見出しに「光差し込む詩紡ぐ」、「吉増剛造さんと和合亮一さん 新作と対談」とある。吉増剛造氏の詩「石巻―2121.2.11」、和合亮一氏の詩「光の走者」、そしてお二人の対談が掲載されている。聞き手、構成は河北新報生活文化部副部長の宮田建氏。
《吉増剛造、あるいは儚い旅人》
さて、吉増剛造氏は、現在の詩人として、谷川俊太郎と双壁をなす偉大な詩人である。すでに神話的存在であり、〈氏〉とか〈さん〉とかつけるのはかえって失礼であるとすら思う。ということで、吉増剛造であるが、大岡信なく、田村隆一なく、もちろんその前に鮎川信夫であるとか多くの戦後の偉大な詩人たちが幽明の境を超えたいま、このおふたりが日本の詩人の双璧をなすといって異論はないはずである。
谷川俊太郎は、現在の日本最大の詩人である。それに対し、吉増剛造は、現在の日本最大の現代詩人である。「詩」とは何か、「現代詩」とは何か、については、ペンディングしておく。ただ、詩に関心を持つ人ならこのニュアンスは通じるのではないかと思う。
正直なことを言うと、吉増剛造は苦手な詩人である。
その吉増が、2019年夏、宮城県石巻市の鮎川に住まった。2019年、総合芸術祭「リボーンアート・フェスティバル(RAF)」における「詩人の家」というイベントとして。希望者は予約して一晩一緒に泊まれる、とか企画はあったのだが、仕事の都合などもあるとはいえ、積極的に足を運ぶことをしなかった。
仮にも詩を書くという人間が、こういう機会を逃すとはあり得ることではない、とお叱りを受けるかもしれない。特に、宮城県詩人会の佐藤洋子さんには、しばらく、コロナ云々でお会いする機会がないからではあるが、そうに違いない。
吉増剛造は、苦手だ。「オシリス、石の神」(1984年)以来、そうだ。もっとも、苦手ではない現代の詩人というとむしろ数少ないかもしれない。
ちょっと話がそれるが、考えてみると、小説では、好んで読む小説家はごく限られた人数である。読んだこともない作家の方が圧倒的に多い。それで特にだれからか責められるなどということはないはずである。しかし、詩は、一定の人数のある詩人たちについては読んでいないと責められるような気がしてしまう。いや、実際には、だれからも責められたことなどないのだが(佐藤洋子さんにはあったかもしれない)、そんなふうに思い込んでしまっている。そして、その読むべき詩人の筆頭が、吉増剛造であるに違いない。もし、現代詩人であると自称するならなおさら必修科目のように、必ずや読んでいなければならない詩人である、はずである。そして私は吉増剛造を読んでいない。(念のため言っておくと、私は、現代詩人であるなどと自称したことはない。詩人とも称したことがない。詩人のふりをするとは言ったことがある。)
『オシリス、石の神』以降、詩集は買っていないし、時折開いてみる現代詩手帖で見かけることがあっても、斜め読みしてう~んとうなって終わりである。
といいつつ、本棚を見てみると思潮社現代詩文庫版の詩集(1975年の第6刷)がある。開いてみると、冒頭は「出発」という詩で、「ジーナ・ロロブリジダと結婚する夢は消えた/彼女はインポをきらうだろう」と始まる。これは読める。当時、読み通したはずであるが、しかし記憶にはないが、この詩は面白く読めそうである。
『オシリス、石の神』以降、苦手となった、というところに、詩を書こうとする者としての私の限界がある、のだろう。いや、被害妄想めいた思い込みに過ぎないかもしれない。しかし、これは決定的なことに違いない。
などと、長々と書いてしまったが、私の吉増剛造コンプレックスはさておき、対談で、吉増は石巻市鮎川で夏を過ごし、その後、月1回づつ通っていると語る。
「吉増 私は皆さんの土地に、なるべく姿の見えない旅人のように接近してきた。2019年、…鮎川地区の元商店に「詩人の家」をこしらえてもらい、ひと夏を過ごした。その後金華山を眼前に望む鮎川…に月1度通うという足取りが生じた。いったい誰が呼んでいるのだろう。その誘われ方が実に微妙で、はかない。」
彼が、微妙で、はかない誘われ方をした、姿が見えないようにこの地域にやってきた、というのであれば、私が会いに行かなかったことも当然のことかもしれない。私の方は、全く誘われてはいなかったのかもしれない。
しかし、彼はそこにいた。ここ気仙沼からわずか数十キロ先の海岸に住まっていた。東北の、吉増に関心のある人びとは、一般に広く誘われていた。にもかかわらず、私は行けなかった、断絶を超えることができなかった。
私のそんなグダグダした思いは放っておいていいことだが、吉増は、震災の後の土地にやってきて、途方もない断絶を見て、しかし、それを埋めようとし、手探りをするように一歩を進み始めた。キリストのような風貌で、彼は、やってきた、のだ。
「私たちの知らない「水の手」が詩を触って濡らしているような状態に入り、ようやく不思議な言葉の状態を書き出せた感じがした。大変な苦難に近づく道には途方もない亀裂、断絶がある。それを言葉の光によって埋める努力をわずかでも開始することができた。」
この水とは、石巻を河口とする北上川の水であり、海の水であり、もちろん、大震災の津波の水であり、大川小を呑み込んだ水であり、現在の水であり、松尾芭蕉の時代の水でもある。そういう水からの触手が詩人に伸びてきて、ようやく何かをつかみかけたのだという。
しかし、言葉の光によって埋める努力は、心細く、かすかで、はかない。むかしの芭蕉も心細く、みちのくの細い道を歩いた。吉増剛造の歩く道も同様である。
「石巻市の日和山には松尾芭蕉も曽良と登っている。…芭蕉の言葉で言うと「心細く堤防を歩く」。「どう説明していいか分からない」という心の状態が、かすかな心の動きを見つける回路だと気付いた。北上川そばの大川小の向こうの宇宙から芭蕉と曽良という旅人が3、400年前に心細く幻のように歩いている姿を後続の旅人が見ている。なんとかしてそこに、かすかな風景をつくりたい。」
彼の歩こうとする道は、「北上川そばの大川小の向こうの宇宙から」続いている道である。
「本当ならその細道を「私には見えません、感じられません」と言いながら、その煉獄を歩み続けなければいけないのかもしれない。」
言うまでもなく、この煉獄とは、死後の世界ではない。向こうの世界に渡った者を見送り続ける私たちが生きているこの世界のことである。たくさんの子どもたち、たくさんの大人たちを葬送し続ける私たち。
この世界で、心細く、かすかに、はかなく言葉を紡いでいく。紡ぎ続ける。
吉増は、最後に、下記のように語る。
「詩は変化そのもの、文化そのものだ。あらゆることに出会って、言葉に変える機会を持つものを「詩人」という。…何千年かの長い歴史を刻み、それが違う形の表現になっていくと詩の歴史ということになるのだろう。」
私もそういう歴史の中で、言葉を紡ぎ出す、というふうにありたいものだ。
《和合亮一の光》
一方の和合亮一氏は、震災以前から高名な詩人であるが、震災のあと、ある決定的な変容を遂げた、不可逆な変化を被った、その不可逆性の証人として、屹立している、というべきだろう。長い歴史の中で、違う表現を探り、言葉を繰り出しつづける者のひとり。
「和合 波にさらわれてしまった友人や知人、特に教え子に手紙を書くような気持ちで原点に返った。この10年、震災と向き合ってきたこともあり、全てをさらった海の水平線から光が差してくるイメージが浮かんだ。被災者に話を聞く活動を続けている。いまだに昨日のことのように津波を思い出し、癒えていない方々がいる。安易に「光」とは書けない。そのせめぎ合いの中で書いた。」
和合氏の掲載作は、「光の走者」である。安易に光とは書けない、しかし、光と書く、というせめぎ合い。
「旅人とそこにずっと住まう者。二つの感覚を私たちも持たなくてはいけない。生き残った私たちは常に亡くなった人に話し掛け、こなたとかなたを旅する暮らしに変わった。東北の人間がたどり着く所は「失われた何かを取り戻す」ではなく、新しい暮らしの中でもっと大きな何かと向き合うことではないか」
和合氏は、福島在住であり、まさしく住まう者であるが、彼岸と此岸、あの世とこの世を行き来する旅人でもあるという。吉増剛造氏が旅する者であると同時に住まう者であることとパラレルである。和合氏と吉増氏は、違うのに同じ、同じなのに違う。
「震災後、「故郷」「光」「風」「悲しみ」「涙」を繰り返し書いてきたが、それまで一度もその言葉を書こうと思ったことがなかった。いま煉獄にいるのならば「故郷」「風」「光」という言葉を捉え直したい。」
一般に、詩になじまない人々の間では、「故郷」「光」「風」「悲しみ」「涙」は、詩にふさわしいことばだと思われているかもしれない。歌謡曲(とか、その変種としてのJポップ)には、よく登場する言葉である。〈大衆〉だとか、(市井の人々)とか呼ばれる人々の間では、こういう言葉を使って詩は書かれると思われているのかもしれない。しかし、これは、一般に、いささかでも現代の詩になじんだ人々の間では、詩に使うにはなかなか難しい言葉である。
今に至って、和合氏は、これらの言葉を使おうとする。
一般をひっくり返した一般をさらにひっくり返した先の一般、などと言うややこしい文彩、言葉のテクニック、小賢しいレトリックの問題ではない。
震災の後にたどり着いた普遍、ということなのかもしれない。
「人間は寄る辺のない気持ちになるんだと思った。…初めて本当の自分と出会えた気がする。無力さや絶望という影に直面した。」
2011年3月11日のあと、3月16日に、和合氏はツイッターでつぶやき始める。
「当時、ツイッターは詩のつもりではなかった。」
この紙面ではなく、詩集「詩の礫」から別に引くが、和合氏は、ツイッターにこんな言葉を書きつける。午後4時30分である。
「行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。」(『詩の礫』 10ページ)
これはたしかに、詩として書かれてはいないだろう。
続けて、この言葉。
「放射能が降っています。静かな夜です。」(『詩の礫』 10ページ)
この時点では、これも、詩の作品という意識ではなく書いているのだろう。
しかし、この一行を書き付けたことが、和合亮一を不可逆的に変えた、というべきかもしれない。
震災の後のあまたの詩のなかから、一行を選べ、と言われたら、この一行をこそ選ぶ、そういう一行たり得たものである、と私は思う。
また河北新報の紙面に戻ると、
「たった一言が10年の全てや人生を言い表す瞬間がある。」
10年前の、震災直後のあの一言に比肩するような言葉を、和合氏は探し求めているのだろう。(私も、また、東北の沿岸の片隅の災害を蒙った街に引き籠り、建設が進みつつある工作物に身を隠しながら、語るべき言葉を探し求めている。)
ところで、昨夜、NHKテレビの、震災から十年と銘打つ歌番組で陸前高田出身の千昌夫が、「北国の春」を唄うのを聞いて、涙してしまった。歌謡曲である。演歌である。いったい私はどうしてしまったのだろう。自らを訝っている。北国の故郷の厳しい冬を過ぎた、春の風、春の光を唄う歌である。
《恩寵、あるいは吉増剛造の詩「石巻―2021.2.11」》
紙面に掲載の吉増剛造の詩、「石巻―2021.2.11」は、石巻と言いながら、半分は本塩釜で、他の地名も出てきて、石巻のことは、三分の一以下とはどういうことだろう、と、吉増氏も、「どう説明していいか分からない」のかもしれないが、私も、どう読み進めば良いのか分からない。気仙沼に住むものから言えば、塩釜と石巻は全く違う。同じ宮城県内の漁港都市であるが、気仙沼と石巻と塩釜は全く違う。気仙沼というタイトルで、半分以上は石巻のことを書かれたのでは落胆してしまう。石巻の方々は、この詩を読んでいったいどんな思いを抱かれるのだろう?(市の名前は塩竈が正しいとされるらしいが、JRの駅の名前は塩釜(とか本塩釜)で、私たちは物心ついてから塩釜と思い込んできたので、ここでは、塩釜と書く。)
そんなところに囚われて、私は、吉増氏のように、かすかな心の動きを見つける回路を、どこにどう見出すべきなのか分からない。とりあえずは、吉増氏とともに途方に暮れて彷徨い、芭蕉さんや曽良さんの後ろ姿を追い求めてさ迷う、読みながらさ迷う、読み終えても、当面、そのままさ迷う、目隠しをされたようにさ迷い続ける他ない。さ迷ったあげくに、かすかに何かが見えてくるかもしれない。そんな淡い期待を寄せて、読む、ということにしかならないのだろう。
その先に失われたかのような《海》を再発見して、再び「”海よ“」と発語することができる、そういう時を求めて。
ところで、この後、3月7日の同じく河北新報の東北の本棚の欄で、宮城県詩人会のアンソロジー『宮城の現代詩2020』が紹介されており、竹内英輔氏、丹野文夫氏の作品と並べて、私の詩「詩の一行は」を取り上げていただいている。
冒頭、「詩の一行は神の恩寵である」で始まる第一蓮目は、これまでどこかのだれかが言っていたことが、私を通して再話された部分であり、独創でもなんでもなく、世に流布する一般論である(ただし、大衆的に広まっている一般論ではなく、相応に深く物音を考えようとする人々の間での一般論というべきか)。言ってみれば、國分功一郎氏の語る「中動態」的な事態と言っていいと思う。ここで「中動態」など何のことかとはなるが、説明は省く。
第2連目の
「海辺の苫屋の窓に
金色の絵具で書き記す
ガラスの向こうに海と岬とがある」
というところが、実は、この詩を書き始める発端の出会いであった。これもまた、河北新報である。あるコラム、そこに掲載された写真が、私のなかに、何かを召喚した。
そのコラムは、何の記事で、何の写真だったか。
ご期待の通り、石巻市鮎川、吉増剛造の「詩人の家」である。窓ガラスに、詩人が書きつけた言葉が残されている写真。どんな言葉だったかは記憶にない。
その写真が、私のなかにある言葉をもたらした。ある言葉が降りてきた。
その一行は、神の恩寵であり、実は、吉増剛造の恩寵であった。その一行が、河北新報の宮田記者の目にとまった、ということであれば、これもまた吉増剛造の恩寵に他ならない、ということになる。
ところで、私の詩は、
「たとえば
海が光っていると」
と、閉じたのであった。
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