTwitNoNukesの直系とも言えるプロジェクトだったと思うし、勿論TL上で情報は共有していたけれどもなぜか手は挙げなかった。
そして2013年3月31日、新大久保で行われた在特会のヘイトデモに対するカウンター行動が大きな盛り上がりを見せたのは、同じ日に渋谷でTwitNoNukesの“最後”の反原発デモがあったことと無関係ではなかっただろう。
そこで自然な運動の移行が行われたのだと思う。
前年の時点ですでに金曜官邸前行動は大きな成果を上げ、首都圏反原発連合が官邸前や国会前に橋頭堡を築いていたし、さらに2011年12月に新橋駅前で行われた当時の野田佳彦首相へのカウンターでは後に対峙することになるネトウヨとの接触もあった。TwitNoNukesがレイシストへのカウンター行動へ移行していくこと、これはやはり必然だった。
そして2013年から14年にかけて在特会などのレイシストへのカウンターからANTIFAへ、行動の突破口を開いていくC.R.A.C.やTDCが東京、そして日本のアクティヴィストたちをリードする一方で、泥臭く路上でカウンターを続け、“新しい人たち”を勇気づけ、鼓舞し続けた男組の登場もまた必然だったと思う。
2015年3月28日は男組が役割を終えた日ではなく、男組に育てられたひとりのアクティヴィストが、またひとりに戻り、新しい行動を開始する日になればいいと思っているし、きっとそうなるだろうと信じている。

お前のお腹は自己責任

2015-01-25 10:11:43 | News
火曜日。東京アクションが都庁前を急遽中止して行った官邸前での抗議に加わった。
アジアカップを観ていた途中だったし、北風も猛烈に強かったので、安倍バカヤロー、菅コノヤローてな気分で坂を登って行った。
しかし、坂を登りながら考えた。
参加人数が少なかったということもあるけれども、東京アクションの抗議は、安倍への「カウンター」というよりも救出への願いと静かな怒り表明で、最後のコールもやはり「ふたりを救え」だったわけだ。
オーガナイザーののっちさんは後でその行動を自嘲気味に書いていたけれども、抑制された冷静な抗議だったと思う。

今、安倍を糾弾することが果たして有効なのか。いや勿論居ても立っても居られない人もいるだろうし、今回事件の引き金を引いたこと、さらには昨年から続いていたはずの交渉を放置していた安倍や政権は責められてしかるべきだ。
しかし事件に対して、個人ができることなどほぼ無いに等しいとさえ思える。

だから悪い意味で冷静で、暇な連中はネットで遊ぶわけだが、いくら日本人は島国根性丸出しの冷淡で酷薄だからって、さすがに10年前の亡霊でしかない自己責任論を唱える冷笑系、ネトウヨやクソコラ職人のような連中ばかりではないだろう。
ただ事態がどう転び、転がっていくのか、黙って見ている人たちもいる。

今日の夕方から行われる官邸前での抗議、オレはたぶん行けないけれども、今日の抗議は「事態」を指し示すアピールになるだろう。
しかしコールは、安倍を糾弾するのではなく、交渉中であろう政府のケツを蹴っ飛ばし、後藤さんの救出をただ願う言葉であって欲しいと思う。

まあ、同時進行で徐々に痛みが増しているであろう安倍のお腹の件は自己責任ということで。

PANDEMIC~AIDS to EBOLA World AIDS Day Concert/Fight Against Ebola

2014-11-30 04:30:35 | News


「PANDEMIC~AIDS to EBOLA World AIDS Day Concert/Fight Against Ebolaリベリアの子供達を救え」
ワールド・エイズデー・コンサート2014年12月1日
Streaming Live via http://www.shapeshifterlab.com/  http://thesafetychannel.com/ebola

出演:中村照夫ライジングサン・バンド スペシャルゲストマンデーみちる
Rising Sun Band:
Bill Washer (Guitar)
Dave Schnitter (Tenor Sax and Soprano Sax)
Jay Rodriguez (Tenor Sax and Baritone Sax)
Ron Thompson (Keyboards)
Ronnie Burrage (Drums)
DJ Fuso (Synthesizers)
Teruo Nakamura (Bass)
Special Guest
Monday Michiru (Vocal/Flute)

ビデオ・メッセージ:サミュエル・リーブス牧師

<ユニセフによればリベリア、ギニア、シエラレオネ3国では、3700人もの子供達が両親または父母どちらかをエボラで失っており、10月中旬までにその数は2倍になると予想される。行き場のない多くの子供達は汚染された家の中での生活を余儀なくされている。

「助けが必要な人を助けるのは人間として当たり前」中村照夫が常々言う言葉だ。プロデューサー、ジャズベーシストとしてニューヨークの第一線で生きて来た中村が、エボラ・チャリティーを含むワールドエイズデー・コンサートのプロデュースを決心したのもそのためだ。ワールドエイズデーコンサートは12月1日午後7時 ブルックリン、パークスロープの実験的ライブスペース、シェイプシフター・ラボ(18 Whitwell Place, Brooklyn, NY 11215)で開催される。

中村は20年以上に渡り、レッドシューズ・ファウンデーション/JAWS(ジャパニーズ・エイズ・ワークショップシリーズ)を通じてエイズ・アウェアネスやホームレスの赤ちゃん救済などを目的とした数多くのコンサートを日米で開催してきた。その中にはニュージャージ・リバティステートパークでの10万人規模のコンサートも含まれる。

そして今回のイベントの大きなきっかけになったのは、「セーフティ・チャンネル」の創立者ヨベット・マーキーとの出会いだった。ヨベットの親友で緊急救命室で働いていた医師はエイズで亡くなった。注射の際に患者が暴れたために、汚染された注射針が刺さり感染したのである。その衝撃は大きく、彼女はその後、注射した直後に針を覆い医療従事者を守る注射針、セーフティ・ティップの発明に至る。それが車から伝染病までのあらゆる「安全」にかかわる情報を集積した、テレビチャンネルの設立につながった。
エイズ・チャリティのイベントから、当時大きな問題になり始めていたエボラの犠牲者のために何かできないか?という会話に発展する。アフリカ3国などで既に4500名以上の死者を出しているエボラは、エイズ同様世界での広域感染の恐れさえ出て来ている。「両方とも、十分な医療や生活基盤が整わないアフリカから広がった病気だ。」中村は語る。「自分はジャズで生きて来た人間。そのジャズのルーツはアフリカにある。そして彼らに教わったのは、音楽がコミュニケーション・ツールだということだ。」

さらに中村はヨベットを通じ、エボラが最も大きな問題になっている国の一つ、リベリアの首都モンロビアにあるプロビデンス・バプティスト・チャーチの主任牧師、サミュエル・リーブスに会う。教会と付属のメディカルセンターはリベリア政府と共にエボラの感染を全力で防ごうとしている。またエボラで両親を失った子供達のための施設作りも急がれており、リーブス牧師は現在アメリカ各地の教会をまわり、資金集めに奔走している。

エイズはもちろんだが、エボラはさらに緊急を要する。そう決断した中村とヨベットは12月1日のワールドエイズデーに、エボラのために危機に家族を失い肉体的精神的にも傷ついた子供たちのために、リーブス牧師の資金集めに協力するイベントを開催することを決心する。集めた資金は教会とメディカルセンターに送られ、医療機器や薬品、飲料水、子供達の施設に使われる。「資金集めだけでなく、子供達の身に何が起こっているのかをできるだけ多くの人に知らせたい。」3児の母であるヨベットはそう語る。

中村の呼びかけで、エイズ・アウェアネス・コンサートを支えて来たビル・ワッシャー、ジェイ・ロドリゲス、ロニー・バラージら実力派のミュージシャンたちが再び集まってきた。シンガーでフルートのマンデーみちるもスペシャル・ゲストとして参加する。「友人でもあるジャズラジオステーション、WBGOのトップ・パーソナリティ、ロブ・クロッカーは司会で、JAWSで長年つきあってくれた武藤芳治さんも力を貸してくれている。 そしてシェイプシフター・ラボという素晴らしいベニューがイベントの主旨に強く共感し協力を申し出てくれた。彼らの最大の武器であるライブ・ストリーミング・システムにより、世界中の人々にもライブの模様が生中継されることになる。」

中村は多くの人にエボラの現状を知らせ、偏見と無知に挑戦することが、世界的な伝染病と戦う力になると信じている。>
(以上プレスリリース)

白票が意味を持つとき

2014-11-30 03:14:34 | News
<選挙での「白票」を「社会を変える力がある」とミスリードする謎の集団「日本未来ネットワーク」のサイトが突如出現>

日本未来ネットワークの正体が何者なのかはわからない。憶測はいくらでも立てられるけれども、よくわからない。
しかし、この状況での能動的な白票はまったく自己満足的な行動であることははっきりしている。そんなものは馬券初心者が超穴馬券を買って高見の見物を決め込むようなもので、胴元が喜ぶだけの話である。
また白票行動を主張する方々に、本当に「変えたい社会(民主主義)」があるとするのならば、それはやはり、どうしたって明確な意志表示なしには変えられないだろう。
「変えたい」のならば、少しでも「変わる方向」を選択すべきだ。

勿論、白票が重い意味を持つ「状況」だってあり得る。
それはファシズムが完成した社会だ。
「いま」がその途上であるのならば、政権の仕掛けた選挙にどんな意図や意味があろうとも、オレたちの選択肢に白票などあり得ないだろう。

人的リソースの問題

2014-07-06 23:28:29 | News
抗議やデモに行って、ときどき参加者ではない「普通」の人と話すことがある。
話す、話しかけてくるのだから酒場のカウンターの隣に居合わせて言葉を交わす程度には興味があるのだろうけれども、「結局、ほとんどの人は関心がない」という結論に落ち着くことが少なくない。
現状では原発や解釈改憲の問題は、それを推し進めたい連中と食い止めたい連中の間「だけ」の局地戦だ。
推し進めたい連中は「関心のない人たち」が多ければ多いほど都合がいいし、食い止めたい連中は自分の時間を割きながら関心を拡げようとしている。どう考えたって、「問題」は問題に関心を持つ人の少なさにある。そして皮肉なことに、本来推し進めたい連中がしなければならないはずの「説明責任」を、食い止めたい連中がしなければならない羽目になる。
言葉を費やせば費やすほど、説明に齟齬が生じる。食い止めたいオレたちは「説明」ではなく反対をしたいのだから、当然話はいくぶん「主張」テイストが混じるようになる。フラットな人間にとって、それが「説明」ではなく「主張」に聴こえ始めれば眉をひそめる気持ちもわからなくもない。わけのわからない人間の「主張」よりも、何も「説明」しない政府の方が何となく説得力があるように感じ始める。
もう、これは説明責任における「悪魔の証明」ともいえるジレンマだ。

そして現状ではプロテスターの人的リソースには限りがある。
反原発運動は2011年秋に発足した首都圏反原発連合が官邸前抗議を押し広げ、そのまま反原連が毎週金曜日の官邸前抗議を継続することで一定以上の成果を生んでいる。2013年の反レイシズム運動はレイシストをしばき隊中心ではなく、仲よくしようぜパレード(仲パレ)、差別反対東京大行進を経て、意外にも男組の派生から差別反対東京アクションが生まれ、毎週月曜日の東京都庁前での抗議活動が継続して続けられている。
金曜官邸前抗議、月曜都庁前抗議は、それだけで3.11以降に東京を中心にして起こった一連の社会的抗議行動が単発的な行動ではなく、それぞれが連動し、継続していることを証明するマイルストーンになっている。誰もが路上に出て、大声を張り上げろとは決して思わない。ベースを作り、それを維持、継続することが得意な人はそれを行動の中心に据えればいいのだ。反原発運動も、反レイシズム運動も次のタームに入っている。
しかし人的リソースには限りがある。
まだ見ぬプロテスターにも、その人だからこそできる参加方法があるはずだ。

本当に「敵」はいないのか

2014-07-06 04:14:49 | News
まず3.11以降のやり方に80年代や90年代の社会運動のような、「敵」はいないという発想はない。
そこにはパブリックエネミーの再発見があった。
新宿の焼身自殺未遂のおじさんのように、原発問題でも自ら命を絶ち、原発政策の理不尽を訴えた農家の方がいた。
そこには命を賭して訴えかけたい、言葉として恨み辛みをぶつけ、遺したい「敵」がいるわけだ。
敵の再発見というのは自らの当事者性を発見するということに他ならない。他人の痛みは共有しつつも、そこに自らの居場所=社会を再認識する。社会に所属する以上はほとんど全ての人々は当事者であり、代弁者ではない以上、その怒りや憤りの熱に嘘はない。
オレは参加できなかったけれども、土曜日は新宿でデモがあった。安倍政権への批判が若い世代にも拡がっているという。
オレは「若いから」と言って評価することはないし、そのイシューはそんなに重要ではないだろうと思っているけれども、若い連中が集団的自衛権に対して、当事者として(徴兵制や戦争そのものに対して)猛烈な危機感を持ったというのも、代弁者ではない、嘘のない本物の社会的発言ということだろう。
若さは偶然としか言いようがないが、共に生きる社会の当事者であることは必然である。この時代に、特定の世代が社会にコミットしつつあるということは重要なことだと思う。

「敵」が明確になった3.11以降の反原発運動以降の社会運動は、自分の言葉で、誰かの代弁者ではない自分の怒りを表明するために人々は路上に出た。どうしたって3.11以前(さらに言えば民主党政権以前)の秩序を「取り戻し」たい安倍政権への闘争は必然である。原発で矛盾が噴出し、未来の破綻が見えた3.11以降の日本社会では、やはりこの流れはやはり必然としか言いようがない。
敵ははっきりと見えているのだから。

安倍shineの件。
自分「たち」の言葉の最大公約数がくたばれ=死ねだったってことじゃねえかなあ。その言葉に嘘がなければ何だって構わない。
経済政策面で安倍政権に対する評価を保留するのは理解できなくもないし、安倍がやらかしている原発推進も、あまりにも強引な集団的自衛権(武器輸出・開発)の真意も、結局は銭儲けの以外の何物でもないと思うが、マルチイシューの極北のような、エコノミスト視点でデモ・抗議批判する人が、こんなリスキーな人間に政権を託して大丈夫だと思うのか…。

ちなみに「首相を辞めれば後はどうでもいい」みたいな意見もあるけれども、オレは比喩ではなくて、本気で死んで欲しいと思ってるし、辞めて死んだ後でも墓は荒らされるべきだと思う。当然死んだら祝福するし。
嫁に誤魔化される気は一切ないし。

結局、オレは奴をネトウヨの親玉、御輿だ、ぐらいにしか思ってないんだけどね。

今日から始まる/解釈改憲反対 官邸前抗議(6.30)

2014-07-01 10:41:15 | News


18時を過ぎた頃に国会周辺に到着すると官邸前抗議の列はすでに財務省下の交差点まで延びていた。議事堂前を迂回して反対の歩道をから官邸前に向かう。通常ならば議事堂側の歩道の場合、プロテスターは排除されるのだけれども、すでにその場所でも多くの人々が滞留していた。まずはここで声を上げ始める。
「官邸前」であっても声を上げるポイントは所謂最前列だけではない。全国の自民党支部や公明党に対して抗議が起きているように、官邸前でも、国会周辺でもあらゆる場所で声を上げることが大事だろう。「トラメガの使えないポイント」でも生の声ならば、それだけで警備が制止することはできない。
状況はなし崩しで、時間を追うごとに官邸前のそこここで人の塊が膨らみ始める。一部ここぞとばかりに便乗する極左による扇動はあったものの(赤いハチマキを巻き、ニヤニヤしながら便乗する極左はオレたちに罵倒され、鎮圧された)、自然に「決壊」状態は起こっていた。

3万5000人とも4万人とも言われる、この日の参加者が多いのか、まだ少ないのかはわからない。
しかし昨年の「紫陽花革命」とも言われた反原発官邸前抗議が5月の大飯原発再稼動から、6月末から7月にかけてピークに達したように、安倍政権の暴走による解釈改憲反対行動は、この日から始まる。今日、閣議決定が強行され、そのアナウンスを現場で聞くことになるかもしれないけれども、安倍政権の「解釈改憲」にはこれからも多くのハードルが待ち構えているのだ。
オレたちはそのハードルに対して、レイシストのデモに対するカウンターのように、反対行動を続けるしかない。
去年一年間ネトウヨたちに罵倒をぶつけ、徹底的に凹ませてきたように、ネトウヨの親玉に罵倒を叩きつける。その声は呪詛のように響き続け、安倍のお腹がまた痛くなるまで続くのである。
まったく昨日の行動は在特会の連中にカウンターを仕掛けてきたのと同じような気分になった。絶え間ないコールの合間に、カウンターで出会った仲間に声を掛け、最前列の警官に話しかけ、たまたま現場近くにいた「どっちもどっち」な人と語る。
カウンター(抗議)の現場というのは、声を上げるだけの場所ではない。

今日も17時から官邸前で解釈改憲反対の抗議は続く。
「そこ」にいるだけでも一人ひとりの行動はプロテスターの力になるし、例えどっちもどっちの野次馬的な興味であっても現場から受け取るものは少なくないだろう。
また多くの人々に参加して欲しいと願う。

<7月1日(火)17時30分に、政府が臨時閣議を行うことが決まりました。
この臨時閣議で、集団的自衛権の行使容認について閣議決定を行うものとみられます。
1日にも、複数の団体によって17時から、首相官邸前での抗議行動が呼びかけられています。
TOKYO DEMOCRACY CREWも、急遽この行動に賛同し、30日と同様、無党派一般市民の大結集を呼びかけます!
臨時閣議を強行する安倍政権に、オンタイムでも大音量の抗議の声を叩きつけましょう!>
【呼びかけ】
解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会
戦争をさせない1000人委員会
【賛同】
東京デモクラシーネットワーク
怒りのドラムデモ
東京デモクラシークルー
C.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective)
SASPL 特定秘密保護法に反対する学生有志
Civitas Musashino

Hey Brother 君はどうだい?

2014-04-28 00:34:28 | News



What's Going On/Artists Against Aids Worldwideはよく聞く。レコードもCDも購入した。勿論マーヴィン・ゲイの原曲は好きなのだが、Artists Against Aids Worldwideのリリース直後に9・11同時多発テロが起き、急遽エイズ支援に加え収益が9・11支援にも回ったというエピソードや様々なリミックスにも耐え得る、楽曲の持つ力強さとメッセージの普遍性に惹かれるのだろう。
イラク戦争が起きたときにロッキングオンの雑誌が表紙にでかでかと「What's Going On」と謳ったのが記憶も残っている。
勿論マーヴィン・ゲイのこの楽曲をイメージしたメッセージだろう。しかし、そのときは「ふーん」と思った。
ふーん、である。
ロキノンが気に喰わないという意味ではない、と思う。
正直言ってイラク戦争云々というよりも、メッセージの普遍性というよりも、そこにある種の他人事に似たメディアのあざとさを感じてしまったのだった。

3・11直後に、しばらく音楽を聴けなくなってしまった人は少なくないと思う。オレもその一人だった。東北の被災者のように物理的に聴けない、という意味ではなく、現実の重さに音楽が耐えられるかという意味である(一ヶ月間は常に余震が起き続けていたこともあるけれども)。震災という出来事は深刻な原発事故というもうひとつの現実を作り出した。これもまた重い現実である。
自分たちが「当事者」になったとき、自分たちはどんな音楽を聴くのか(作り出すのか)と問い直す。それはある意味の態度表明といえる。
そのときオレは「What's Going On」は聴けなかった。普遍的で、それ故にある意味、社会問題に対して汎用性の高い「What's Going On」という“言葉”は、どうしてもそのときの自分の“気分”にしっくりとこなかったのだ。
「何が起こっているのか」は明らかなのだから仕方がない。
例えば、ひと通り聴いていたとはいえ、オレは決してヒップホップやラップに対して良いリスナーではなかった。それが3・11以降はとてつもなくリアリティと必然性がある音楽に聴こえてきた。これは歌に世は連れないけれども世は歌に連れるというヤツだろう。
で、だ。
今の“気分”でBrotherに声を掛けるのならば、こんな歌でなくちゃいけない。
君はどうだい?



(G・Em・C・Dのリピート)

今日、代々木公園周辺では東京レインボープライド2014が行われた。この3年間に出会った人たちも、フロートの上でパフォーマンスし、パレードでプラカードを掲げ、そして沿道からも数多く参加した。
性の多様性を謳うパレードは、同時に人間の多様性そのものを謳うメッセージであり、だからこそパレードに参加したフロートやプラカードには「僕らはもうすでに一緒に生きている」We're Already Living Togetherという言葉が、晴天の東京の空に掲げられた。
その一方で、上野ではレイシストの吹き溜まりのような連中によるヘイトスピーチデモが行われた。諸般の事情でレインボープライドには参加せず、上野へ行ったのだが、代々木公園とは真逆の世界だったのは間違いないだろう。
しかし、いつもオレは人間の屑に罵声を浴びせながら、実は「君はどうだい?」って訊いているのだ(あくまでも心の中で)。
また、そう問い掛け続けなければならない(あくまでも表面上は超罵声で)。
それはきっとレインボープライドの精神に近いんだと思う(参加してないけど書いてみる)。

<科学者がwhy(なぜ)という疑問を発するとき、それはじっさいにはhow(いかにして)という問いなのである。「なぜ」型の疑問は、科学的に熟慮された問いの立て方とはいえない。なぜなら、世間的には、「なぜ」型の問いの背景には、何らかの意図や目的があると思われているからだ。(中略)同様に、科学者が「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うとき、じっさいには「いかにして、何もないのではなく、何かがあるようになったのか」と問うているのである。>(ローレンス・クラウス/青木薫・訳『宇宙の始まる前には何があったのか?』文藝春秋社)