徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

川を渡る/解釈改憲反対 国会正門前抗議(4.8)

2014-04-10 08:10:34 | News


火曜は日比谷野音で解釈で憲法9条を壊すな!4・8大集会&デモ~が行われた。そもそも野音に入れるとも思っていなかったので、デモの出発時間に合わせて日比谷公園へ向かった。
今回も国会議事堂・官邸前、議員会館方面へ向かい、国会議員の出迎えがある請願コースと、夜の銀座の街を練り歩く銀座コースという2つのデモコースが設定されていた。到着した頃には、請願デモ出発点の西幸門周辺、かもめの広場には、野音に入りきれなかった参加者が溢れていた。
TLに流れていたツイートによると主催者のアナウンスでは、“一般参加者”を銀座コースに誘導していたそうだ。請願コースのアナウンスも政党系、労組系を中心に、団体別にさくさくと梯団分けをしていた。確かにこれでは団体に属さない“一般参加者”が入り込む余地はなかなか、ない。
請願デモはもはや「申し入れ」同様のお約束の“儀式”であり、「議員がデモ隊を出迎える連帯表明のイベント」(プロテスターが最も請願=要求しなければならない与党の議員は姿を現さない)であるからして、議員の時間的な制約もあるのだろうし、そもそも団体名を記したノボリ旗乱立のデモ梯団ばかりが銀座の街を練り歩き、歩行者の眉をひそめさせるのも、どう考えても逆効果なので、これはこれで仕方がない(たぶん)。
それでも、この日呼びかけ賛同団体にも名を連ねたTOKYO DEMOCRACY NETWORK=“ドラム隊”梯団は“一般参加者”の受け皿になっていたと思うし、主催は請願コースの参加者数を抑えたかったのかもしれないが、この点はもっとアナウンスされるべきだろう。プラカードと横断幕、そしてショートコール中心の“ドラム隊”梯団は請願組の中では異色だったかもしれないが、背後にはもっと猛烈に、歴史的に異色な十数人の革マルが並んだのは、何かの嫌がらせかとも思ったが。オレは革マルの背後でちょっとだけ歩いた。

茱茰坂の手前で梯団を離れ、国会正門前へ向かう。
国会正門前では既に十数人が抗議の準備を整えていた。間もなくコールが始まる。
30人程度でひたすらシンプルなコールを続けるプロテスターに対して警備の人員は多くない。
“その場”の主催者をしきりに訊ねる警官はいたが、勝手に集まっているのだから誰も答えようがない。時折請願コース帰りの人がぱらぱらと見に来ることはなあったが、プロテスターの塊に加わる人はそれほど多くない。
それから30分程度、国会議事堂の対岸の歩道で続けられた抗議の状況は変わらなかったが、請願デモが終了したあたりから正門前周辺に向かってくる人が増え始めた。
その多くは国会議事堂に沿った歩道からやってきて、対岸に渡ることなく、文字通り議事堂の正門前で声を挙げ始める、“判っている連中”だ。警備体制は通常程度で、まだ、それほど多くない。
「戦争反対」「解釈改憲絶対反対」「増税反対」「お前が払え」「安倍辞めろ」そんなコールがひらすら続いた。

請願デモでは国会議事堂周辺、六本木通りを越え、茱茰坂に入ったあたりからトラメガはもちろん、旗や幟、プラカードの類の掲示は規制される。請願デモが無言の葬式デモと言われる所以である。正式に申請されたデモというのは、良くも悪くもそれなりのルールがあるのだ。
2年前に始まり、現在も抗議活動が続く反原連の金曜官邸前抗議のように、政府の中枢に対して、規制のグレーゾーンを突き、既成事実を積み上げるケースもある。官邸前抗議は、官邸前対岸、国会議事堂対岸の歩道での示威行為は大目に見られているわけだが、しかし議事堂に沿った歩道でトラメガを使用したり、プラカードを掲げるような示威行為は、今も強く規制される。
国会正門前抗議といっても、正門そのものには近づけない。警備はプロテスターを近づけさせない。

何分か、請願帰りの連中の抗議が続く。
対岸で抗議していたオレたちも誰が呼びかけるわけでもなく、横断歩道の青信号を合図に一気に正門前に渡る。
それから何分か、数十人のプロテスターによる国会正門前での抗議が始まった。
すぐに警備がプロテスターを囲み込み、排除する準備を始める。
本当に、それまでの警備の何倍かの制服警官が一気に集まってきた。一旦囲まれてしまったら身動きが取れなくなり、簡単に排除されてしまうのは、カウンター行動で嫌んなるほど身に沁みているので、抗議の“塊”を拡げようと、できるだけ立ち止まらずに移動すると、警備がすぐに行く手を阻む。
それでも、まだ、何分か抗議の声を挙げ続ける。すっかり囲まれて、警官に圧力をかけられながらどんどん正門前から引き剥がされても、できるだけゆっくり横断歩道を渡りながら(押されながら)声を挙げる。
対岸の場所に戻されると、プロテスターの周囲には、その何倍もの制服警官が並び、2重、3重に囲んでいた。真正面の横断歩道のガードは勿論、反対の横断歩道にも若い制服警官たちが並んだ。

まるで去年のカウンター行動と同じだぜ。まあネトウヨの親玉へのカウンターと、その警備だから仕方がないか。そんな風に思った。
国会正門前(対岸)での抗議は22時に終了した。
たかが横断歩道だけれども、国会正門前の横断歩道を渡るとき、何か、川を渡ったような気分になった。





安倍ファシスト政権打倒デモ(請願行進~国会正門前抗議 撮影:秋山理央

※<国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律>
(拡声機の使用の制限)
第五条 何人も、国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域において、当該地域の静穏を害するような方法で拡声機を使用してはならない。
(適用上の注意等)
第八条 この法律の適用に当たつては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。
2 この法律の規定は、法令の規定に従つて行われる請願のための集団行進について何らの影響を及ぼすものではない。

そしてオレたちは当事者になった

2014-04-05 19:03:14 | News


一昨日報道された安倍首相のデパート訪問は、当初の予定だった「私邸近く」の東急本店から場所を変え、本人が裏口から闖入するという展開になった。変更の理由は明らかにされていないものの、アルタ裏抗議と共に、一昨日から昨日にかけて出回った「デパート包囲」のタグはそれなりの効果があったのだろう。

ここのところ、反レイシズムカウンターの間で「当事者」の話題が蒸し返されてきたようなのだけれども、改めてこのイシューも新しい局面に入ったのだろうと実感している。
振り返れば3.11以降の一連の行動は当事者性の発露以外の何物でもない。フクシマ、原発立地住民、被差別マイノリティという、紛う事なき「当事者」の存在を意識し、時に「代弁者」の存在に悩まされながら、行動する一人ひとりを突き動かす当事者性がここまでの行動を支えてきた。
「当事者なんて人それぞれ」みたいなツイートを見かけたけれども、やはりその通りだろう。

関東のカウンターの多くは「当事者」と共存しながら、自らの当事者性に突き動かされることに迷いがない(ように見える)。それは、参加者のパイ(数)の大きさもさることながら、前段階としての“3.11”をどう受け取り、リアクションしてきたのかが大きいのではないか。それは理不尽な、不合理な、そしてアンフェアな、ある“状況”の中に自分自身の姿を見出すことができるかどうか程度のことに過ぎない。
それは「当事者」に思いを馳せ、アイデンティティポリティクスに学ぶというよりも、3.11以降の一連の行動から嗅ぎ取り、感じ取ってきたものだ。これはちょっとした想像力と行動力の問題だ。

2013年に加熱したレイシストへのカウンター行動は去年12月を境に本格的なAntifaへ移行した。
勿論状況を飛び越えていく想像力と行動力は、それぞれのイシューを過去のものにするわけではなく、思考を重層化させ、拡がりを持たせる。
反原発からレイシズム、そして反ファシズムへ、コアで行動する人たちの状況に対する当事者性は疑いようがない。
状況とは何か。そして当事者性とは何か。それは、そこに、共に生きている実感という他ない。
この3年間の行動は衝動的に見えながら(衝動は極めてプリミティブな当事者性の発露であるのだが)、まったく論理的で、必然的だった。遮二無二突っ走っているように見えて、ツイートやネット上の書き込みの“小さな声”に呼応し、互いに確認しながら、大きなうねりを作ってきたと思うのだ。
いよいよ“ネトウヨの親玉”と対峙することで、オレたちは紛うことなき当事者になったわけだ。

そして、それぞれのイシューはある局面から深化し、特定の“場所”での抗議行動やロビイングが始まる。
それが反原発運動における金曜官邸前抗議であり、差別反対運動における大阪での仲良くしようぜパレード、東京での差別撤廃東京大行進以降に本格化したデモや公官庁、自治体、企業への活発なロビイングだろう(個別のレイシストに対する“法律しばき”も含まれる)。
多少乱暴に見えても、まず状況を突破することが性に合っている人がいれば、その突破した状況をオーガナイズし、取り組みを深化させる(方が得意な)人もいるだろう。その時点において、アイデンティティポリティクスが改めて見直される。
見直されるのだけれども、それと“突破する行動”とはほとんど関係がない。
というか、やはり、関係がないと言い切ってしまう方がいいだろうと思う。

番組史上最も真剣に観覧を希望した人たち/ANTIFAアルタ裏抗議(3.21)

2014-03-21 22:13:46 | News


20日の昼過ぎからTLにある情報が流れ始める。
翌日、春分の日に生放送される「笑っていいとも!」のトークゲストとして安倍晋三首相が出演する。
この日「笑っていいとも!」にゲスト出演していたのは小沢健二。「オザケンの野郎!」と呪詛のツイートが飛び出す。その家系には芸術の血だけではなく、重厚な思想的バックグラウンドもあり、今なお圧倒的富裕層であるオザケン。90年代に日本で音楽を聴いて来たのならば、その影響は避けては通れない男のひとりだが、よりによって安倍を紹介しやがったのか。

というのは勘違いで、現在の「笑っていいとも!」のお友達紹介システムというのは、以前ような出演者当人の紹介制ではなく、番組が選んでいるらしい(しかも長い番組の歴史からしても、まったく最近の話だ)。もはや「友達の友達はみな友達だ、世界に広げよう友達の輪!」ではなく、臆面もなく局の都合で「輪」は決められてしまう。何とも世知辛い番組である(だから終わる、たぶん)。
その「裏側」は直後からネットに流れ、それはそれで納得いった。NHKのみならず民放からも「反安倍政権」の解説・コメンテーターが排除され、政権寄りのメディア体制ができつつあると報道されたばかりだが、それがフジテレビだったとしても、今更としかいいようがない。

普段よりも視聴者が増えるであろう祝日に、今月グランドフィナーレを迎える「国民的バラエティ番組」に、祝日とはいえ国会会期中に現役首相が出演するわけである。良くも悪くも、このタイミングに目ざとさを感じる人は多かっただろう。好感を持って迎えた人ばかりではない。現在、首相の支持率は50%を前後している程度である。少なくとも日本人の半分は安倍政権を支持しているわけではないのだ。
そして国民の「半分」の不支持のひとりであるオレにとって、フジテレビはともかく、「笑っていいとも!」はともかく、タモリはともかく、問題は安倍と直接対峙、である。

思えば3.11以降の直接行動は突発的なリアクションの連続であったと思う。
勿論デモンストレーションの多くはスケジュールに組み込まれたものであったものの、2011年秋以降は半ばフラッシュモブ的な、突発的なアクションも少なくなかった。一部で今回と同じように語られた、2011年12月17日の新橋駅前SL広場で行われる予定だった野田佳彦首相(当時)の街宣もそうだったし(金正日死去で急遽中止にされた)、その流れは2012年6月から7月にかけて首相官邸前で高揚した再稼動反対運動にも繋がっている。
現在も金曜日の首相官邸前抗議は続いている。
しかし安倍首相は、首相を名乗りながらいまだに首相公邸の住民ではない。
“そこ”にいなければ、姿を現す“その”場所に行くまでである。
しかも“その”場所は、平日とはいえ真昼間に全国放送で告知されたわけだ。19時から20時にかけて個人レベルでアルタ参戦を表明する者が現れ、TOKYO DEMOCRACY CREW(@TOKYO DEMOCRACY)がプラカードデザインを作成して煽る形で、当日深夜になって、行動を疑問視する者、諌める者も含めてTLは久々に沸騰した。
このスピード感には2011年の瞬発力の記憶が蘇った。

当日、11時過ぎに新宿に着いた。
11時前後にはゲストはスタジオ入りするという情報もあったが、さすがに首相がそんな時間にスタジオ入りするとは思えない。喫煙所で情報交換しながらタイミングを待つ。アルタ正面の東口公園に集合している人たちも少なくなかったようだったが、警備が集中していたアルタ裏口へ向かう。すでに抗議とは知らない人たちも含めて50人ほどは集まっていただろうか。間もなく抗議場所を巡って警備と激しくやり合う。
わけもわからずその場にいた人も少なくないようで、あれほど注目のニュースになっていたにも関わらず、この日の「ゲスト」を知らない人もいた。世間とはそういうものである。
最後まで場所を動かず残っていたオレたちが警備によって3、4メートルほど後退させられると、「安倍辞めろ」「再稼動反対」「ファシスト帰れ」といったシュプレヒコールが断続的に巻き起こる。2011年と違ってイシューはそれぞれだが、状況は違っても目的はひとつだ。
懸念されていた“小旗”の人たちもネトウヨの姿はなかった。ただ、いかにも柔道部出身といった感じの、頬の赤い、従順そうな、そして融通がまったく利かなさそうな若い警官数人が目の前に立っていた。
正午を20分ほど過ぎた頃、意外にも安倍首相は歩いて関係者入口に向かってきた。状況は一瞬だけ沸騰する。
そして再び彼が姿を現す20分か30分ほどの間、途切れなくシュプレヒコールは続いた。

出演が終了した安倍首相が、アルタの裏口を出て靖国通りに停めている公用車に向かう間、オレは並行した裏道を走った。
靖国通りは思ったほどの警備体制ではなかったけれども、当然のように、すでに人だかりが出来ていて、まったく近づくことができなかった。その人だかりは、ほんの1ブロック先で激しく怒りをぶつけていたプロテスターの集団ではなく、まったく、「テレビで顔を見たことのある人の姿」を見たことを嬉しそうに語る人たちだった。
プロテスターの怒りに直面して少し顔を強張らせた安倍は、その無邪気に触れて上機嫌で帰って行ったことだろう。
しかし、また、これからが始まりだ。そうなって欲しいと思う。

夕方は「人種差別撤廃のための渋谷デモ」で渋谷の街を久しぶりに歩いた。
今日、3月21日は国際人種差別撤廃デーである。昨年12月のネルソン・マンデラの死去に際して安倍首相は「信念の人」と追悼したわけだが、この日、一瞬でも彼に思いを馳せただろうか。
明日は全世界でこの日に合わせたアクションが行われる。

両者イエローカードの行方/排外デモカウンター行動(3.16)

2014-03-19 23:30:05 | News
13日、浦和レッズの「Japanese only」問題に対して、リーグは初の無観客試合の処分を下した。
その週末の日曜日、池袋では「春のザイトク祭りReturn~勇気をもって日韓断交。叫ぼう」なるヘイトデモが行われた。

豊島公会堂前の公園にも到着した時には、すでに多くのカウンターが集結し、時折通り過ぎるレイシストや公会堂のロビーに顔を表すレイシストに罵声を浴びせかける。公会堂内ではヘイトデモに先駆けて、「3.16秘密保護法の活用と発展を目指す国民集会」という、意味不明な集会が開催されていた。
そしてカウンター側も、久々にC.R.A.C.や男組といった主要カウンターグループが大規模行動を呼びかけていた。年明けにも板橋区・大山でのヘイト街宣に対するカウンターが合同で行われたが、ここまでの規模は昨年の9.8以来だろうか。
デモのスタートは16時30分。15時を過ぎたあたりからカウンターは公園から離れ、デモの「出口」となる明治通り周辺に集結し始める。

お馴染みのプラカード、ダンマクに加え、レッズの差別事件を受けて、ACLで横浜Fマリノスサポーターが掲げた「Show Racism the Red Card」の文言や「STOP RACISM NOW」と謳ったゲートフラッグが登場した。また、その中にはレッズのマフラーを手にしたカウンターも何人か見られた。
「Japanese only」問題発覚後の一週間は、ほぼこの話題で埋め尽くされ、Jリーグ、浦和レッズの当事者のみならず、多くのサポーターもこの問題に素早く反応した。その直後に行われたヘイトデモに対して、この問題が反映されないわけがない。皮肉にも昨年春以降から今までの間で、メディアがもっとも具体的に、「差別」について時間を費やした一週間だったともいえる(勿論、今回のデモでレイシストたちはここぞとばかりに「~only」のプラカードを何枚も掲げた)。
一般的には、一方の当事者であるはずのチュンソンが前面にフィーチャーされることもなく、当事者(被害者)がいるのかいないのか、よくわからないまま、「(差別)言葉の問題」で終始してしまった感も否めないのだけれども、それでもいまだにヘイトスピーチにピンとこない日本においては珍しく「差別」について語られる一週間であったことは間違いがない。

100~120名ほどのレイシストたちは、スタート前に豊島公会堂前に勢ぞろいすると、デモタイトル通り、「日韓国交断絶しよう」なる巨大なダンマクを掲げ、公園に残っていたカウンターに誇示し、挑発を繰り返した(この醜悪な光景を豊島区役所は見ていただろうか)。目の前にはバリケードに加え、二重、三重の機動隊員がレイシストを守る。そして在特会の親玉である高田誠を先頭に、奇声を上げながらレイシストの「パレード」はスタートした。
カウンターは歩道を埋め尽くし、レイシスト共を追走する。

今回は良くも悪くも追走が比較的容易だったこともあり、所々で歩道のカウンターと機動隊の揉み合いが続く。その姿を見て、またレイシストはカウンターを挑発する。珍しくカウンターに詰め寄るレイシストもいたようだ。ある者はカウンターの胸ぐらに掴みかかり、ある者(オサム)はカウンターの腹を殴る。デモの帰り際に近くにいた警備に対して「今日、奴ら挑発しすぎじゃないですか?」と訊ねると、「警察がいるから」と答えた。
それでも正式にデモ申請し、公安委員会の許可を得たレイシストのパレードは止まらない。彼らがそのことで逮捕されることはない。なぜなら許可を得たデモは必ず実施させる。これは何が何でも、だ。
ちなみにこの日、レイシストからではなく、高田の側にずっと寄り添っていた警備から、止める振りをして膝蹴りを入れられそうになったのだが、それはそれとして、このところのデモ警備には目に余るものがある。

ヘイトデモの警備とは、両者に対してイエローカードを手にしたレフリーである。カウンターには常にカードが突きつけられているといってもいいだろう。デモ中のレイシストには形ばかりのカードが掲示されている(体面上)。
挑発行為は許さない。報復行為も許さない。そしてカードを出す準備はいつでもある。それがデモの現場で警備というレフリーがカウンターに対するスタンスだ。
しかし自ら中立を自称する、「どっちもどっち」なレフリーこそ徹底的にフェアでなければならない。
カウンターに対して胸ぐらを掴んだレイシストを引き離そうとした人はコートのボタンが引きちぎられた。それを警備に訴えたところ、「この程度では逮捕できない」と言ったという。しかし一方では「ボタンが取れた」とレイシストが騒いだだけで逮捕されたカウンターがいる。
何なのだろう、このアンフェアは。

サッカーの世界には「プロフェッショナルファウル」という言葉がある。これは、失点確実な局面であえてカード覚悟で相手を止めに行くプレイを指す。
アンフェアな状況の中でのカウンター行動というのは、やはりこのプロフェッショナルファウルに近い行動なのだと、つくづく思う。
(勿論プラカードやダンマクを掲げて抗議の意志を示すぶんには何の問題もありません)

https://twitter.com/gonoi/status/445232972174594048
<激昂してカウンター側の男性の胸ぐらを掴むレイシスト。さすがに直接暴力だったので、警察とともに彼を引き剥がしていたら私のコートのボタンがちぎれた。これは普通にまずいんじゃないですかと警察の方に聞くと、この程度では逮捕できないとのこと。 pic.twitter.com/N6jTrDZXhn >

3年経つということ/NO NUKES DAY 原発ゼロ★大統一行動&Peace On Earth

2014-03-10 00:21:34 | News


0309NO NUKES DAY 原発ゼロ★大統一行動の請願デモに参加した後、Peace On Earthが行われている日比谷公園へ向かった。
公園のステージ前に着いたとき、ちょうどBRAHMANのステージが始まろうとしていた。とりあえず、できるだけ前に進む。

最後の一曲を前に、TOSHI-LOWの“最後の長いMC”が始まった。
3年経って、オレは変わったのか? オレは成長したのか?日本の社会は変わるのか? 原発は止まるのか?
TOSHI-LOWは言う。SUGIZOがハイスタの曲をやったり、楽屋に教授がいて談笑している。楽屋では3年前には想像もできなかったことが起きている。これが3年経ったということ。3年経って、これが“最後”ではなく、ここからまたスタートですること。ステージ、ステージ脇、そしてステージの前に集まって支えてくれた人たちがいたこと。
3年後に何らかの結果を求めるよりも、3年という月日が過ぎて、3.11前には思いもよらなかった関係が生まれていたことの方が余程重要なことだろうと思う。



3.11を風化させないためと言い、被災者に聴いてもいないラジオを聴かせてドキュメンタリーを作った演出家がいる。風化はなぜ起こるのか。演出家は風化させないためと言って、よりわかりやすく、聴いてもいないラジオを聴かせて被災者への共感と感動を演出するわけだが、それは被災者を固定化させる予定調和に過ぎない。
「風化を防ぐ」というのならば、共感や感動を演出してフィルムに刻み込むよりも、どうしたって変わり続ける、今を伝え続けるしかない。

誰だって変わらないわけがないのだ。オレも3年前と同じように、請願デモの最後尾で歩いたけれども、そこでは3年前と違う風景が見え、年月が経ったことを実感させた。何が変わって、何が変わらなかったのか。そんなことを考えながら歩いた。
3.11以降、反原発からいくつかのイシューが生まれ、いくつもの新しい関係が生まれた。それは3年前には考えられないことだった。いくつものイシューと関係を積み重ねながら、この日のデモを歩きながら見えてきた風景は、2014年の「3.11」としか言えないものだったと思う。たとえ「変わった」としても、しかし、それは風化とは違う。

ます、あれから3年経った、そのことを噛み締めている人には見えているはずだ。
今、立ち向かうべき先は見えている。



BRAHMANのライブが終った後、彼らのタオルマフラーを求める人たちの長い列ができていた。それが反原発や被災地復興のためのデモの隊列につながっていくことを想像した。そうなってくれたら嬉しい。

丸川哲史「核とナショナリズム」より

2014-02-21 17:51:16 | News
アジアでは1964年に中国が核実験をやりましたけれども、それはかなり画期的といいますか、大きな転換点になるわけですけれども、その動機をずっと遡っていきますと、朝鮮戦争というのは一番大きいわけですよね。
朝鮮戦争のときに(アメリカ軍が)原爆投下をする可能性がかなり高まっていた時期がありまして、おそらく中国の東北部に落とすだろうと(可能性が)一番大きかったわけですけれども、そういうことの連続性の中に中国現代史というのはあるわけで、やはりそこまで遡って考えると、やはりどうしても自分たちの国を守るというかなり直結したですね、主権に結びついたところでやはり核開発はなされているので、日本と違って完全に国家の内部にそれを作るということが意識化されているんですね。

(その観点から日本の「核の平和利用」は)例えば広島という都市自身を平和という方向へ意味変換するわけじゃないですか。そういったこと自体が中国人からすると、おそらくあまりよくわからないと思うんですね。遡ると広島というのは軍事都市だったわけですから、そこにかなり意味転換の要素があって、平和の都市に生まれ変わると、これ自身は日本人の真の願いだと思うんですけれども、そういった自身は日本の中で行われた、あるいはアメリカとの関わりの中で起きたことですから、非常に微妙な問題だと思うんですね。
ちょっとだけ注釈しますと、つまり例えば47年に広島平和祭というのが行われるわけですけれども、途中で1950年に中止になるわけですね。つまり朝鮮戦争が起きるからだと思うんですね。53年まで中止になりまして、54年に改めて広島平和祈念式典という、我々が知っている平和祭の形ができるわけですけれども、そういう空白があること自体がある種、日本の特殊性といいますか、今日の話、後の話になると思いますが、日本のナショナリズム、あとアメリカとの関係というような意味で非常に重要な論点になるんじゃないか。
つまり朝鮮戦争の期間(に)広島の平和祭自身が中止されていたという問題ですよね。こういうことの欠落を埋めないと核の意味合いは違うと思うんですよ。つまりその頃、中国は参戦していたわけですから。そういう欠落を埋めないとお互いに、どうしてそのような問題になるのかということがわからなくなってくる。

それはアメリカ軍、GHQにとってみても、平和祭(が)どういった意味合いを持つのかという(のは)、非常に微妙なものがありまして。例えば私は広島の平和祈念館に行ったんですけれども、戦前含めていろんなパネルがあったんですけれども、非常に面白いなと思ったのは、ちょうど朝鮮戦争が行われているときに、広島市長がパリに行っているんですね。彼は朝鮮戦争における核兵器の使用について反対であるということを談話で発表している。これは非常に重要なことで、そういうことは広島にとって非常に重要な歴史だと思うんですけど、平和祭という問題の中に朝鮮戦争批判なるものが入っては困るということを類推せざるを得ないと思うんですね。
そういう意味で言いますと、広島のことを編年体的に追ったとしてもそういう事実があるわけであって、それがなぜ中止に追い込まれるかということを考えないと、日本におけるある種の平和運動といいますか、核に対する対応がどういうものであったのかということは、単純ではないと思うんですね。やはり東アジアの状況と連動していたということが、やはり復元されるべき歴史だと思うんですね。

■原子力の平和利用への期待
広島平和宣言
1954年「原子力の適当なる管理を全世界に訴える」
長崎平和宣言
1949年「偉大なる原子力は世界平和のため人類の福祉に貢献せられんことを熱願する」
1951年「原子力を平和の手にする猛運動を巻き起こし、人類の平和維持のために闘はんとする」


東アジアの文脈で言うと、日本で私たちが中学高校で習ったときの三原則ってあると思うんです。主権在民と平和主義と基本的人権の尊重、こういうことがセットになって日本(で)どういう教育(が)されているかということに関して、実は東アジアの人たちは知らないわけですし、平和主義ということ自身は日本人の中である種、当たり前の、空気のように吸っているということがあると思うんですよね。独特の日本人のイメージはあると思いますし、それがある種、普遍的なものであるということも、おそらく日本人は含意していると思うんですね。

しかし普遍的なものであるかどうかは、やはり東アジアの視点からすると、例えば先ほどから言っています平和祈念式典に(東アジアの人たちは)行けないですよね。つまり第二次世界大戦のトドメを刺した、ある種の一撃と考えられますから、ある意味でそこへ行くことはあり得ないわけですよ。日本以外の東アジアの常識としては、そこへは行かないんですよね。
ということは、それは普遍的ではないということなんですよ。政治的な文脈を背負って、そこへ行かないということを決断しているわけですから。行かないことが常識なわけですよね。行かないことが常識だということが東アジアの中で埋め込まれている。
ということは、それは日本人にとってみると広島・長崎というのは普遍的な、ある種人類に対する問いとしてあると思うんですけど、実際に東アジアの視点からすると普遍的と言えるか。逆に言うとカッコ付きの、日本的な普遍主義であるとしか言いようがないようなものとしてある。ということはある種日本人が持っている平和主義のイメージがかなり限定付きなものである、ということは考えざるを得ないと思いますし。

有名なエピソードではありますが、広島の原爆死没者の慰霊碑の文句ですよね。「安らかにお眠り下さい、過ちは繰り返しませんから」。この主語は誰かということは書かれない、書くことはできないわけですよね。例えば誰が原爆を投下したかということは文句(文言)に書くことはできないということですよね。そうするとつまり普遍主義という構図を考えるとすれば、普遍主義は誰が誰に対してということを明示しなければストーリーにならないわけですよね。しかし文句は非常に曖昧なものであって誰がどういう関係で原爆が投下されて、誰がどこに投下して、それが(いかに)悲惨なものなのかということは叙述されていないわけですから、そういったことがある種日本的な、ある種特殊的な普遍主義を意味していると言わざるを得ない。
実際に中国や韓国や台湾の人たちはこの碑文を知らないんですよ。内容は。で、おそらく日本人も知らない可能性はありますよね。だからこの碑文が持っている言葉の構造といいますか、何なのかということ自身は踏まえられるべきなんじゃないかと私は思いますね。

日本は独自に核開発できるか。誰がどのように目指すか、誰の視点でそれを見るかという話にどうしてもならざるを得ない。つまりこれは、ずっと戦後の社会の中にある考え方として、自分たちは核武装したいという欲望が、どこかの勢力といいますか、日本人の思想家なり政治家なりにずっとあったわけですよね。しかしある意味それはブラックボックスといいますか、かなり秘密裏にやろうとして、しかしまあ「無理かなあ」みたいな感じでと消えた側面がある。つまり佐藤栄作政権のときにそういうことは一度考えたわけですね。しかしそれはやはりできないだろうという判断があってですね、非核三原則を言うという方向に行くと、僕は思っているんで。
というのは面白いことに、日本の首相自体がですね、広島の平和式典に言ったのは1971年が始まりですからね。それまでは行っていないんですよ。ということはそれまでは態度を決定していないということなんですね。勿論平和主義ですし、核兵器(を)作らないということは何となく日本人は期待しています(し)そのように動くだろうということはありますけど、71年まで日本の首相は平和式典に行っていないわけですから、その事実は考えなきゃいけないと思う。

1949年 湯川秀樹、日本人として初めてノーベル賞を受賞
1952年 漫画「鉄腕アトム」の連載がはじまる(1968年まで)
1953年 米アイゼンハワー大統領、国連総会で「アトムズ・フォー・ピース」演説
1954年 第五福竜丸、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験により被災
1955年 原子力平和利用博覧会
1967年 佐藤栄作首相が衆院予算委員会で初めて「非核三原則」を表明


私の父親自身は理科系で、やはり湯川秀樹氏を非常に尊敬する世代なんですね。彼のノーベル賞受賞なんかに勇気付けられてそっちの方向に、大学に入るという世代なんですけど、でも単純に調べれば、例えば彼とか戦中に核開発に関わっていた人物であるとか、調べればわりと出てくる話だと思うんですよ。
そうするとうがった見方をするとですね、平和って意味転換そのもの自身が、ある種、無意識的な意図的といいますか、そういうふうにも聞こえざるを得ない。つまり湯川秀樹氏(のような)、ああいった良心的な理科系の知識人といわれている人はその後反核運動にまい進するわけですけれども、実際戦中には核研究の一員になっていたということですね。これを鮮明にしていないということがあると思います。

核開発をするときの歴史状況というものが、例えばドイツとかアメリカ、まあ日本も含めて第二次世界大戦の途中だと思うんですね。「途中」という文脈が強いわけですから、ある種…世界大戦の最中という文脈があると思うんですね。
第三世界の、特に中国(の核開発)の場合には冷戦下に入りますから、ちょっとそれはまた違うという考え方を私は持っています。中国の場合、その後インドになりますけれども、先ほど言ったけれども「主権」だと思うんですよ。かなり反対されるというか、つまり第二次世界大戦のときは競争ですよね。世界大戦中ですから誰しもそれにまい進しますし、それを抑止する上のものはないわけです。しかし冷戦期に入りますと、それを抑止するという視線ですよね。中国の場合はアメリカがありますし、それからソ連がありますよね。上からの視点でそれを抑え込むという力に対して、それに反発する形で第三世界の場合は核を持つわけですから、より純粋な形で主権を守るという文脈は第三世界の方が顕著に見える。そういうことになるんじゃないかなと私は思う。

中国の首脳は核兵器に対して使わないし持たないという姿勢があったんですよ。
ということはこの中(現視力平和利用博覧会)に中国は入っているということになるんですよね。つまり平和というタームを自分たちも共有するというか。原子力の平和利用ということを55年に西側ではいいますよね。そのとき中国の側、第三世界主義は自分たちは核を持たない、核兵器を持たないという立場でうっすらつながっている側面があって、つまり1950年代は中国が核兵器を開発(する)前は、日本のインテリの考え方の中では、中国が平和勢力というものの中に完全に入るわけですよね。(そういう)構図はあったことが前提で、64年になって中国が核兵器を開発したということになって、そのときにおそらく、いろんな資料でもありますけれども、日本の左翼勢力は動揺が走ることになる。
その前から例えばソ連の核は「良い」という議論も左翼の中にはあったんですよね。そこで(中国が核開発したことで)動揺が走るということで、60年代にあったということも整理する必要があると思う。世界にとって誰が平和勢力であるのかということはそれなりにかなり大きく変化してきたと思いますし、その中で今の日本人にとってみると、中国というのは平和な国家であるのかどうかはわからなくなっていると思うんですよね。

興味深いことに64年の中国の核実験に対する反応というものはですね、アメリカ合衆国側はやはり道徳的な意味は問わないんですよ。核兵器を開発してしまった近代国家として認めざるを得ないという方向に考えざるを得ないですね。
で、日本の側は反核運動、平和主義がありますからある種の幻滅みたいなものが起きるわけですね。こういうことは興味深いと思うんです。これはどういう文脈につながるかというと、結局中国が64年に核実験をやりますけれども、当時は主にアメリカ(ソ連)に対する牽制もありますけれども、これは72年の米中の接近ですよね。つながらざるを得ないように見える。つまりアメリカ合衆国は中国を一人前の国として認めるような儀式として64年があるように見えてしまう。日本では決してこういう文脈は生まれないと思うんですよ。だけども実際に、先ほど話しましたけれども、佐藤首相がですね、やはり核兵器の開発を決意したのはやはり64年の衝撃が大きかったからだと思うんですよ。それは隠さざるを得ないからずっと秘密裏にされてきたわけじゃないですか。だけど最終的に断念して71年に非核三原則を言って、広島の平和式典に出るという決断がありますから、
これは60年代後半に日本の上層部においては、ある種の判断をせざるを得ない時期があったと思うんですね。自分たちが核兵器を持つことができるかどうかということを突き詰めて考えた時間が60年代後半にあったと思わざるを得ないですね。

丸川哲史「核とナショナリズム」(朝日ニュースター「ニュースの深層」2011年7月放送)より

デモクラシーという<クラブ>/東京デモクラシー、始動

2014-02-03 13:03:32 | News




昨夜は渋谷駅前ハチ公口周辺で「東京デモクラシー、始動」。
J発足以降、日本でも主に政治や行政においてボランティアをサポーターと呼称することが非常に多くなったのだが、ほとんどの場合は都合のいい「無償のお手伝い」の言い換えに過ぎない。しかし昨夜の渋谷、あの場にいた人たちの多くは、その意味において本物のサポーターだっただろうと思う。では何のサポーターだったのか。
プレーヤーは所属するクラブを変えることができるが、サポーターは愛するクラブを変える事ができない。

あの夜、あの場所にいた人々の中には、その意見がtogetterでもまとめられていたように、選挙前の宇都宮陣営について辛辣な意見を飛ばしていた連中が少なくない(オレも)。しかし戦いが始まってしまえば、それぞれができること、やるべきことをやるしかない。コア(スタッフ)に指示されなくたって、「場」のために考え、勝手に動いてしまうのがサポーターなのだ。
イベントタイトルの横には、宇都宮健児候補を表す<U.K.>の文字があったとはいえ、メインタイトルはあくまでも<東京デモクラシー>である。勿論あの場にいた人々は宇都宮候補の支持者なのだが、大仰に書いてしまえば、サポートしているのはあくまでも<デモクラシー>だろう。
I WILL VOTE、そして第二、第三のU.K.を送り出す土壌を作ることが、あの場にいた「サポーター」の願いだろうと思う。

宇都宮候補はスピーチの中で沖縄との連帯を口にした。国政選挙は3年先まで行われないとはいえ、これから全国各地で行われる地方選挙の結果のひとつひとつは実に重い意味を持つ。来年4月には統一地方選も行われる。この戦後70年の節目の年にファシスト政権が何を目論んでいるのかはもはや明らかだろう。
投票日まであと一週間を切った。結果がどちらに転ぶのかは、まだわからない。
ファシズムという<クラブ>と戦い、勝ったり負けたりしながらデモクラシーという<クラブ>のサポーターであるオレたちの生活は続いていく。その積み重ねにはきっと意味がある。




あたらしい人/排外デモカウンター行動(1.18~1.19)

2014-01-21 01:34:01 | News
1月も20日過ぎてようやくブログ再開、あけおめことよろです(今更)。

もちろん今年も年明け早々からレイシストたちへのカウンター行動は続いている。
先週土曜日は高田誠が現場責任者となり六本木で、日曜日には有門大輔、荒巻丈らが西川口・蕨周辺でヘイトデモを強行した。高田たちは<キレイゴト>に憎悪の言葉をぶつけ、有門・荒巻は2009年の悪夢を思い出させるように「在日外国人を殺せ」と叫んだ。
日曜日の西川口・蕨では歩道を規制する警備と衝突するたびに、警備からは「仕事ですから」という言葉を繰り返し言われた。その通り、彼らは「どっちもどっち」を逸脱しない立場で、許可したデモ行進を滞りなく進行させるという「仕事」をしているに過ぎない。
まあ、所謂、<キレイゴト>である。

確認したい。
レイシストは<キレイゴト>を唾棄しながら、その<キレイゴト>によって完全に守られ、薄ら笑いを浮かべながらヘイトスピーチ(差別扇動)を繰り返している。オレたちは<キレイゴト>と真正面から対峙し、時には衝突しながら、実はその<キレイゴト>を守ろうとしている。どちらが薄汚くて姑息なのかは明らかだろう。
ということで、オレたちとレイシストとの戦いは<キレイゴト>を巡る戦いでもあるのだが、残念ながら戦いは<キレイゴト>ばかりではできない。なぜなら、彼らは想像を絶するほど薄汚いから、である。

もうひとつ確認したい。
レイシストをしばき隊(現C.R.A.C.)が始動したとき、レイシストと対抗するために「By Any Mean Necessary(いかなる手段をとろうとも)」と宣言した。そして男組は「非暴力超圧力」を標榜し「いかなる手段」の限界に挑もうとした。
「いかなる手段」は男組によって深化し、C.R.A.C.によって展開されている。
「いかなる手段」はどうしたって、その「手段」に対する議論を呼ぶ。残念ながらそれが「いかなる手段」というものなのだから仕方がない。しかし議論を呼ぶほどの「いかなる手段」をなぜ使わなければならないのか。なぜなら、彼らは想像を絶するほど姑息だから、である。



日曜日の西川口・蕨では男組主催による「お知らせデモ」が始めて開催された。これはヘイトスピーチ・デモが行われる街で、デモの直前にヘイトデモが行われることを住民に周知するための行動で、「あらゆる手段」の新たな展開のひとつといえる。事前に有志によって西川口・蕨駅前で周知のための街宣が行われ、当日もお知らせデモの横でチラシが配られた。
お知らせデモを含むレイシストたちに対抗する「あらゆる手段」とは、ヘイトデモに対する直接的な圧力と同時にレイシストを包囲するための「手段」の構築であり、今後もその「手段」は広がり続けていくことだろう。
あれから1年経つということは、そういうことである。
ちなみに、このお知らせデモの参加者のほとんどが直後に行われるカウンター行動するため、それを少しでも遅らせるためなのか、異常なほどの行進の遅さが目立った(一方でレイシストたちの行進のときには、最後尾をロープで押して進行を早めさせたりしていたのだが)。

デモやカウンターの後、TwitterのTLには「デモ・カウンターちょっといい話」が流れてくるのが常なのだけれども、もちろん、現実には、そんな良い反応ばかりが返ってくるわけでもない(肉体的にも精神的にも物凄く疲弊する)。日曜日のお知らせデモでは、地元の商店街のおばさんが怪訝そうな顔をしてお知らせデモを見ていたのでチラシを渡そうと話しかけると、そのおばさんはひたすら
「差別って何? ここに差別はない!」
と繰り返すだけで話すら聞こうとしない。これには参った。当然彼女は「ヘイトスピーチ」という言葉すら知らなかった。「差別」という言葉、そのものに触れたくないというに拒絶を感じた。
一方で土曜日の六本木では留学帰りだという19歳の青年と出会った。昨年のレイシストたちとの攻防はニュースや動画で見ていて、これまで参加できなかったが、この日が初めてのカウンターだという。彼は約束通り、日曜日に西川口までやって来てオレに声を掛けて、お知らせデモの列に加わってくれた。
これでプラマイゼロだと思った。
また新しい人がひとり増えた、という意味ではプラスかもしれない。
あれから1年経つということは、そういうことでもある。

そしてオレたちは「ひとり」に戻る/特定秘密保護法案抗議行動(12.4~12.6)

2013-12-08 08:41:10 | News
特定秘密保護法案を巡る長い3日間が終って一日が経った。
安倍首相は喧騒が収まった国会周辺を指して「嵐が過ぎ去った」と語ったそうだが、これが「過ぎ去った」とはとても言えないのは、この3日間、現場にいた人間ならば誰もが思うことだろう。言うまでもなくこれは始まりである。



4日水曜日、前日夕方に急遽決定した「参議院国家安全保障に関する特別委員会さいたま地方公聴会」が開かれる大宮へ向かう。地図をしっかり確認したわけでもなく、何となく向かった先は氷川神社方面(つまり大宮戦でいつも歩くルートだ)。会場であるラフォーレ清水園は氷川神社入口のアルディージャのクラブショップのすぐ近くにあった。もともとは明治23年創業の老舗料亭だったそうだが、とてもこれから国の根幹を揺るがすような法案成立のアリバイ作りの公聴会が開かれ、派手な抗議行動が展開されるとは思えない、要するに結婚式場、宴会場である。


オレは出遅れてしまったので会場周辺に到着したのは15時過ぎ、すでに委員長や公聴会参加者は会場に入ってしまったようだった。議員を乗せたバスはもぬけの殻だったが、清水園に隣接した歩道、さらに2号線を挟んだ対岸の歩道にもトラメガで声を上げ、プラカードを掲げた抗議者が集まっていた。
そして会場入口周辺の側道に抗議者が集結する。
その瞬間、敷地内の移動を規制していたコーンバーが宙に浮き、関係者の上に落ちていく。それがきっかけとなり30人ほどの抗議者が一気に敷地内に雪崩れ込みシットインを始めた。コールはひたすら「(公聴会)中止」のひとつだけである。
報道のカメラマンたちが清水園に入り、建物2階の窓を開け撮影を始める。おっちょこちょいのカメラマンが窓を閉めるのに手間取っているのを見て、そのままにしとけばいいのにと思った。
「中止」を要求する抗議の声は公聴会が行われていた3階の会場まで届いていたという。



それから2時間ほど、公聴会が終わり委員や議員が逃げるように裏口から抜け出し、警備が規制を解くまで抗議者はひとつのコールを叫び続けた。抗議の集団を抜けて路地に入ると小学生の女の子ふたりがコールに合わせて楽しそうに身体を揺らしていた。

自衛隊が“周到準備”秘密保護法さいたま公聴会/しんぶん赤旗 2013年12月10日付



翌5日木曜日には委員会での採決、そして6日金曜日には参議院での採決が行われた。
勿論この3日間だけではなく、前週からこの週にかけて特定秘密保護法案への反対の世論は凄まじい勢いで拡がった。原発とは違い、メディアが「当事者」になったことが最大の要因だとは思うものの、この反対の広がりは業界の思惑とは関係なく、「日本の民主主義」そのものに対する危機感がある。

オレは議員会館前のグループとは別に、昼過ぎから終電近くまで国会正門前で続けられていた<怒りのドラムデモ>主催の抗議活動に参加した。時折反対議員によるスピーチや議事堂内の経過報告があるものの、基本的にこの場所での抗議はコールだけで構成された。参加者を労う言葉や内向きに鼓舞するような勇ましい言葉が飛び交う“集会”よりも、今必要なのは目の前で行われている政府の暴走に対する、より直接的で攻撃的な言葉による抗議だ。
明るい時間はまだ参加者が少なかったものの、夜になると仕事帰りの人々も加わり、さらに激しい政府批判をペイントした播磨屋本店の巨大なトレーラーが国会周辺を走り回る。

そして「No Pasaran!」の横断幕が議事堂に向かって高く掲げられた。
1930年代のスペイン内戦での有名なスローガンであると同時に、これは今年の春先から東京・新大久保で繰り広げられたレイシストに対するカウンター(抗議)活動の象徴のひとつになった言葉であり、“ダンマク”である。
対岸の歩道で抗議していたため、最初は遠目に横断幕を見たオレもこれには熱くなった。特定秘密保護法案への抗議が動き始めた頃から決意していたことではあるけれども、反レイシズム行動はこれから本格的に反ファシズム運動(ANTIFA)へ移行していくだろう。
あの“ダンマク”はオレたちの宣言ともいえる。
宣言してしまったのだから、たとえこの採決が強行されようとも日本のファシストが政権に居続ける限りは抗議行動は終らない、ということである。
つまり、きっと「嵐」はこれからも起こる。ファシストのお腹が痛くなるまで起こし続けるのである。

6日23時頃、国会正門前では主催者の呼びかけでコールとドラムの音が鳴り止んだ。
そして数台のトラメガから大音量で反対議員の凄まじい怒号が飛び交う参議院内の様子が放送された。
オレは抗議をしている最中はあまりスマホで情報を確認することもしないので、「中」で何が起こっているのかわからない。おおまかなスケジュールは主催者からアナウンスされるものの、現場では様々な情報や憶測が飛び交う。
しかしこのときは国会正門前の抗議参加者のすべてがトラメガから流れる放送に無言で耳を傾けた。
そして記名での採決が決定し、“その瞬間”が迫ると、主催者の呼びかけでトラメガもドラムも使わずにひとりひとりが生の声でコールを始めた。「採決撤回」「採決止めろ」ただそれだけである。
同時に議事堂に隣接する対岸の歩道側には、“突入”を警戒するように大量の警官が配置された。近くにいた若い警官が「スゲエな…」と呟いた。でも、まあ機動隊じゃないしな、などと思いながら“ダンマク”の下で、その瞬間を待ち、聞いた。
再び激しいコールが巻き起こる。
いくらでもセンチメンタルなことは書けると思うのだけれども、それにしてもあっけない気がした。

抗議の最後に主催者の井手さんは時折涙声になりながらスピーチをした。
ドラムデモの皆さんには感謝し切れないほど感謝している。場所を作ることは誰にでもできることじゃない。個人的には勝手に共感している彼が主催だからこそオレも参加できた。
それにしても21時頃の参院本会議再開時には規制線決壊が起きた現場では、怒りを滲ませながらも最終局面の強行採決を冷静に受け止めていたように思う。
それはきっと、あの場で静かに国会中継に聞き入る瞬間を皆が共有したからだと思うのだ。大きな抗議の「集団」が、あの時、ひとりひとりの「個人」に戻っていくような気がした。「聞く」という行為は物事に対して真摯に向き合うということである。
あの瞬間、あの場所にいたすべての抗議者は目の前で起こりつつあることに対して、ひとりひとりが無言で向き合っていた(本当に“目の前”である)。

最終的に個人ってのはきっと強いと思うよ。あと、声が枯れてる奴は強くて信用できます。
まだまだ続くぜ。

それでも砂漠に種をまき続ける/特定秘密保護法案抗議行動(11.26)

2013-11-27 23:36:23 | News


<もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子(たね)をまくだろう。>

このルターの有名な言葉はさまざまなリミックスを経て、寺山修司は革命家のゲオルグ・ゲオルギウの言葉と紹介し、調べてみたら数年前にテレビドラマの台詞に使用されてそれなりにリバイバルした言葉なのだという(全く知らなかったけど)。勿論、この言葉は寺山修司でもなく、テレビドラマの台詞でもなく、小学生の頃から知っている。
五島勉のノストラダムスの大予言ブームの頃、高木彬光が大人げなく、真剣に書いた反論本で巻末の結論として書いていた(大人気なくと書いたものの、高木自身、易に通じ、成吉思汗や邪馬台国などの“古代ミステリ”に関する著作も多い)。せっかく大推理作家らしく、科学的に、理路整然と反論していたのに、その結論はあんまりじゃないかと子供心には思ったのだけれども、やっぱし子供心にとっても勇気付けられたのは確かだ。
オレは高木彬光を通して、この言葉――種子を受け取ってしまった。
個体としての人間は「種子をまかない」という成熟しきった選択もできるほとんど唯一の生物なのだが、それでも日常生活を送る中で、意識的、無意識的に関わらず、人間は「種子」をまかずにはいられない。
人間が選択肢、行動することは社会という「土壌」に種子をまくことに他ならない。

26日は夕方から特定秘密保護法案の衆院本会議の強行採決が迫る国会周辺に向かった。昨年12月に危惧したとおり、自民党の第二次安倍政権は実に危険な選択をし続けている。前日に福島で地方公聴会が開かれ、すべての意見陳述者が反対もしくは審議の継続を求めたにも関わらず、政府の強行採決は直後から報じられていた。自民党の石破幹事長はこの件に関わらず「すべての可能性は排除しない」と発言するが、そもそも「結論ありき」での発言は詐欺師そのものである。
彼が強行しようとしていることはいわば日本の「土壌」の入れ替えである。もしかしたらそれは「特定の人々」のオアシスを作るだけの砂漠化なのかもしれない。

16時過ぎに国会議事堂前に着くと、まずは事堂裏の議員会館前へ、そして官邸前を回る。
議員会館前は園良太ら「へサヨ」グループが、官邸前はそれに飽きたらしい(もしくは主導権が握れないのがわかったらしい)極左グループが陣取る。議員会館前はそれなりに人が集まり、それなりに熱心なコールが続いていたのだが、官邸前が酷かった。それまで極左グループは気の毒な一般参加者に一瞥することすらなく、自分たちの「儀式」を続けるだけだった。それも18時を過ぎて火炎瓶テツさんたちが準備を始めてひとまず安心した。
18時45分から衆院本会議が始まることがTLに流れてきた。

オレは空、ヤマタクさんと合流してドラム隊が準備しているという国会正門前に向かう。
議事堂前の横断歩道を渡る頃には十数人がコールを始めていた。
オレもいつもはレスポンスで使うことはないトラメガを使う。まだ人数が少ないから仕方がないか…と思いつつ、この夜は「よりデカい声」が必要なのだから使うのは当たり前である。
さらにヤマタクさんやパンチョ君はTwitterでの情報拡散と国会周辺の一般参加者へ国会正門前集結の呼びかけに走る。誰が主催者(団体)ということもなく、事前の告知もせず、準備もしていたわけでもない(コール用のトラメガは合わせて3台)のだが、それでも数百人の人々が集まる。多くの「顔馴染み」が集まり、コーラーは反原連と男組のメンバーが中心になって務めた。20時過ぎ、ジャポニスタン君に状況を訊ねた。携帯で情報確認する余裕もなくコールを続けていた。
そして強行採決を知った。居ても立ってもおられず、コールの爆心地へ向かう。
そのときすでに交差点付近の歩道の規制線は崩れかけていた。bc君や何人もの参加者が歩道のぎりぎりまで立って、警備を挟んで国会議事堂へ向かって怒りを表明する。警備の動きも慌しくなり、警官が隙間なく目の前に並び、規制線はコーンから鉄柵に変わった。
ネトウヨ政権へのカウンターのつもりで向かったオレもヘイトデモのカウンターのような錯覚すら覚えた。
その瞬間から「採決撤回」――ただそれだけのシンプルなコールを抗議参加者はひたすら叫んだ。本当に、それだけが言いたいのだ。「秘密保護法採決撤回」のコールは、それから1時間以上続いた。

特定秘密保護法の審議は参議院に移された。
政権はメディアの世論調査の結果を見て強行採決を決意したという。そして「参院では数の力を使う」と明言している。
調査ではほとんどの世論が賛否については3つにわかれている。賛否はともかく、政府が何をやらかすかわからないから「わからない」と答えてしまう人が少なくないのは当然だ。それでも今回ばかりは識者も含めてメディアも当事者となって法案には反対している(反対しているなら視聴者にしっかり伝えろと思うのだが)。政府はこの「下準備」を強行して何を目論んでいるのか。
12月6日の会期末に向けて、たとえそれが砂漠であろうとも抗議者は種をまき続ける。

NO、そしてYESのために/反原発☆渋谷大行進

2013-10-03 05:49:40 | News


日曜日は首都圏反原発連合主催の反原発☆渋谷大行進に参加。前週の東京大行進に続いて今週は渋谷大行進である(もともと<大行進>を使用したのは反原連の方が先だったらしい)。
サウンドカー梯団の後ろから歩き始め、合間合間に沸き起こるコールに同調しながらだんだんとサウンドカーに近づいていく。コールに選ばれる<ことば>は、「原発いらない」「再稼動反対」程度、相変わらずシンプルだ。
原宿署を抜けて千駄ヶ谷小学校付近で、後ろを歩く人たちを引き離すようにサウンドカーがぐんとスピードを上げる。集団はばらけて道路に拡がって行く。オレも早足になりながら、そして警官に注意されながら、プラカードを掲げて車線ぎりぎりまで拡がる。
この日プリントしていったのは勿論このプラカードだ。



これ以外、何があるっていうんだろう。

ゴールが近づき、代々木公園の横をゆっくり下っていくあたりで、RED NOTE SCALE「シュプレヒコール」が流れる。
オレたちのNOは決して否定するためだけのNOではなく、NOの先にはYESがある。オレたちは頑迷に思考停止しているわけではなく、いつだって「選択」し続けようとしてきた。
選択の中にはNOもあるし、YESだってある、それだけの話である。
オレたちの行動を明快に肯定するこの<ことば>を聴き、この日選んだプラカードを一緒に歩く人たちのために掲げる。そしてシュプレヒコールするたびにいつだって思うのだ。
オレたちの「ヒットナンバー」だよな。ここには<NO/YESを叫びながら渋谷を歩く人たち>のすべてがある。

再来週13日にはさらに大きな統一行動が予定されている。今度はダイレクトな抗議行動だ。
年に一回ぐらい、自分の「意志表示」のために歩いたっていいじゃないかと思うのである。

1013 No Nukes Day 原発ゼロ☆統一行動 -福島を忘れるな・再稼働を許すな
日時:2013年10月13日(日)
主催:首都圏反原発連合
共催:さようなら原発1000万人アクション/原発をなくす全国連絡会
協力:脱原発世界会議/経産省前テントひろば/再稼働阻止全国ネットワーク
内容:13:00~ 集会 会場:日比谷公会堂
  (共催:首都圏反原発連合/さようなら原発1000万人アクション/原発をなくす 全国連絡会)
   14:00~ 巨大デモ
  (共催:首都圏反原発連合/さようなら原発1000万人アクション/原発をなくす 全国連絡会)
   17:00~19:00 国会前大集会 
  (主催:首都圏反原発連合)

そしてオレたちは声を上げる/差別撤廃 東京大行進

2013-09-23 14:40:48 | News


昨日は差別撤廃 東京大行進、いよいよ本番。
木野トシキ率いるTokyo Freedom Marching Bandの「自由への賛歌(Hymn to Freedom)」と「勝利をわれらに(We Shall Overcome)」や、第一梯団の先頭を歩くスーツ軍団の迫力やサウンドカー、ドラァグクイーンたちの華やかさは言うまでもない。またデモ出発前と職安通りで空に放たれた風船は実に感動的なヴィジュアルになっていたと思う。
結果的に初めての開催にして3000人近い参加者が新宿の街を歩き、政府に対して<国連人種差別撤廃条約を誠実に履行する>よう求めた。
「東京」の面目は立った。誰が見てもこれは大成功だっただろう。大行進の大成功を受けて、後日政府をはじめとした関係各所に要望書が提出される。

ワシントン大行進へのリスペクトと連帯を表明しドレスコードを掲げた第一梯団、サウンドカーの第二梯団には、ネトウヨによる不穏な行動に関する情報も流れていたので、ひとまず第二梯団の最後尾付近で待機…していたのだが、第二梯団はどんどん参加者が膨らみ始め、結局梯団はふたつに分割され、第三梯団の後ろに急遽「第四梯団」が編成された。
第四梯団には、大行進の盛り上げ役であるマーチングバンドもサウンドカーもドラァグクイーンもいない、実行委員会の「演出」は及ばない梯団になってしまったわけである(ギターの兄さんとラッパ吹きのおじさんやアナーキスト旗軍団はいた)。
こうなると、どうしたって自分たちが声を出すしかない。
都庁を抜けたあたりからひとりの男性がコールを始め、周囲の人間が呼応する。オレもそれに併せてコールし続ける(この男性は職安通りで喉が潰れた)。
「差別をやめろ(やめよう)」「一緒に歩こう」
という2つのシンプルなコールだけをひたすら叫ぶ。感動的なヴィジュアルもいいのだけれども、まずは参加者それぞれの自発的な行動である。
ダイレクトでストレートな「差別をやめろ」というコールはともかく、「一緒に歩こう」という言葉は正直言って気恥ずかしく、自分のキャラクターにはない言葉なのだが(笑)、コールし続けるうちに“自分の言葉”になっていった。
「一緒に歩こう」というコールは、勿論目の前を通り過ぎるパレードへの参加を呼びかける言葉ではあるのだけれども、それだけではなく、ループし続けるうちに「共生」をただシンプルに呼びかける言葉になっていく。
新宿駅前に差し掛かるまではどうなることかと思ったのだが(トラメガ、コーラーの派遣要請をツイートした)、これはこれで実にオレ好みのプリミティブな集団になったのではないかと思う。
これにはTwitNoNukesのデモを思い出さずにはいられなかった。
区役所通りに入ったあたりからはパーカッションも聴こえ始め、コールは徐々に熱を帯びていく。

予想されたネトウヨ、ヘサヨによる妨害はほとんどなかった。
勿論現れなかった、というわけではない。キャスターに巨大なトラメガを乗せて現れたヘサヨは集会前に近くの陸橋で街宣を始めるという相変わらずの便乗っぷりを見せたもののすぐに“排除”された。また小滝橋通りでは第二梯団に向かってビルの上から生卵が投げつけられたという。
しかしはっきりと、カウンターといえるものは新宿駅前でプラカードを掲げた女性だけだったのではないか。
これは実に情けなかったと言わざるを得ない。勿論悪質な便乗や妨害はなくていいものだし、そんな連中には毅然とした態度を取っていくけれども、それにしても吐いた言葉は実行しなければ、それは単なる恥知らずである。
オレは言い続けたいし、そのために実行し続けたい。

その夜、新大久保のカウンターの“拠点”である大使館で関係者、参加者による打ち上げが行なわれた。
NHKの7時のニュースで大行進が大きく取り上げられ、店内はこの日一番というぐらいに沸き立った。
熱かったね。その後、呑みすぎたけれども。

(追記)
柏木公園前の居酒屋でひと休みしたあと皆で新大久保の大使館へ歩いて移動した。
小滝橋通りから職安通りへ曲がったあたりで誰かがしばき隊初出動のときのことを話し始めると(ちょうどクルーが展開されたあたり)、カメラマンのロディさんがガード下の路地に入っていく。
いまだにガード下付近の壁にはレイシストたちの落書きの痕跡がしっかりと残されている。
打ち上げに向かう途中で、その呪詛のような「落書き」を皆で見た。この日は皆の笑顔をたくさん見ることができたけれども、実は、「祭り」の達成感にはまだ程遠い。

水の広場で会いましょう/差別撤廃 東京大行進に向けて(5)

2013-09-22 08:39:28 | News


軽い二日酔いに乾いた身体で、嫌な夢を見てしまった。とてもリアルで嫌な夢だ。
でも現実では明るい夢を見たいね。

今日は新宿を歩く。
50年前の出来事をリスペクトしてパレードの先頭には正装の集団が歩く。オレはいつも通りの格好でいく。それが50年前と2013年がつながっているってことだから。
いつもは反差別の問題で<悪い人>を受け持っているカウンター諸君も、今日一日は<いい人>になっているだろう(一部を除く)。

では水の広場、新宿の街で会いましょう。

差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom
日時:9月22日(日)12時半集合/13時出発
集合:新宿中央公園 水の広場

<数年前から、東京の新大久保や大坂の鶴橋など、全国各地でレイシスト団体によるヘイトスピーチ・デモや街宣活動が繰り返し行われてきました。私たちはこのような卑劣なデモに対して、2013年2月から様々な形の抗議活動を行なってきました。そして、7月14日に大阪で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード」への連帯をベースにしながら、人種、国籍、ジェンダーその他の偏見の範疇に基づくすべての形態の差別に反対するデモを9月22日に行ないます。>
People's Front of Anti Racism/差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom公式サイト

「どっちもどっち」の意味/差別撤廃 東京大行進に向けて(4)

2013-09-20 01:25:59 | News
差別はなぜいけないのか?またオレはなぜカウンターするのか?
差別の在り処を巡ってカウンター諸氏に言いがかりをつけてくるような連中が後を絶たない。



一連の新大久保(鶴橋)でのカウンター行動とヘイトスピーチの関係についてはこれ以上シンプルでわかりやすい図解はない。日本人を中心にしたカウンターとレイシストというマジョリティの間で路上で交わされるのは<罵倒の応酬>であり、レイシストによるマイノリティ(この場合は在日、東北アジア出身者)への出自に対する罵倒についてのみ<ヘイトスピーチ>と定義されている。ヘイトスピーチとは単に「言葉の汚さ」を意味するものではなく、マジョリティからマイノリティへ向けられた差別を扇動し、助長する<表現>であることは明らかだ。議論の余地はほとんどないといっていい。
となると噛み付きやすいのは、本来ヘイトスピーチとはまったく関係ないはずの<罵倒の応酬>だ。
これを本来のヘイトスピーチの話題から棚上げし、「どっちもどっち」と言うのは簡単だ。レイシストをしばき隊を始めとするカウンター勢力は、まさに「どっちもどっち」の状況を作り出し、レイシストたちのヘイト(憎悪)の向かう先をマイノリティではなく、マジョリティに引き戻す(逸らす)ことが目的であっただろうし、実際その意味でカウンターは着実に成功している(そしてどこまでいっても「どっちもどっち」でしかいられない警備警察を動かし、報道を喚起する意図もあっただろう)。
カウンターにとっては「どっちもどっち」上等、というわけだ。
しかし「どっちもどっち」という言葉は、レイシストとカウンターの攻防を高みの見物で評している言葉ではなく、実はそういうしかない本人の無定見なスタンスを図らずも表明しているに過ぎない。

差別はいけないという。
差別はなくさなければいけないという。
そしてカウンターはそのためにある。それは確かだろう。
「あれはいじめだ」
「いじめは止めなくちゃいけない」
まさにその通りである。
しかし一番大事なのは、「醜悪な事態」が目の前で起こっているという事実で、カウンターの動機は後付けと言っていい。
目の前で起こっている状況に対して個人がいかに判断し、行動するか。それは実際のところ、論理を越えた行動なのだ。リーダーや指導者がいるわけではない。個人で参加しているカウンターたちは、車座集会をして行動方針を決めているわけではないのだ。
オレたちは自分で判断し、行動する。
レイシストをしばき隊の野間さんは「どんな手段を使ってでもレイシストを止める(By Any Means Necessary)」と宣言している。それは、まず「目の前で起こっている醜悪な事態を何が何でも止めさせる」ということである。
醜悪な事態、それも「目の前」で起こっている状況に対して人が取るべき態度というのは「どっちもどっち」ではなく、「どちらか」でしかない。
そして「どちらか」のダイレクトな行動だけが状況を食い止め続けるのは紛れのない事実なのだと思う。
(当日までまだ続く)

差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom
日時:9月22日(日)12時半集合/13時出発
集合:新宿中央公園 水の広場

<数年前から、東京の新大久保や大坂の鶴橋など、全国各地でレイシスト団体によるヘイトスピーチ・デモや街宣活動が繰り返し行われてきました。私たちはこのような卑劣なデモに対して、2013年2月から様々な形の抗議活動を行なってきました。そして、7月14日に大阪で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード」への連帯をベースにしながら、人種、国籍、ジェンダーその他の偏見の範疇に基づくすべての形態の差別に反対するデモを9月22日に行ないます。>
People's Front of Anti Racism/差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom公式サイト

予定調和を越えるとき/差別撤廃 東京大行進に向けて(3)

2013-09-18 21:19:20 | News
当事者とは何か。在特会と在日外国人の関係は加害者と被害者という意味で本来の当事者だろう。
しかしヘイトを吐く人間と吐かれる人間だけが当事者なのか。
加害者にとっては声を上げる当事者が実際の被害者であればあるほど都合がいい。それはとてもわかりやすい構図である。加害者にとって当事者は在日で、反日であって欲しい。それが彼らの予定調和を約束してくれる。
また一方で一部のサヨクのように当事者に「寄り添う」という形で、非常に屈折した当事者性をアピールする人たちもいる。彼らにとって矢面に立つ(べき)なのは当事者同士で、結局「わかりやすい構図」を温存したまま、目の前の問題の解決よりも、終わりのない議論(勉強会)という予定調和を望んでいるように見える。

<リベラルが親になってしまったゲームとは、周到な責任逃れのゲームである。「私には何ができるのだろうか」という問いがしばしば発せられる。(中略)リベラルは、自分たちがリベラルであることをできるだけ多くの黒人に証明してみせるのに多くの時間を消費する。これは、自分たちは黒人の問題に直面しているという誤った確信から生じている。黒人には何の関係もない。問題は白人人種主義であり(中略)白人リベラルは、黒人の問題は黒人自身に任せて、彼らはわれわれの社会の本当の悪―白人人種主義を問題にしなければならない。>(フランク・トーク=スティーヴ・ビコ「白い皮膚に黒い魂?」/スティーヴ・ビコ『俺は書きたいことを書く 黒人意識運動の思想』峯陽一、前田礼、神野明=訳/現代企画社)

40年前に書かれた若きビコの言葉はそのまま日本の状況にも当てはめることができる。

勿論それまで活動していた在日に加えて、カウンターの高揚によって勇気付けられた在日の参加者の数も増えているだろう。しかし、この半年間に最も急増したのは、「オレだって当事者だ」と自覚した日本人だっただろうと思う。加害者と被害者という当事者同士の単純な構図だけではなく、そこ(新大久保=東京=日本)で共に生きるコミュニティを見出し、加害者に対して怒りの声を上げている。
新大久保でのカウンターの現場で罵倒と共に多く聞くことができた言葉は、
「おまえらは日本の恥だ」
という言葉だったと思う(勿論オレも言った)。右翼でもない日本人が、構えることもなく、自然にこんな言葉を在特会にぶつけた。その「日本」とは勿論国家でも政府でもなく、日本や東京、そして新大久保というコミュニティのことだろう。加害者でも被害者でもなく、同じ場所に共に生きる「当事者」として、彼らの悪ふざけやいじめに怒りの声を上げたわけだ。
新大久保ではカウンターを通してきっと「新しい関係」が生まれつつある。

「仲良くしようぜ」というフレーズも、それは怒りの裏返しであっただろうと思う。またそれは挑発だったのかもしれない。
誰とだっていつでも仲良くできるほどお人好しじゃない。
しかし、あの予定調和の憎悪が渦巻く街でこのフレーズを掲げるということは、例えば同じバスに乗り、隣り合わせた身も知らぬ乗客と「仲良く」するようなものである。自分を甘やかしてくれる他人ばかりではない。しかし自分にとって都合の悪い隣人に意味不明な敵意を向けるのではなく、まず他人を他人として認めろ、ということである。
そこからまた新しい関係が始まる(=仲良くしようぜ)のである。

差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom
日時:9月22日(日)12時半集合/13時出発
集合:新宿中央公園 水の広場

<数年前から、東京の新大久保や大坂の鶴橋など、全国各地でレイシスト団体によるヘイトスピーチ・デモや街宣活動が繰り返し行われてきました。私たちはこのような卑劣なデモに対して、2013年2月から様々な形の抗議活動を行なってきました。そして、7月14日に大阪で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード」への連帯をベースにしながら、人種、国籍、ジェンダーその他の偏見の範疇に基づくすべての形態の差別に反対するデモを9月22日に行ないます。>
People's Front of Anti Racism/差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom公式サイト